ひとつの作品には、固有の「在るべき場所」を示唆する出現が然るべきではあるが、ここ数年のエゴサーチ宛ら、あるいは夏休み開けの教室壁面に並べられた自由研究のような状態表出の、子供染みた展開を行った。こぎれいなホワイトキューブでシャレオツに粋った風情を醸すやり方には、こちらは興味がなくなっていることもある。スタジオに立てかけられたものを個別に視認しているにも関わらず、当事者でさえ、この露な光景によってはじめて気づく事がある。「捜査」というサブタイトルを与え、観客に作品成立の関係性の糸を手繰り寄せるような視点を加えていただこうとしたけれども、群併置では個別な成立に降り注いだ意識のようなものは霧消する効果もあって、この中からひとつを救い上げて、特別な場所に置くという想像力を促すことはむつかしい。
 
 こうした「個展」で、作品を販売することによって生計を立てる場合と、そうでない場合の顕著な差異というものがあり、こちらも三十代から生計は別に依存して、謂わば絶えず実験的試みという排泄に近い作品制作の放埒を重ねた罪は重いという自覚はある。プロとして作品販売のみによって生を形成した作家作品と、根本的にその仕様が異なっている。彼らプロの作家は、売却実務経験を重ねる過程で、時代のポピュラリティーを感得し作品へそれを反映させ、あるいは購入者の願望を吸収し、販売反復の持続可能性と、新規購入者獲得を目指して絶えず工夫し、あるいはそれなりに他者の欲望に迎合することも受け止めつつ、固有な「ビジネスモデル」を堅牢に構築する制作を継続するしかない。迂闊な制作行為へ踏み外すことは営みと顧客信頼の停止を意味する。とはいっても、完全にプロフェッショナルを履行している数は限られる。マイノリティーである現代視覚藝術の、こうした社会的現況と作品自体が示す存在の価値、位置づけなどを、ナカムラジンとの対談で率直に話してみようと思う。

 今回をきっかけにして、私は身近なプロフェッショナルに敬意を示す意味でも、今後の作品販売(ブランディング)を、真摯に考えることにした。