由時置

11月 14th, 2016 由時置 はコメントを受け付けていません

横顔が髪に隠れて、白い顎の先だけが見えた。
口元に添えている指先が、やや外側に反っていて、モノを掴むような触手ではないが奇麗な形だと思った。
丸い小さな爪に、淡い夕暮れの光をぼんやり集め、蛍のように滲んだ。
見つめたふたつを脳裏に残すようにして、ハンドルを握り、ギアをRに入れ、クラッチを離しながら、砂浜から車を遠ざけた。
帰り道は雨となり、寝息が聴こえたので、助手席には一度も眼差しを投げなかった。
カーラジオからSealのDon’t Cryが流れていた。

-未来の音楽が単旋律になったとしても私は驚かないだろう。それともこれは単に、複数の旋律をはっきりと思い描くことが私にはできないからなのか?いずれにしても古い偉大な諸形式(弦楽四重奏曲、交響曲、オラトリオ、など)が何らかの役割を果たしうるだろうとは私には考えられない。何かがやってくるのなら、それはー私が信じるにー単純でなければならない。透明でなければならない。
ある意味で、裸でなければならないのだ。-
193010/4/ウィトゲンシュタインの哲学宗教日記1930-1932/1936-1937

Passing through this world straightforwardly filling every minute of existence with deep cognition and self-reference is not my thing. I would rather cut through at an angle-though not necessarily accelerated to meteor-like swiftness. I would rather take my time meandering through the interstices of time and space,gazing about, making mistakes, and keeping dissociated. My path should be one of contradiction and beauty, the distillation of my entire existence.

山羊が屠殺人を見つめるのは、屠殺人を殺す希望を抱いてのことである。
ー「イボ族の諺」
ロートレアモン/J.M.G.ル・クレジオ

ちょうど、そこに台に取り付けた望遠鏡が出してある。すこし暗くなったが、出てみよう。
望遠鏡は、これによって内部をなすところの領域の中に、外部をなすところの領域を実現し、この内部をなす現実が、まさに内部であることを証明しようとするものである。

「してみると、きみはリアリズムは謂わば倍率一倍で、
外部の実現が内部の現実と接続するとき、これをリアリズムという。
と考えようとしているんだな。それにしても、倍率一倍の望遠鏡がつくられるまで、どうして七十年もかかったのだろう」
死者の眼/意味の変容/森敦

Comme les pleurs muets des choses disparues,
Comme les pleurs tombant de l’oeil ferme des morts,
Dans le deuil, dans le noir et le vide des rues!
Georges Rodenbach

朝、詩を書く男。素敵と云えば素敵だ。
誉めてあげたいようなところもある。でも、同時になんだかこっちが恥ずかしくなるようなところもある。
David Benioff

Shifting my gaze from the heavens to the Earth, I feel the weight of time written in the seemingly random structure of the soil and mineral layers beneath it. Many times I have driven out to read the movements of the earth’s crust from such exposed layer and used the impressions that flood in as my conceptual guidelines. In my studio, I illuminate the samples that I have brought back with me so that light reflrects off them to fill the room with the stories that they have to tell. I back in their rays as they speak to me.

簡単に忘れてしまうと思っていました。忘れる努力もしました。でも、時間が過ぎれば過ぎるほど、抹香のような黒い結晶がカラダの中につくられていくのですね。これは、あの忌まわしい一瞬よりも始末が悪い。日を過ごす度に取り返しのつかないカラダになっていく。
午後の陽射しの下の、柔らかい街の景色を微睡んで眺めることもできない。
秘密など持つものではありませんね。

プラットフォームには、発車までまだ随分時間があるのに、列車を待つ人が、日陰を避け陽射しの側に幾組か立っていた。風は冷たいが、晴れ渡って紫の膨らみ始めた季節の色の層を通して、山々の残雪が淡く正面に広く眺められた。小旅行の格好の夫婦の向こうに見え隠れする女性たちの弾ける笑い声が真上へ抜けると、潮が引いた後のような腐食の色彩のレールと砂利が、真下へ向かって静まりかえった。座布団を脇に抱えた交代の運転手が列車点検のほうからゆっくりとこちらへ歩いてくる。

逆流する橋幸夫のメロディー
青い蒙古斑のあたりをけっとばされて
まぶたをこすりながら
おれは立ちいでた
はりついた血液がとけて頭蓋に灯がともるころ
かすかに見えた
のたうつ日本列島の背骨
正倉院の御物が下半身を腐らせにらみつけている
むき出しの魂が抒情の河原で昼寝をしている
逆流する/吉増剛造

モノとレンズ、外見と技術、光の物質的性質とカメラの形而上学的複雑さ、これらの間にある沈黙の共犯関係を、意味やヴィジョンを介入させることなく、自由勝手に遊ばせること。なぜなら、モノのほうこそがわたしたちを見つめ、わたしたちを夢見ているのだから。世界がわたしたちのことを反映し、世界がわたしたちのことを考える。これが根本原則だ。
消滅の技法/ジャン・ボードリアール

肉体の一点から詩が入ってきて、私は誕生した。色は真紅とでもいっておこう。獣眼が覗きこむ修羅。私は通行されるものである。産道から歩きだして、全く途方もない宇宙の駅に立ったものだ。
太陽は赤道植物園に堕落した。「白人の裸体」という種族が住んでいる、獣眼のもっとも淀んだ場所で、産婆が洗面器を洗っていた。
宇宙駅から北方へむかって/吉増剛造

映画は、記号とイマージュのアレンジメントです(サイレント映画でさえも、やはり言表行為の様々なタイプを含んでいる)。私が映画について試みているのは、映像と記号の分類の作業です。例えば、運動イマージュがまずあり、これが知覚イマージュ、情動イマージュ、行動イマージュに分けられます。もちろんもっと他のタイプのイマージュもあるでしょう。それぞれのタイプに、様々な記号、声、言表行為の形態が対応するのです。こうして巨大な分類表が必要になります。様々な巨匠たちが、それぞれ独自の傾向をもってこれに参加しています。
狂人の二つの体制/言語をめぐる宇野への手紙/ジル・ドゥルーズ

ぼくの見る悪夢は厳密で、幾何学的だ。簡略にして、恐ろしくしつこい内容と決まっている。例えば、渦巻きに巻き込まれて、その中心まで運び去られる夢とか、目の前に何本か直線があって、一つの線分を他の線分と置き換えたり、絶え間なく修正を加えて悪い部分を消したりしながら、全体の構造を変える為ために際限なく努力を重ねる夢とかだ。ここ数日、ダーツばかりやっているせいで、夜のあいだも、眠りに表面に、的のイメージが執拗に浮かんでくるのである。
直角三角形の斜辺(65)/浴室/ジャン=フィリップ・トゥーサン

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