静的事物、静止画像(写真)、静止画(絵画)というものの構築は、動的時間的な日常の流れの一部である人間身体にとっては、構築介入(制作)から離れた途端、なかなか釣り合いのとれない非合理な対象であるが、間主観的に思念を張り巡らす起点となる。つまり人間的な意識の投影を持続継続するために、運動性を超越する非現実的な事象といえる。そこから派生するものは、歩いたり走ったり車の運転で流れ去っていく景色を眺めて想起する意識や動的映像に身を任せることとは、かなり異なった意識結節の源なのだと今更に思うのだった。言葉とも似ているが、あれは読みながらどこかで音を聴いているような類いなので、徹底的にスタティックである「凍結」された事象と同じとはいえない。スタティックな音という音響があるかもしれないが、音自体物理振動なのだし、デジタルも電気信号の流動なので矛盾する。時間と人間の運動を超えてある「凍結」には、そのものの出自の瞬間が封じられており、その解析から印象、意味や構造の抽出など、ほぼ永遠に、人間的意識で弄ばれる宿命がそこに在る。一時期プレ凍結的な介入自体の動的な人間の意志の連なりを主軸とする解析がもてはやされ、現在もそれを作家性と捉える偏執があるけれども、作家がこの世を去るとかして、スタティックな事象として時間的に距離を置いた事物への遡及言説には、事物自体の新しい価値判断が加わった、別の解釈が放じられることは珍しくない。

 近代の「人権」という発想から「個体」が概念化され、それと「自由」を等価に結びつけた延長に、この数々の凍結がタイムラインに数珠玉ごとく差別的に置かれていると見るのは間違っていて、累々と在る太古からの遺跡事象を加えて、全て併置された「凍結群」といっていい意識起点のカオスが、目の前に広がってあると考えたほうがよさそうだ。インターネットなどの情報取得もこれを極端に加速させた。享受する「凍結事象」の選択は、時々の社会的ムードや個人的な気分に左右されるけれども、この凍結構築への介入気概は、一体どこから来るのか。やがて人類はデジタルストリーミングの情報洪水に辟易し、目の前の「凍結」へ注視の眼差しを与えて、夫々自在に「解凍」することに歓びを得る時がくるような気がする。