シングルギア

10月 27th, 2009 § シングルギア はコメントを受け付けていません § permalink

 「街のメッセンジャーが乗り出して流行っているが、都会の話だ。この辺りでピストに乗るなんて後悔する。俺だったら乗らない」

 この人最近キャノンデールのカーボンで走ってるんだよ。達夫が別荘地で遭った高価なロードレーサーの所有者の坂本を指差すと、達夫に向けて坂本が微笑みながら声をかけた。
 海外のメーカーの完成品なども飾り始めて品揃えが増えた篠田自転車店は、店の名前をシノタバイシクルとカタカナにした看板を新しく下げた。一時は下降するだけだった商いが、最近のエコブームと、団塊の世代の移住にともなった顧客の増加で、右上がりとなり、思い切り入荷した軽自動車ほどの値段のするバイクが三日で売れて驚いた。幾度か都内の専門店の知り合いを尋ねて勉強した店主は、近くの山岳レースなどのスポンサーにもなって、達夫が子供の頃のパンクを修理していた薄汚れた親父とは見違えて精悍になった。自転車の他に興味のない達夫にとって、この店の繁盛はこの上もなく嬉しいことであり、学校帰りの達夫と店主が時々取り寄せた専門誌を頭をつき合わせて眺めていることもある。坂本も、頻繁に店に顔を出しパーツを注文する常連であり、その豊富な財力と知識で店主にいろいろと新しい情報を教えていた。ネットで注文すればこうした店など必要ない坂本も、達夫のように真っすぐに同じ方向を向いている青年と会うのは楽しいと思った。達夫が最近店に来ては近寄ってしげしげと眺めている、シンプルなバイクの向こう側に回って、
 「一度乗ってみるか」
 達夫の返事を待たずに、走るのは舗装だけだぞ、と店主は肩を叩いた。達夫は坂本と店主の見送りを受けて、生まれてはじめてシングルギアを走らせた。

 「ペダルが重いのはいいけれど、重量も若干重いですね」
 「ハンドルは多分クロモリだよ。トラックレースは急激に加重がかかるから剛性を高めている。最近のピスト乗りはサーカストリッカーが多いけど」
 紅潮した顔で戻ってきた達夫は、坂本と車体の細部を指で触りながら座り込んだ。
 「俺はストリートトリックなんか興味ないス。ただ身体を持ってかれるような加速感はリアルですね。身体に正直に反応する」

 
 坂本は達夫の意見を聞いて、俺も欲しくなってきたと笑った。週末は客が多く、ほとんどがマニアックな指向の素人だから、ただ売るわけにはいかず、細かい調整や修理、パーツの組み替えもするので、篠田は達夫に週末にアルバイトをしないかともちかけた。坂本はあの子だったらこのあたりをシングルギアで走り回るよと店主に囁いていた。夏休みならば連日でもいい。アルバイト代の前払いで、あのピストを乗ってもいいぞ。と畳み掛けると、達夫は飛び上がって喜び、お願いしますと頭を下げ、その日は、ややクラシックなデザインのコルナゴのピストを坂の途中で諦めて押して上がって家に戻ったが、終始顔が崩れたままだった。

意識

10月 15th, 2009 § 意識 はコメントを受け付けていません § permalink

 ATMの前に並ぶ中年女性のでっぷりと張りつめた尻を眺めて、肩に近寄り、昨日は獣を抱いたよ。男は呟きたくなったが、化粧の香りに顔を背けた。

 猪を罠で仕留めたのはこれで十匹は越えたか。斜面対して垂直に掘った穴に落ちたというよりも、逃げ込んだような小さい獣の額を二三度尖らせた鉄棒で突き刺し、四肢を痙攣させたまま引きずり出してから、矢庭に獣の肛門へ指を差し入れ自分の陰茎を突き刺し数分で果てた。土砂降りの中、獣の歯茎から吐き垂れた白い泡は自分のものだと思った。俺は仁王のような顔をしている。はじめてのことだった。衝動の在処を探すことをやめて、獣の糞に塗れた性器を打ちつける雨で洗っていた。まだ、朝だった。

 都内のマンションを車と一緒に売り払い、口座も移し、移転先は広島の生まれそだった町の隣にアパートを借りて住民票はそこへ移した。以前から国有林と私有地が深い山襞に隠れる場所を調べ何度か登山者の格好で実際に歩き、ほぼ2年かけてから場所を決定し山小屋をつくりを始めた。最初は富士の裾野の樹海にでも小屋をつくろうと考えたが、生きていないものを含めた雑多の訪問者が多いだろうからとやめた。

 ブナの原生林まで歩いて、折れた樹木を探し、ひとつを抱えて小屋に戻り、樹木を削り球体を掘り出す日々を始めた。月に何度かは、山を下り温泉宿で身体を洗って着替え、バスの走る県道まで歩いてから町に出て、金を下ろし買い物をした。蕎麦屋にも入ったが、旅行者でないと気づかれる前に、同じ暖簾をくぐることをやめた。知られたくなかった。小さな駅の公衆トイレで財布から免許証を取り出してから、丁度昨日が自身の65歳の誕生日と知った。免許証を買ったばかりの鋏で細かく切り刻みトイレに流した。この時まで離さずにいた小さなラジオも不燃物のゴミ箱に投げ入れた。

 町から小屋に戻るまで半日を要した。2ヶ月目で腹を下し、数日寝たままでもう駄目かと思ったが、身体の余計なものが絞り出されたような軽快さと飢えですっと立ち上がり、獣をとらえる罠をこしらえはじめた。4ヶ月経過した時、小屋から見下ろせる沢に人の歩く姿をみつけ、即座に数日掛かって小屋を解体し、更に奥へ移動してまた粗末な小屋をつくりはじめていた。半年後、町へ下りる理由がなくなっていた。

Where am I?

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