粉端徒行

5月 22nd, 2016 粉端徒行 はコメントを受け付けていません。

 晨明粉の雪が降り積もりおかしなもので凍地に軽やかさが戻ったと感じる。降るものが降らず溶解遅延の根雪は昼夜問わずに冷え冷えと白濁し辺りを静めていたので窓の内側では身動きを忍ぶ時間が長々と在った。外にでなかったわけではない。凍結面に足元を掬われジャリジャリと軋ませる徘徊は家の内に戻ってストーブで暖めても鎮静の余韻は消えなかった。唯あたりがふわりとしただけの瑣末な変化に誘われ腰に樏をさげ歩き出た頃になって地には吹けば飛ぶ粒子が舞い白く発光する陽射しが青碧の空にある。気温はむしろ低いのかもしれない。無論狩り採集をするとかクロスカントリーで汗を流すとか記録機材を持って観察をするとかの理由を当てはめる種類の移動誘惑ではない。目的のない散策にすぎないが夢遊病のような甘い行動だとどこか遠くから自身をみている。緑葉の鬱蒼とした季節にはなかなか足の届かなかった場所へ辿る事ができるだろう。とは言え自覚的に行方を測る気分ではなく気象気圧に促された気侭なものでよかった。数十年前には薄ばかりだったと聞いた最近は大掛かりな間伐も行われている唐松植林の比較的凹凸の少ない地は臑程度までの粉末を蹴ってすすむことができたが軈て植林境界を踏み越え、やや勾配が目前に迫るようになり、空間を遮っていた葉が落ち奥行きが透き通って見通しのよくなった枯枝が、大地の繊毛と化した原生照葉樹の森へ入ると積雪量が増え、途端に雪に隠された深みに太腿まで踏み落としてから慌てて樏を長靴に取り付ける。浮ついた歩みなったのはいいが斜度のある昇りのせいか長靴の中の靴下が脱げかけるので、その度に手を差し入れて踵の下から引きあげる。靴の中踝あたりまでの浅いものを履いたからか同じことが幾度も繰りかえされるので小さな平坦をみつけると到頭どっかり雪面に深々と腰を降ろし、湯気のあがる両足を抜き脇の雪を掴んで口に含んだ。正午前淡く残って流れていた雲が消え上空の深さが見えぬほど一色にて晴れている。一昨年の大雪と異なりエルニーニョの影響で積雪の量が減ったらしいがそれでも標高千数百メートルを越えれば零下の大気は地の隆起の突端から舐め下ろすように降ったものを幾層にも絡めて山裾野の東側へ貼つけているので、腰迄粉の中というわけではない。降ったばかりの粉雪は凍てついた地へと柔らかくこちらを導く効果を示しているのであって、これまでを覆い隠すわけではないと判る。

 歩行の癖か足首の奇形、あるいは姿勢の歪みもあるのだろうか足に張り付いたままズレることのなかった左足まで素足になって湿った鍋蓋のような靴下をコートの内ポエットにまるめ込み足の裏を指で揉んでから眼下に広がる白い山裾野を一瞥し、仰向けに背を放り倒し瞼を閉じると、やおら距離が見える聴こえ方で水平と垂直の夫々の音響が、気づきの海馬を耕すように眉間にゆっくりと細かく刻まれるだった。就中水平の縁という位置にそれまで気づかなかった細いせせらぎの音が軽妙に踊って頤の裏に直に伝わるようにちろちろちろと聴こえるのは頬まで粉の中に埋まっているからだろうか。積雪が振動を伝えるとはなかなかあっさり賦に落とすことはできないけれども、下の堆積層のどこかが氷盤にでもなっていると思うことにして、それにしてもその囁くような強弱は流れの自然ではなくて、上空の風と同期している別物からの関与の揺らぎがあって、樹々の肌を伝いながれるものも加わり振動大気の迷い込んだ変位の息づきに鼓膜を差し出したままうとうとと眠くなる。ほんの数秒、否数分眠ったかもしれない。豈図らんやピシッと天使か天狗かモモンガでもいいが奴らが滑空する垂直の、俯瞰から落下速度を纏った瞬間が水平の振動に「と」と突き刺さる句読点のようなものを、おそらく真上の枝から額に落ちた露の一滴で齎したのだったが、野鳥の糞だとしても雪を啄んで白い雪のようなものを尻穴から落とす小鳥にすぎない。滴りを拭わずに思念を横たえたまま微笑んで瞼を開かずにいた理由は絶える事無く揺らいで聴こえるせせらぎと軀を浮かべて支える粉雪床にもある。粉雪にまみれた口元と鼻腔から大気をかき混ぜる軸結晶のようなものが流れ込み胃袋の底迄届いて肉体の燃焼を静めている。歩けば歩くほど自らの軀の血流や心拍が鼓膜まで押し戻され、つまり内側の響きばかりが目元顳顬と巡っていたが、こうして横たわれば外が自在に狭い管から構わずに入っていることに気づく。このまま横たわって朽ちれば鳥獣が集まって喰らい野兎が軀の上を走り抜けるのも悪くない。病や交通事故などと比べれば上等すぎるなどと転がす。勇んだ気持ちをこしらえて立ち上がり更に奥迄更に高く歩もうという気持ちは萎えて仰向けの瞑った頭はどこかを漂白されたか記憶の竜の落とし子が動いたかして、屍体擬態の格好のまま歩めば歩むほど外が入り込む逆説的な歩行を憶いだしていた。あの時は低い雲に覆われた深夜漆黒の闇の中を山奥の社までと歩いていた。霧のなかだったような気もする。懐中電灯も持たずに何故歩めたのか憶いだせない。やがて雲間から月明かりが差したのだったろうか瞼の意味の喪失した闇の中夥しい外側の物音に襲われるように犯され怯えた歩みだった。あの怖さというのは生きてやるという猛々しいものだった。位置を教える人の声の記憶が添えられているのは独りではなく友人と一緒だったということだろう亡くなってしまった男の貌と彼の仕草が鮮明に浮かんだ。まだ十七、八だったがユーモアを支える誇り高い意気地のようなものを滲ませる男だった。今こうして振り返れば彼だけでなく学生服など着ていても大人びた孤独な男たちばかりだった。布団の中で丸くなり黒い闇を考えることと現実を立ち行くことは全く違う。幼気で未熟な青年の心が当時のまま臆面も無くぶり返すが理想的な消滅感と併置するとどこか滑稽な笑いのようなものが含まれる。瞼を閉じても光に満たされていると判る不安の微塵のない雪原の上で漆黒を憶うことは吝かではないけれども洒落にもならない。この差異は生物的進化ということにしようと顎を開き愚にもつかない大きな欠伸をする。放って雪も被った爪先が冷えてきたようだ。再び粉を掴んで唇に含むと透き通った青い、空が染みた色のある味が鼻腔に広がるのだった。知らぬうちに腕の指先が雪の中を弄って何かに触れたかもしれない。きっと春が近いので旺盛な芽吹きのエッセンスが堆積表皮まで染み出てている。転がし消えていく逆転歩行の闇に連ねて、このような態、様の類似を幼い頃までを辿ろうとするが、似た光景は淡く吹き出る家族や友人の笑い声にかき消され、きっと随分違う種類の稚拙なものだと判るのだった。消滅はいいけれど別れは辛いかと加え、瞼を閉じるだけで生きてきたこれまでの先端、これからの行方が明らかになるとはあまりに簡単なことだなと、白日の下に晒された世界の呆気なさにこの身も同じことだと仰向けの軀を横に転がして手首で顎を支えようやくゆっくり瞼を開くと間近にきょとんと山雀が居る。

 ものを考え遺した先人たちは兎角よく歩いたそうだが、走ってはいなかったようだ。今時は走る人が多い。走る思考というものもあるだろう。代謝昂る血流心拍の激しさの中で蘇るものにも興味はあるが、まあ歩むだけでそれを凌駕する心地もあるということだ。

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