「街のメッセンジャーが乗り出して流行っているが、都会の話だ。この辺りでピストに乗るなんて後悔する。俺だったら乗らない」
この人最近キャノンデールのカーボンで走ってるんだよ。達夫が別荘地で遭った高価なロードレーサーの所有者の坂本を指差すと、達夫に向けて坂本が微笑みながら声をかけた。
海外のメーカーの完成品なども飾り始めて品揃えが増えた篠田自転車店は、店の名前をシノタバイシクルとカタカナにした看板を新しく下げた。一時は下降するだけだった商いが、最近のエコブームと、団塊の世代の移住にともなった顧客の増加で、右上がりとなり、思い切り入荷した軽自動車ほどの値段のするバイクが三日で売れて驚いた。幾度か都内の専門店の知り合いを尋ねて勉強した店主は、近くの山岳レースなどのスポンサーにもなって、達夫が子供の頃のパンクを修理していた薄汚れた親父とは見違えて精悍になった。自転車の他に興味のない達夫にとって、この店の繁盛はこの上もなく嬉しいことであり、学校帰りの達夫と店主が時々取り寄せた専門誌を頭をつき合わせて眺めていることもある。坂本も、頻繁に店に顔を出しパーツを注文する常連であり、その豊富な財力と知識で店主にいろいろと新しい情報を教えていた。ネットで注文すればこうした店など必要ない坂本も、達夫のように真っすぐに同じ方向を向いている青年と会うのは楽しいと思った。達夫が最近店に来ては近寄ってしげしげと眺めている、シンプルなバイクの向こう側に回って、
「一度乗ってみるか」
達夫の返事を待たずに、走るのは舗装だけだぞ、と店主は肩を叩いた。達夫は坂本と店主の見送りを受けて、生まれてはじめてシングルギアを走らせた。
「ペダルが重いのはいいけれど、重量も若干重いですね」
「ハンドルは多分クロモリだよ。トラックレースは急激に加重がかかるから剛性を高めている。最近のピスト乗りはサーカストリッカーが多いけど」
紅潮した顔で戻ってきた達夫は、坂本と車体の細部を指で触りながら座り込んだ。
「俺はストリートトリックなんか興味ないス。ただ身体を持ってかれるような加速感はリアルですね。身体に正直に反応する」
坂本は達夫の意見を聞いて、俺も欲しくなってきたと笑った。週末は客が多く、ほとんどがマニアックな指向の素人だから、ただ売るわけにはいかず、細かい調整や修理、パーツの組み替えもするので、篠田は達夫に週末にアルバイトをしないかともちかけた。坂本はあの子だったらこのあたりをシングルギアで走り回るよと店主に囁いていた。夏休みならば連日でもいい。アルバイト代の前払いで、あのピストを乗ってもいいぞ。と畳み掛けると、達夫は飛び上がって喜び、お願いしますと頭を下げ、その日は、ややクラシックなデザインのコルナゴのピストを坂の途中で諦めて押して上がって家に戻ったが、終始顔が崩れたままだった。