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 山にて生存をはじめてからの自身の取り組みをBookにまとめることにした。全てを網羅する大袈裟なものではないので記録の選択からはじめた。時間軸にてエポック的な画像だけで済ませるつもりだったが、タイル状に並べてみると、各事象のディテールが失せて、抽象に片付けられてしまうと気づき、やはり呟きのような時々の言葉を添える必要があると感じる。説明というよりも、断層的な特異な時間の現実感に人間的な奥行きを与え […]
ドローイングという計画

ドローイングという計画

 素材の扱い(仕方)を吟味精査する意味はある。蓋し計画の視覚化というべきだろう。憖堅牢を求める平面構築とは異なり、時間を注ぐよりも別の、謂わば具体的な展開の足がかりとしたい思考の実験といっていい。  それにしても、遠くへ放っていた「描写」に感けると、これはこれで行為として自足する。途中で具体形象は写真でもよかったと思うのだったけれども、仕組みを考えると描いたほうが早い。モデルを宙空に静止させること […]
枝

 秋にまとめる平面的なものを主軸とした個展の、未だ平面展開の見通しもないけれども、拙い取り組みの内でやはり性情に逆らえず立体的な構想が浮かぶに任せる。  半年前には、ドミノ用パイン材を使い、その工作に「ヴィトゲンシュタインのペントミノ」と名を与えた、ヴィトゲンシュタインの建築設計介入に想いを馳せるようだった立体物群が、それ以前の崩れた矩形断片と交錯し、二年越しのモネ百年を律に投じた平面へ移行し、大 […]
石の来歴

石の来歴

 例えば直線は世界物象としてヒトから離れた距離があると思われる。だが墓石であるとか矩形に加工して敷かれた敷石などは、野に放られた自然石と比べると逆転し、直線的な形態が人間の恣意として際立って近寄り、風雨や流水によって気の遠くなる時間形態を崩していった自然の奇妙な輪郭が、超絶的にこちらを突き跳ねる距離を醸している。相対的とはいえないこうした風情を交互にみつめることをしていると、指先で動かす謂わば恣意 […]
親和性について

親和性について

 褐色に穢れた風のせせらぎが幾筋も流れる水芭蕉遊歩道を歩きながら、ゲストにこの辺りは褐鉄鉱の鉱床があり、光景とは裏腹に浄化されていると説明していた。あの黄土色が特異な地勢のもたらす色彩だと、客が帰った静寂の中幾度も省みていた。炭の粒子が定着しやすい構造の紙に、調和的な木炭で線をひくことをおこなって、その線が加われば加わる程、木炭は紙と「親和性」を取り持つ風情を醸す馴染みの展開の、その「親和性」の濃 […]
モネの崛起

モネの崛起

 百年前に顕われた視覚藝術の事象の中でモネに注視した時間を過ごし、秋に予定している平面を中心とした個展への準備の中で、「未完」「目的を廃棄」「行き当たりばったりで破れかぶれ」であるしかないと弁えた創作をぐずぐずと続けているが、そんな手際の悪い視野に、ほうと思ってもみなかった得心が小さく生まれて重なり、こんな人生なのだなあと自らをあらためて知る。  およそ個人が行なう試みとしてモネは成熟の晩年におい […]
同田貫

同田貫

 ドット(点)を軸にした思考が、チーズ構造の分解として秋から冬にこちらを捉えた穿孔を経て、寒中唐突に裏返ってそこからやや離れた距離にて促され、多面体展開図での考察へ路を延ばして鉛筆で散らかし、6~7の角を持つ多角形(図)の内部性(形象)と外部性(輪郭線の延長)によって、平面に内在するホログラフィックな素質を刺激する効果がありそうだと、初夏のステージまでは立体構造へ立ち戻るのを止め、図での展開に執着 […]
加筆と律

加筆と律

 2016年から一年後までと同様に、2017年に取り組みはじめたタブローの加筆を遅々と続け、当初はセラへのオマージュとしての透視図法から、中途世相を吸収しゲルニカを経由して、到頭百年前の国吉の作品集を幾つも広げ、こちらの二十歳そこそこだった憧れにも遡行して、全て加えるような奔放を許しつつ、現在の折衝としての可能性を探るような手付きとなっていった。  平面(タブロー)制作を再開して未だ大小十点に充た […]
一期積層「同田貫」

一期積層「同田貫」

 重ねる度の節度があり、その節操は次の重なりを呼び込みながら、重層的に太くなるような律を生む。勿論振り返るように戻って抑制の幅を整理し直すことも可能だが、雨降りの水滴を想って止める。  同田貫をこの層におもう。 ー同田貫(どうだぬき)は九州肥後国菊池の同田貫(地名)を本拠地に、永禄頃から活躍した肥後刀工の一群。延寿派の末流とされる。銘を九州肥後同田貫、肥後州同田貫、肥後国菊池住同田貫などと切り、ま […]
「地」「炭素」「俯瞰」ー枝脈

「地」「炭素」「俯瞰」ー枝脈

 白い季節の中巡らせた仕組みの具体化をまず率先してその行方を確かめる必要があり、奔放な緩さも許して進めると、自らに跳ね返る数々がある。記憶の陽炎とも云える断片的な痕跡が、各々傾向に別れた物語を形作るようであり、今更に固有な自己を言及しているような表象となって顕われる。近視眼的な掌のスケールでの意識の投影は、併行して行っている別スケール、別次元展開にも影響を与え、尺度の強弱の混在へ向うことになる。 […]
薪割組と炭素石

薪割組と炭素石

 四年前の秋に制作した、薪を割って再構成するインスタレーションオブジェの創作の手元を、柔らかい筆にたぐり寄せ、同じことだなとひとりごちる。いずれも繰り返されることで達する円熟、見極めの足りなさがあって、だからといって伸う伸うとそれを許す暮らしが無いと言えばそれまでだ。ただ時間を置いて、同じ取り組みをする時、幾度も繰り返さなかったにも関わらず、ふっと達者な目付きは生まれる。(生まれてしまう)  幸せ […]
炭素石

炭素石

 目の前の都度の折衝としての想像力が、端的に顕われる粒子の扱いを再考する拠所はふたつみっつある。反復による視座の洗浄(想像力投入の清潔な位置の獲得)の実感はその度にあり、局面(転化)への対応を急がずに、繰り返されることで得ていった深化構造(現状の不足と飛躍)を風呂の中まで持ち込んで、新聞の記事にも意識の辿りが移らなかった。  このところ迂回的な好奇の触手を、自らの出自気質の世知辛さと諦める世代を超 […]