ールートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン( Ludwig Josef Johann Wittgenstein 1889 ~ 1951)が、1926年からの2年間、姉マルガレーテのストーンボロー邸建築に、数ミリ数センチの設計変更を繰り返して、細部の仕上げに関与した。「外装がほとんどない上にカーペットやカーテンすら一切使用しないという、極端に簡潔ながら均整のとれた」(wiki)建築空間構築が、私は以前より頭に残り続けていました。およそ百年前のことです。ヴィトゲンシュタインは、現在の私とほぼ同じ62歳で癌で亡くなっています。論考ー彼の思想的な言説の変転よりも、自己恢復の契機となったとされる空間構築への私の関心は衰えず、天井の高さを数センチ上へ変更拡張し、あるいは幾何的に配置された空間を、ことあるごとに「何をしていたのか」と眺めていました。「ウィトゲンシュタインの建築」(バーナード・レイトナー著/ 磯崎新訳)に研究詳細があり、他審美的な視点で数多く言及されています。
意思決定の痕跡として建築空間を眺める自らを顧みて、最低限の仕立てで都度の態度、仕草、意思を、「遺す」反復作業という小さな作品化を、私は偶然に手にしたドミノ碑のみを使用して2018年秋に始めました。それまで矩形やペントミノ断片による空間の切り出しのような試行を遅々と重ねていたこともあり、加えて併行した百年前の事象(モネ)に遡行する平面性への探索からも促されたと考えることはできます。断章として片付かない連綿と継続される仕組みとして「個体と群(単独と連帯)」、あるいは「立体物から平面性への逆転還元」、「質の変換」などを孕む行方を、事後的なリアクションとして現在は作品が示しています。
そもそも私自身のスライド気質(フォーマットを移動する)自体が、何らかの自己恢復、気概生成のトリガーであると気づき、都度異なった折衝手法を、草刈りのような日常のレベルで行うことが、健やかな創作の持続を可能としているわけです。料理をこしらえる。珈琲を淹れる。釘を打つ。投げる。拾う。置く。といった日常瑣末作為の、同質な延長線上で、ドミノ碑を並べ、組み上げ、磨くだけの行為として、何気なさに一旦沈み、やや時を経て、「遺された意思」としての落着きと放心が宿る事象となるのです。ー
個体別ボックスパッケージに同梱ライナーノーツ本文より