ふといきなりモノがみえる。それまで瞼を閉じていたわけではなかった。肺が大気をこの時とばかり大きく吸い込む充溢と同じことを瞳がしたのだった。斜めむこうに座って電車に揺られ携帯かなにかを包んでいる女性の指が、その皮膚が透き通って骨となり、否そうではなくて、骨が皮膚と本質を入れ替えた白さで、ベロンとひっくり返ったあっけなさで、表に顕われている。指の根に集まる静脈の青が紫に変わったのは走る箱が地下へ入ったからだろう。振動も音響も絶えたようなみえ方で、歩けば数メートルはある筈の離れた存在の年齢や姿形や固有名や人格を必要としない異形がまるで掘り出された遠い過去の発掘骨塊のような時空粒子を輪郭に浮かばせて、彼方から降り落ちた光を捉えて離さない目玉の奥に、存在の普遍が静かにただただ流れ込むように入ってくる。焼かれたばかりの香りも眼底に燻って、地下の駅でドアが開く度に外へ流れ出るのが惜しいように感じるのだった。ふいに見えることは考えることではなかった。それにしても長い間何も見ていなかったのは考えていたからだろうかと愚にもつかない屈託が小さく生まれたが、瞳は開いたまま骨指から動かない。終着駅で停車して一度車内の灯りが明滅すると藻に隠された澱みの中に融けるように指の煌めきはすうっと消えていく。立ち上がった人々に隠れて骨指の主が誰かわからなくなると背後から追いかけて指を探すつもりもなかった。歩き出せば先程の邂逅などすっかり喪失し汗を拭うこともせずに暫くはみることも聴くことも戒めるかに足元にみつめを落としてすすんでいた。というのも関心はやや垂れ下がった雲に覆われた山々に既にあったから兎に角雑踏を逃れでなければという切迫が、どういう契機かわからないけれども唐突に視覚が開く以前の遠路黙した亡失の時間に遡ってみえていなかった時間に似たのかもしれない。大気の尻が淵の底で倦怠に膿むほど熱せられ上昇を逆さまにアスファルトの磁性と重力に捉えられ滞っている街路を無感覚に過ぎると上り坂となり、標高はと振り返れば、眼下に通り抜けた鍋底に隙間無く散乱した集積が朽ちた回路のように見下ろすことができた。種類の異なる大気に触れる臨界に届いた弱い風の降りる場所で、血の混濁を沈めて洗浄する体感に任せると肩に力の残った戒めも解け、晩夏の短命なモノたちの鳴き声やら渓流の渦やら梢の震えなどが耳を澄ますより先に届いている。移動すること自体に全てを任せると数時間前に決めたことを弱く憶いだしてまた歩みはじめるのだった。
上昇する速度が一体どれほどであれば気圧の変化を海中のように感じることができるのだろうかと淡い記憶の中でジェット機を探す。リュックの中の水はどのあたりでどの程度腹に流せばよいか。補給はできるか。この道を辿った山の果てに飯屋などあるのだろうか。ドアを叩いて何か喰わしていただけないかと素直に初対面の人間に頭をさげることができるか。一度づつ答えを探す気持ちを萎えさせたまま歩幅に合わせた奇妙な距離の時間で考えるから、イメージは分断され団子のようにコロコロ併置される。他には何も転がさずに余白を広げるように景色へ眺めを放るけれども、これも地味な制球投手の緩い喘ぎのように上下する歩幅のリズムを刻むので継ぎ接ぎの余白となる。ひとつ峠を越えたところで同じことを同じ歩幅で繰り返して考える。反復思考は遊戯的な回答を枝分かれさせジェット機がジェットコースターとなり、我慢などせずに水を喉へ流し、トウモロコシはあると既に盗んでしまったような顔をして畠を睨んでいた。三時間は休まずに歩くと膝のあたりに瘤ができたような疲労が現れた。幾度か追い抜いて行くバスを、あれに揺られることなど思ってもみなかったと見送っていた。五時間で高地の窪みに点在する集落が視界に広がると虚脱に似た安堵が、気の振れた歩みの殻を引き裂いて正気を大気に晒し戻し、気づけば濡れたTシャツが冷ややかに肌に張りつき手に強く握られていた水の入ったボトルは凹んで知らぬうちに空になっていた。
「おまえの話を聞いているとしんみりする」シンミリという言葉の意味が判らずに相手の眉間のあたりを眉をあげて眺めると、「切ない」と内山は続けた。今更に告白じみた吐露をしたわけでもなく、尋ねられたから此処に居るまでの経緯をぼそぼそ説明したつもりだったが、その詳細を自らが克明に記憶を愚鈍に辿りつつ吃音じみた繰り返しなどして下手糞に描き出すような言い方をしていたらしい。会話とならない独り言となって相手に対して失敬であったかもしれないと、飯塚は瞼から緊張の線を抜いて視線を相手の胸元までおろした。初めて出会ったわけでもないのに、過去の説明は幾度かしたことはあったけれども、数ヶ月前の此処への移動、転じた移ろいを辿ると、現在までもが繋がって妖しい気分になり、その転移に含まれる不確かさが大きくなって、今この時自体が儚い幻影と感じられ薄く透き通る。飯塚の困惑の表情を内山は辛抱強く横に放ったまま煙草を一本吸いきった。昼前の間伐作業を終え握り飯を喰った後の変哲のないぼやきの中だったから、内山も「いいんだ気にするな。忘れてくれ」と手を振って立ち上がり、飯塚の肩をぽんと叩いた。飯塚が古民家の貸家を村の縁にみつけ役場で仕事を探した折りに声をかけたのが丁度同じ世代の内山であったから、彼には何も隠すことなど無い恩義を感じているのでなんとも申し訳ない気持ちになる。生まれたばかりの赤ん坊を抱いてはじめて食卓に招いてくれた際も殊更に飯塚の過去を詮索するようなこともなく兄弟か家族のような気軽さで接してくれた。飯塚はだから山に来てはじまった健やかな余白のような時間は彼が与えてくれているのだと思った。
大して広くない池の向こうにひとつの人影を意識したのはいつだったか。また居るとだけ思う程度だったがそれほど頻繁ではない。二度目か三度目と感じるほど此処へ来ていただろうか。訪れる人間などほとんどない山深い里縁から少々細い悪路をのぼった場所にある半世紀前につくられた溜池であり地図をみて偶然みつけたものだった。最初に来た時は誰もいなかったと記憶している。夏の終わりに池辺に立ってから形に添って対岸まであるようなないような小径をすすんでその人影に頭をさげて近寄れば、池に向かってイーゼルを立てて絵を描いている初老の男だった。こちらを一瞥しただけで口を閉じた男はただ描き続けていたけれども、彼の描く絵は池の景色ではなかった。画面中央にまっすぐに下ろされた人間の腕が、肩からて手首と指先まで木炭で丹念に幾度も消された痕を遺して淡くその裸形が浮き上がっている。いきなり見知らぬ人の秘め事へ土足で入り込んだ不安が膨れ、同時に振り向いて何か語りかけられたら凍りついてしまうと動揺しつつ立ち尽くし、男の木炭を持つ手首のゆっくり動く様を茫然と凝視するしかなかった。幅のわからぬ時間がどのくらい過ぎただろう。送られてくる風で正気を取り戻したような気分に戻って、還暦は越えたような貫禄を皮膚に顕す描く男の背後から足音を殺すように立ち去るまで互いに何も言葉を交わさなかった。帰りの歩きでは妙なものを見てしまった。近寄ってしまった反省のような、異形に出くわし魂消て腰を抜かしたような放心を纏わりつかせながら、それにしても彼は一体なぜあの場所で腕などをと幾度もそこまで辿るように反芻し、同じ答えのない黒い場所で途方に暮れた。それからひと月はいい知れぬ躊躇が生まれ池には近寄らなかったが秋も黄昏れてくる頃の、男の無邪気と片付けることができる晴れ上がった昼前に池辺に立って男の姿を探したけれども誰もいない。小径を回ってイーゼルが構えられていた場所に座り漫然と池を眺めていると、音がして、ーすまんなそこで絵を描きたいー と小さな聲をかけられた。振り返ると片手に道具を下げもう一方の手には喰いかけのパンを持った件の男がこちらを見下げている。思わず許しを乞うような台詞を吐いたかもしれない。立ち上がって去ろうとすると、 ー以前あなたはここに来たよねー とまた小さく男は呟いた。
なぜ此処で水を眺めて腕を描いているのかを尋ねずに、飯塚は電車の中で女の白い骨指をみたことを唐突に一方的に話しはじめていた。初老の男は聴くつもりなどない風情でイーゼルを立て画帳の白いページを広げ折り畳み椅子に座って小さな道具箱から一本の木炭を取り出して摘んだまま手首を膝の上に置き池を眺めて静止する。どうしてでしょう。唐突にモノがみえるのはいいとして、それが女の指だった。骨だった。ああ女の指は骨なんだと納得していた。気持ちが悪い話かもしれません。初老の男の静止に拒絶され飯塚は言葉に詰まったのかもしれなかったが、出すものを出した安堵もあって背後の倒木に腰掛けて動かない初老の男の眺める池を同じように黙ったまま眺めようという心地になった。
やがて木炭を持つ手首がすっと動いて白い画面を縦上下に浮遊し淡い影のような痕跡を与えはじめた。時折確かに水平に広がる水面を眺めるように少し頭が回って戻る。背後からなので彼の視線の行方は確かめられないが飯塚は垂直な対象など無い景色を観察しながらこの男は腕を描いているのだと判った。
茶碗に入った酒を一口いただくと、ようやく男は口を開いた。
「人の目というのはなんとも凄いね。後ろにふたつの目があったから描けなかった。謝らなくていい。あんたから妙な話を聴いた後だったせいもあるね。腹は空いているか」
一時間半程腕を描く男の背後にまんじりと座っていられたのは、彼が何も喋らなかったからであり何か別の対象に向かっている存在には安堵を感じるものだと飯塚は最中睡りへ誘われていた。唐突に片付けをはじめた初老の男は振り返ってーちょっと付き合いなさいーとはじめて声をかけた。半時間程山側へ続く小径を行くと森に差し込んでいた夕陽が降り注ぐような霧に覆われて昏くなりズボンの足首も濡れた。森の中の丸く開けた場所に出ると、意外にも車の走ることのできる路が脇に繋がった小さな山小屋があった。
「似ていると思ったのは、俺は最初鏡に映った自分の腕を描くことをやめて、頻りに腕の画像を集めてね。自分の腕なんかも撮影してさ。あの池の淵で憶いだせるかなとはじめた。惚け防止を兼ねた趣味のようなものだ。人間の腕は人間がみるものなんだから憶いだせないとね。駄目だね。こうであった筈だという解剖学的な見知で描くより、腕ということを抱き寄せないと駄目なんだよ。あんたの骨にみえた女の指はいきなり目玉に吸い付くようだっただろう。ちょっとね似ているかもね。女の腕は難しいんだよ。俺は描くのをやめた」
小さな七輪で温めた山女魚の薫製をしゃぶりながら、初老の男はどこの誰とも知らない飯塚に対して酔いの回った赤ら顔で饒舌になった。訊けば内山のことはよく知っているという。もともとは外の人間だからこちらの者たちと適当な距離を保って付き合っているが、腕を描いているとは知らないだろうとまで続けて、歩いて帰るには暮れちまったから泊まっていけと畳の上に寝床をこしらえるので、飯塚は頭をさげて布団に潜り込んだ。