7月 8th, 2009 § 首 はコメントを受け付けていません § permalink

女の首に指を広げて緩く掴むようにしながら、こんなにも細かったかと、躊躇いのようなものが生まれ、同時に幼い頃見上げた父親の首を憶い出した。

左手を上手く折って素早く自分の首の根を手のひらで打つと、顎の後ろあたりに大きな丸い血の跡が残った。父親は潰れた蚊の屍骸を首に残しまま、その首より数倍は巨大な樹を見上げていた。
ことある度に細かい小言や世話を焼く母親と違って、見つめられることは即ち睨みつけられることだった父親のにこりともしない表情を、絶えずおそろしいと感じていたのは、そもそも親に隠れて悪戯を繰り返していたせいでもある。異国でふいに女性からどうしてあなたは怒っているのかと、唐突に迫られたことがあり、ただ無感覚に人を眺める自分の表情に気づき、あの父親の顔をしているのだと思った。帰国して成田から電車に揺られた時に、この国の人間の顔は内蔵を曝しているようだと思っていた。
今思えば、まだ若い年齢の父親が、がむしゃらな仕事の日々の隙間で当惑して自分の子を眺めていたのだと察しはつくが、その当惑は父親固有のものではなく、あの時代に水平に広がった何かに腹を立てているような憮然とした表情を流行言葉のように皆が孕ませてはいなかったか。大人の疲弊というより、先の見えないような切断された、放心の表情だった。

身体を仰向けにして女から離れたのを訝ったか女は、胸の上に髪を広げて頭を乗せた。肋骨のあたりに女の乳房が柔らかく潰れた。天井に反射する外の木陰の揺れる反射から、父親が見上げた巨木が枝を壁まで広げて浮かび、女の髪の毛の中に指を通して頭皮というより頭蓋の形を辿った。まだ若い俺たちがすっと時間を突っ切って、老いさらばえて、水分も脂も抜けた皮膚を寄せて抱き合っている錯覚にたゆたう深みに落ちていく。窓から流れる風が身体を渡り、汗も引き、女の寝息も聴こえ始めると、このままミイラになったかしてでも、こうしていられることが気楽だと、再びまた女の首に指を広げた。

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7月 8th, 2009 § 箱 はコメントを受け付けていません § permalink

雑魚寝していた大方が交代でシャワーを浴び、始発が動き始める時間に手を上げて、帰って寝るよ。またねとドアの外へ出て行った。
深酒をしたひとりはまだ床に潰れている。
寝ている者に気をつかって音を忍ばせながら、でもなんだか嬉々として片付けをするこの部屋の主である有坂に、武藤は小さく声をかけた。
「引っ越してどのくらいになる。もう2年は過ぎていると思うが。何にも無いって不便じゃないか」
蛇口を細く絞ったキチンの流しで皿やグラスを洗いながら、
「時々皆が来て、散らかしてくれるように空っぽにしているのよ」
「まあ、狭い部屋に身動きとれないガラクタを詰め込む側としては、羨ましいような気もするが。でも病的じゃないか」
汚れの落ちた食器を渡され、布巾で水気を拭い、目の前に伸ばされた指で示した収納の食器棚に、ここか?といちいち置く場所を確かめた。武藤は有坂の研究室のありふれた様子を憶い出して、
「職場は俺たちと変わりないしさ」
有坂に隠した秘密をそっと教えろという促しを語尾に加えた。
顎がリビングのフロアーに残っている食器と残飯を持ってこいと動いたので、武藤はリビングへ戻り、髪の毛に指先を突っ込んで突っ伏している浜村の尻を踏みつけると、浜村はぐえと鳴いたがそのまままた鼾をはじめた。
有坂は流しの中へ、最後の汚れた食器を重ねて振り返り、今度は冷蔵庫を顎で示して、好きなもの飲めよと、自分は既にペリエを口に流し込んでいた。
冷凍庫に氷あずきのアイスがあったので、これもらうよと冷蔵庫を背にキチンの床に座り、頬張った。
「仕事を終えて空っぽの箱に戻ってくるだろう。床にそのまま寝転んで、気づけば朝となっていて。ああ寝ていたんだと思うわけだ。シャワーを浴びて、あの職場のデスクにまた戻る。それだけさ」

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残酷

7月 8th, 2009 § 残酷 はコメントを受け付けていません § permalink

「残酷な事は理解されること。君のことはわかっているって言われることよ。分かち合えない。他人だと言われることが、もっとも優しい言葉だわ」
礼子は、ピーナッツを口に放り入れた。
真っ昼間からカクテルをもう5杯目で、少し呂律が回っていない。
「面倒くさいよな。あれこれ」
光一も、ウヰスキーのおかわりを注文し、グラスの氷を口に頬張ると、
「あなたも同じね。異質なものへこそ丁寧にアプローチするものよ。ろくな大人になれないわ。期待しているわけじゃないけど」
俺は大人じゃないってか。光一は気にも留めず、ウエイターの運んだ新しいグラスの中に指を入れてかきまぜた。
礼子は、頬を赤く染めて、独り言のように、
「だから家族がもっとも残酷なのよ。一番近くにいて他人と認めないから」

光一はこいつはなにとんがったことを言ってんだと思った。泣いたら抱きしめてやるぜ。それが優しさってもんじゃないのか。光一のココロを読んだように礼子は、
「光一って名前はいいわ。ひかりってのがいいと思う。でも、あなたは自分に興味を持っていないというのが最悪。最低の欠点よ。死ぬまで変わらないだろうけど」
「喧嘩を売ってんの?」
「愛の告白よ」
礼子は澄ました声であっさりと言った。

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白衣

7月 7th, 2009 § 白衣 はコメントを受け付けていません § permalink

新聞の一面に白衣を着て木陰で煙草を吸っている男の変哲も無い様子の写真が大きく飾られ、白衣の殺戮と見出しが掲載された。

昼飯を終え、回覧板を持って佐藤時男さん(68歳)が、阿川健司さん(74歳)宅の玄関のドアの呼び鈴を午後1時30分に押した。鍵がかけられていなかったので、ドアを開けながら大きな声で阿川さんの名前を呼んだ。返事はなかったがすぐに匂いに気づき怖くなって自宅へ駆け戻り警察へ電話をした。付近を巡回していた榊伸彦(28歳)巡査が自転車でまずかけつけて阿川さん宅へ入ると、台所に大量に流血した人間が数人重なるように倒れている。子供を含めて5人を確認している。すでにみな脈はなかったが、救急車を呼び、本部にも応援依頼の電話をしている。家の中を巡ると、リビングの窓が少し開けられ、血の跡が外へ続いているので、庭に出ると、芝生に凶器とみられる血のついた出刃が三本転がっており、庭の奥の松の根元に白い白衣が血で汚れた男が座っている。この時はまさか、犯人とは思わずに榊巡査は近づいて大丈夫かと声をかけた。男は何食わぬ表情で頭を下げ、煙草ありますかと尋ねたという。巡査は煙草を差し出しながら、この時犯人かもしれないと思ったと後で証言している。理由は白衣という場所に似合わないものを着て、少しも怯えた様子ではなかったことと、血がこびりついた両手を拭こうともせずに煙草を受け取ったからだと説明したが、それを聞いた担当の刑事は、すぐに押し倒せと吐いた。
榊巡査は、白衣の男の前に片膝を立ててしゃがみ、いつでも迎え撃つ姿勢で一体どうしたと声をかけている。男はしばらく黙ったままだったが、あんたが手錠をかけるのと榊巡査の目をみた。巡査はそれに答えずに名前と住所はと聞くと、男は白衣の下に手を差し入れたので腰の警棒に手を添えたが、男は財布を取り出し、汚れちまうなと呟きながら免許証を差し出している。逃げないよ。と呟きに加えるように口にして、再び煙草をせがんだ。あの目は狂った人間のものではありませんでした。と榊巡査は、応援が駆けつけるまで、そのまま離れた場所に座ったままだった説明をした。

新聞に掲載された写真は、佐藤時男さんの長男の一朗さん(38歳)が、自宅の庭から望遠レンズでこの時に撮影した。足の捻挫で会社を休んでいた一朗さんは、父親から隣が大変だなんだかおかしいと聞き、趣味のデジタルカメラを持って庭先の塀に身を隠すようにして隣をのぞいたと後で証言した。訪れた新聞社の記者は、これ使わせてくださいと思ってもいない金額を示したので、データメディアをそのまま差し出したという。
現在取り調べをうけている被疑者は外科医の松下浩二(31歳)。亡くなったのは、阿川さんと家族で、妻の佐知子さん(68歳)、同居していた長男の一男さん(42歳)、長男の妻の梓さん(36歳)、孫の健太郎君(8歳)の5名。平日に子供も学校を休ませ、長男も会社に前の日に休む旨を届けている。目下被疑者から詳細を聞き出しているが、黙秘をつづけている。現場検証から、犯行は早朝に行われていることがわかった。つまり、昼過ぎまでの6,7時間の間、被疑者の松下浩二は、庭の松の下に座っていたことになる。死因は失血死で、全員動脈を断ち切られている。解剖の結果阿川さんを除いた家族から大量の睡眠薬服用が認められ、争った跡はない。阿川さん本人には顔面と頭部、頸部に殴られた鬱血と腫れがあり、睡眠薬は検出されなかった。

走り書きのメモを読み終えた編集長の田村は新聞を机に放り投げ、これちょっとおかしいだろ。と後藤を睨んだ。
「怨恨でしょうね。でも、被疑者が医者ってのは、よっぽどですね」
田村はおうむ返しに、よっぽどだと呟いて、恨みってのはどうにも消えねえ。じゅくじゅく育つからなと付け加えた。

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街角

7月 7th, 2009 § 街角 はコメントを受け付けていません § permalink

気づけば人影の無い街角に立っていた。なぜ自分がここにいるのか分からなかったが、そう考えているということは、我にかえった。正気になれたと即座に思った。そういう時間の経過の感覚は身体のどこかに刻まれている。両手には何も持たず、見た事の無いコートを羽織り、膝までのゴム長靴を履き、左手の腕時計は午後2時30分を示し、紅白の紐で痩せた腕にくくりつけられていた。顎に触れると汚れがこびりついたような堅い髭が伸び、頭皮が痒かった。道路の中央だったので、脇まで退いてコンクリートの塊に座りコートのポケットを探ると試したことのない銘柄の煙草とマッチ箱があり、それを銜えて火をつけ、身体のひとつひとつを確認していった。ジーンズの脹脛のあたりが裂けて、肉には瘡蓋となった傷がある。額には小さな瘤があって痛みが残っていた。そうした全てに憶えがなかった。

街角とはいっても、人が住まなくなったような廃屋が並ぶ一角で、振り返ると午後の陽射しを照り返す小さな入り江に港と海が見えた。煙草2本をつづけて根元まで吸い込み、喉に残ったようなものをアスファルトに吐くと黒い血の塊が含まれていた。指を差し込むと奥歯がぐらつき頬の内側が切れていた。胸の内側のポケットには一度水に濡れたような財布があり、中身をみると、免許証とカードがあり、金も札が数枚入っている。全て忘れているわけじゃない。免許証の写真と名前を眺め憶い出すことの出来る記憶を探した。一昔前には蒸気をだして稼働していたような工場の廃屋の角に貼られた地名と番地にも憶えがない。どうやら馴染んだ土地とは大きく違った場所にいるが、そのほうがましだとも思えた。瞳を開いたままでいると、光景のいちいちが水分補給をするような勢いで新鮮にみえてしまうので、記憶を辿る集中ができなかった。

港まで歩き始めてから立ち止まり、投げ出されたような廃屋の並ぶ街角を再び眺めて、そうか自分と同じような光景を探していたのかもしれない。景色とイコールとなることで元に戻れたか。銭湯でも探して湯に身体を沈めよう。そこからゆっくりはじめることにする。と決めてから、はじめなくてもいいかもしれない。聞いた事の無い明るい声で呟いた。

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