二十五万年前から五万年の間緩慢に繰り返された複式火山であるから外輪と内側があり、西と東を両手で囲む格好で窪んでいるが、他の鮮明顕著なカルデラに比べればおそらく永きに渡る乱発噴出の時間が挟まれたかして都度の崩壊も加わりほんのりとしたものだ。二千メートルにやや足りない標高の頂が転々と登山道を結び、気象に恵まれれば眺望は八方に伸びるのでその景を求め登山する者は多くはないが絶えることはない。西側の噴火より随分前にマグマの貫入を受けて隆起した変成岩盤の壁が、人史のあけぼのより地勢的な威容もあって人気(ひとけ)を呼び寄せた。けれども東へのぼってから分かるこの窪みに現在は、山林を管理する者や狩猟程度の男たちが時折通り過ぎるだけで道もなく、外輪の南や東の斜面には在る間伐の手も、この窪みに至っていない。縁は南から北へ柔らかく伸びる稜線を形成して、眺め仰ぐ位置と距離によってはその山稜景は随分印象が異なる。東から眺めては横臥の姿態と重ねることがある。幾度も加算された複式のせいだろうおそらく地下には繰り返しつきぬけたマグマの錯綜痕があって他の類似態と同様、降り注がれたものを吸って溜め込み、リモナイト層で浄化されスカートの裾へと湧き出す。類型山が北に向かって三つ並んでおり、標高差千メートルの隆起の外東側に湖と池が点在する。 » Read the rest of this entry «
行歩視山
5月 25th, 2017 § 行歩視山 はコメントを受け付けていません § permalink
この朝だけの小雨だったが、梅雨には早い長雨かと勘違いが尾を引いたのは一昨日に谷に寝た渓流の音を重ねたからだろう。それにしても最近の食のせいかやはり起伏の大きな気象の畝ねりに逆らうことなく委ねすぎたか。やや萎えた気分で丸めた背のまま瞼を腫らし足元に薄霧が流れる道を歩く時、目に入るより先に道端の露に濡れた葉やら花びらに指がまず触れている。袖が湿っているから手首を草叢に差し込んだまま進んでいたらしい。何かを愛でるでもなく探索の筋など微塵もない額でひんやりと撫でてはすすむと、類型として千年、否万年に渡って繰り返された同じ目元がそこから灯り広がり、彼らの歩みの中に居る、ブレた自己が弱く震える不確かさに辛うじてとどまって、自身が個体であるのか類的集積識なのかわからなくなる。目先の流動に翻弄され、肉体が兎角先導した時期は触れるより先に首を突きだして目玉も更に前のめりに見ていたようだ。生活から恣意が剥がれ落ち無為の隙間が今はある。この歩みもそうした隙間に位置している。ただ森の先へ向う。 » Read the rest of this entry «
由時置
11月 14th, 2016 § 由時置 はコメントを受け付けていません § permalink
横顔が髪に隠れて、白い顎の先だけが見えた。
口元に添えている指先が、やや外側に反っていて、モノを掴むような触手ではないが奇麗な形だと思った。
丸い小さな爪に、淡い夕暮れの光をぼんやり集め、蛍のように滲んだ。
見つめたふたつを脳裏に残すようにして、ハンドルを握り、ギアをRに入れ、クラッチを離しながら、砂浜から車を遠ざけた。
帰り道は雨となり、寝息が聴こえたので、助手席には一度も眼差しを投げなかった。
カーラジオからSealのDon’t Cryが流れていた。 » Read the rest of this entry «
粉端徒行
5月 22nd, 2016 § 粉端徒行 はコメントを受け付けていません § permalink
晨明粉の雪が降り積もりおかしなもので凍地に軽やかさが戻ったと感じる。降るものが降らず溶解遅延の根雪は昼夜問わずに冷え冷えと白濁し辺りを静めていたので窓の内側では身動きを忍ぶ時間が長々と在った。外にでなかったわけではない。凍結面に足元を掬われジャリジャリと軋ませる徘徊は家の内に戻ってストーブで暖めても鎮静の余韻は消えなかった。唯あたりがふわりとしただけの瑣末な変化に誘われ腰に樏をさげ歩き出た頃になって地には吹けば飛ぶ粒子が舞い白く発光する陽射しが青碧の空にある。気温はむしろ低いのかもしれない。無論狩り採集をするとかクロスカントリーで汗を流すとか記録機材を持って観察をするとかの理由を当てはめる種類の移動誘惑ではない。目的のない散策にすぎないが夢遊病のような甘い行動だとどこか遠くから自身をみている。緑葉の鬱蒼とした季節にはなかなか足の届かなかった場所へ辿る事ができるだろう。とは言え自覚的に行方を測る気分ではなく気象気圧に促された気侭なものでよかった。数十年前には薄ばかりだったと聞いた最近は大掛かりな間伐も行われている唐松植林の比較的凹凸の少ない地は臑程度までの粉末を蹴ってすすむことができたが軈て植林境界を踏み越え、やや勾配が目前に迫るようになり、空間を遮っていた葉が落ち奥行きが透き通って見通しのよくなった枯枝が、大地の繊毛と化した原生照葉樹の森へ入ると積雪量が増え、途端に雪に隠された深みに太腿まで踏み落としてから慌てて樏を長靴に取り付ける。浮ついた歩みなったのはいいが斜度のある昇りのせいか長靴の中の靴下が脱げかけるので、その度に手を差し入れて踵の下から引きあげる。靴の中踝あたりまでの浅いものを履いたからか同じことが幾度も繰りかえされるので小さな平坦をみつけると到頭どっかり雪面に深々と腰を降ろし、湯気のあがる両足を抜き脇の雪を掴んで口に含んだ。正午前淡く残って流れていた雲が消え上空の深さが見えぬほど一色にて晴れている。一昨年の大雪と異なりエルニーニョの影響で積雪の量が減ったらしいがそれでも標高千数百メートルを越えれば零下の大気は地の隆起の突端から舐め下ろすように降ったものを幾層にも絡めて山裾野の東側へ貼つけているので、腰迄粉の中というわけではない。降ったばかりの粉雪は凍てついた地へと柔らかくこちらを導く効果を示しているのであって、これまでを覆い隠すわけではないと判る。 » Read the rest of this entry «
風斥時頂賦
2月 25th, 2016 § 風斥時頂賦 はコメントを受け付けていません § permalink
隆起硬化の大いなる静まりがまず悠々と在り、その決壊をある時一粒の雨水か垂直に走った稲光かがそっと促し、谷の木霊を全て潰す魁偉な音波を地へ差し底へ崩落した重量が始まりには勝り、流れに抗う態の頓無く過ごした膠着を塊自体内側の質に滴り沈下させたのは、幾度も根付いた樹木を振り払いあるいは媚びるかに寄生割礼されるがままだったからで、やがて風雨雪や併置類型の倏忽激突も加わり自らを理へ粉々放り下った千荊万棘回転研磨のこれまた長い想像の届かない運動の時を経て大海の波に揉まれて打ち上げられる。否その中途でもある揚句の偶さか、ヒトの掌に乗るこの星の相似態と成った石ころを浜辺で拾う。男は季節を測る時を擱き、風の吹く日に山の縁を渡って一昼夜走るように歩き降り、過去より幻妖色が祭儀に使われた結晶の転がる海岸に着くとそれら貫入の果てには見向きもせず遠い街の蜃気楼も朧のまま眺めから捨て去って首を垂れたまま崩壊の砂中に立ち海辺に暫くは野営する覚悟で切り立ったあの谷の断崖絶壁を忘れない。半年前に手にした萎れた蔦が千切れ谷の流れに身を滑落させ流れの底の岩刃で傷を負い再び潜って砕けたままの硝子のような粉砕岩の光景を前にして時を掴むという言葉が男に生まれたのだった。 » Read the rest of this entry «