「競馬はやらないが、馬に乗りたいと長い事思っていた。柵の中を引き馬で周回するんじゃなくて、踵で腹を蹴ってさ、でも、馬に乗る生活と云うのは、馬を育てるってことだと思うと億劫になるが」
「俺も猟銃を肩に下げて、息も切らさず雪山を登る夢を見たことがある。撃つのは野うさぎか雉か小動物で、生活のためなんていう切実感はなかったなあ。足元に煙を上げる小屋を見下ろし、獲物を獲ったら彼処に戻る。簡単な仕組みに充たされていたようだった」
「お前等の妄想には酒の席に限られた話というニュアンスを離れているので怖いよ。季節が変わったら、狩人になって馬を走らせているかもな」
洲本は講義の後、偶然アルバイトが休みとなったという片岡に安酒場に誘われ、片岡は途中出てこいよと数日大学に顔を出していない山本に電話をしていた。それぞれ専攻を具体的に決めた2年の学期末で、冷え込んだ日が続いていた。
数日前に連続して大きな事故が重なり、どれも人災で、ひとつはホテルが燃え33名が死亡し、翌日羽田沖に機長がエンジン4基のうち2基の逆噴射装置を作動させる操作を行ったため、機体は前のめりになって降下落下し24名が死亡した。ホテルの延焼範囲が広がった原因は、度重なる消防当局の指導にも拘らず改善しなかった消火設備の不備、火災報知器、館内放送設備の故障および使用方法の誤り・客室壁内部の空洞施工・宿直ホテル従業員の少なさ・ホテル従業員の教育不足による初動対応の不備・客室内の防火環境不備といった複合的要素による火災だった。機長は統合失調症の治療中だった。
半年前の初夏に深川で通り魔殺人事件があり、これは薬物中毒者による暴走だったが、路上で、主婦や児童らを包丁で刺し、児童1人と乳児1人を含む4人が死亡、2人が怪我を負った。それを憶いだしたと、まだ記憶に鮮明な報道の詳細を山本はぼそぼそと話し始めた。
山本が最近部屋に閉じこもり鬱に沈みながら、世の中の行き当たりばったり配慮の不徹底な成り行きの危うさに憂いているという、何か遣る瀬無い悲観を聞くにつれ、片岡は、事も無げに「お前に何ができる」と切り捨てた。洲本は杯の下から片岡を睨み上げるような山本の肩に手を置き、二人に酌をした。
女に走る能天気な安定感も今の暮らしには無いし、バイトに明け暮れて苦学生を気取る時代でもない。つまり俺たちはこのままいずれ卒業して、適当な終身雇用の職場に迎えられ、小金ができたら所帯を持って、子供の成長を見守るだろうさ。だから、俺は春になったら馬に乗りにいくよ。片岡の言葉にはだが、どこか他人事の傍観がつきまとい、最近父親に、卒業したら家を継ぐつもりはないかと言われたばかりの洲本には、餓鬼の戯言と映った。
大学は郷愁の漂う学びの場であったけどなと酒の席で先輩から聞いた時には、確かに今はそんなものはないと山本は思った。