最初はそんなつもりがなかったが、結局一ヶ月の間、山辺健の部屋に泊まり込んで、自分の部屋には帰らずに過ごしてしまったことは、川西透の本来的な精神の愚鈍と無邪気さが主な理由ではあったが、山辺が川西との共同生活を厭わず、むしろ彼自身の日々が川西によって刷新される喜びを選んだことも、川西の甘えを助長していた。
早く起きた方が朝飯を作ったし、あるいは買い物に出かけ、時には互いを思いやるような食材で、手料理自体を楽しみもしていた。山辺は十代から暴走族を率いて大井埠頭辺りを仕切った特攻服を今でも部屋に飾るほど、単車にかけては一筋縄ではいかない過去があったが、現在は、荷物の多いことから父親から譲り受けたというより預かっているマーキュリー・カプリで大学へ通うことが多かった。川西が中型の免許を取り、最初は川西が単車入門に選んだ原付の可愛いスポーツタイプを微笑ましく眺めていたが、突然400ccの新車に乗って峠に行こうと誘ってきた時には、山辺の仕舞っていた「走り心」に火がつき、一度は足を洗ってのんびりやるさと乗り換えていたアメリカンを再びチューンアップして、川西の先を先導するように走り始めた。
そもそも山辺のアパートメントは似たような学生が棲んでおり、互いの部屋を行き来する気楽な人間ばかりで、勿論秘め事には鍵をかけることを怠らないが、ある意味健全で奔放放埒な行動に悪意は生まれないが、それ故の鬱陶しさは互いに抱き込んでいた。
俯瞰-導入
4月 30th, 2008 § 俯瞰-導入 はコメントを受け付けていません § permalink
見える
4月 17th, 2008 § 見える はコメントを受け付けていません § permalink
中学を出る頃から母親の私を見る眼差しが変わった。
気にしないようにつとめていられたのは、父親のいつまでもかわらない緩くやさしい視線が、帰宅の遅い父親の仕事のせいもあって、こちらにまとわりつかなかったからだと思っている。
通学の電車の中の香りのキツいコロンの男達の、地獄からもどってきたような目つきが、母親の中に見え隠れするようになり、こちらも食卓から逃げるように過ごすようになっていった。同じ頃から同性の友人達が母親と重なり、身重な女の蔑みのような眼差しを受けて、独りで部屋に籠るようになった。
この身体は見られる為に在るんだと開き直って化粧を覚え、鏡に向かうと、お酒に酔ったような投げやりな心地が大きくなって、勤め始めてからは、母親の瞳の中に宿ったものが、こちらの眼差しにも在ると実感することも何度かあった。草臥れていくことが成熟なんだと何度も諦める度に、無駄な脂肪も増えた。
仕事の関係で外に出た街角で仰いだ陽射しが眩しくて、暗がりの路地へ駆け込んで座り込み、暫く両手で顔を隠すようにして呼吸を止め、私の見える頭は、見られるこの身体のものじゃない。どうしてこんなにも違うのだろうと繰り返して呟きながら、嘔吐して下から小水を漏らしていた。バッグから取り出したハンカチで口を拭い路地の奥を見やると、小さな子どもが1人いて、ふいに足元の小石を拾ってこちらに投げるのだった。瞼の上にごつんと当たった。子どもは下品な家畜を眺めるような怒気を含んだ顔つきで睨み、きびすを返して走り去った。濡れた下着を脱ぎ、大きく息を吸ってコンパクトミラーで額を見ると、少し裂けて血が流れている。私は立ち上がり、数日前に結婚を申し込まれた同僚の男の、草臥れた背広を憶い出し、彼と一緒になろうと決めていた。
見てはいけない
4月 16th, 2008 § 見てはいけない はコメントを受け付けていません § permalink
防波堤の上に立つ男の姿が消えた。
季節は寒暖を繰り返す不安定な日が続いており、風も冷たいものを含んでいる。休日だから釣り人も居て、座した父親の元から走り出す子どもの姿も見えた。朝方迄年度末の書類の片付けの残りを、頼りない部下に任せて、手抜きの修正に時間をかけるのがもどかしいので、独りで背負い仕事を仕舞い終えてから突っ伏して眠っていた。昼前に目が覚めてから珈琲を飲み過ぎた胸の嘔吐感を鼻孔迄何度も戻しながら、知らぬうちにそのまま外に出ていた。
烏賊と貝を焼いて芳ばしい香りと煙を立てる小さな出店の割烹着の女に、男が海へ飛び込んだようだと小さく声をかけると、女はこちらと瞳を合わせるように睨んでから俯き、網の上のものをひっくりかえしてから、
「いいんだよ」
ぽつりと言った。
振り返って防波堤を再び眺めやると、男が濡れた服装のまま這い上がってくるのが見えた。暫く立ち尽くしたように海を眺め、ゆっくり数メートル歩いてから立ち止まり、また足元の海を眺めている。
女に問いかけようとすると、女は顎で防波堤を示したので、首を曲げると、男は海に飛び込んだ。
「子どもが溺れたんだよ。去年の夏の終わりに。何度かああして探しに来ているのよ。」
このあたりでは知られているらしい。近く迄歩み寄って、男が這い上がってくるのを眺めると、まだ若い男で、(もう少しで、)と呟いている。
濡れた男は、肩で大きく息をして、離れた所にシートを敷いて日傘をさして座っている白い服装の女性の元へ歩いて座り込むと、女の白い腕の先のタオルで子どものように頭を垂れて拭かれるに任せた。
仕事場に戻る途中、烏賊焼きを買おうと先ほどの店に寄ると、割烹着の女が、
「見てはいけないよ。あたしだったら旦那を殺している。あの奥さん許せないわ。」
と小さく呟いた。