半年前には、ドミノ用パイン材を使い、その工作に「ヴィトゲンシュタインのペントミノ」と名を与えた、ヴィトゲンシュタインの建築設計介入に想いを馳せるようだった立体物群が、それ以前の崩れた矩形断片と交錯し、二年越しのモネ百年を律に投じた平面へ移行し、大いにフィクションと物質現実を折半する季節を経ながら、春めいてくるとロッソ、ロサティー、ブランクーシーなどが屡々浮かんでいた。時間に同時発生する枝から選別するようなブランディングをするつもりは最早無いので、気楽にこの多発性を許して、根性の曲がったようなエスキス展開も、私にとってはむしろ健全であってよろしい。
石を象徴的に記号化させる行為手法は、平面の図案的手法的なレヴェルで、多角形から派生したものだったが、この「石」という身の回りの環境下での景を眺め直すような歩きを加えたお陰で、長大な時間論データ論的な遺物として私の中で再び大きくなっていたこともあり、当初は岩石存在によるエスキスではじまったけれども、掌に乗せるには裏庭の倒木から切り出す木塊であれば、「〜ペントミノ」を引き受ける枝の成熟がありそうだと、不規則な多角形的な塊を、今は浮かべている。
高原下の農地一斉に田が耕され水が引かれたこの時節、早朝から肩に湯気を放つ農家の人々を遠くみて、こちらもあのようであったらと踞る制作日常の淡々とした昼下がりに、立て続けて友人が訪れ、夫々用件は異なったけれども、長い良い会話があった。