仕事に疲弊した人間も、小さな成功を握りしめた微笑みを口元に残す人間も、塾へ急ぐ早足の子供も、買い物の荷を重怠い幸せとして両手に抱えた老人も、やや急ぎ足で行き交う都市の角の階段に、そういう種類ではないとはっきりわかる汚れた服装の女が座り込んで頭を振っていた。指先のタバコの煙が無限を描いている。
約束までの浮いた時間を潰すために飛び込んだ喫茶店の窓から、夕暮れの赤い空と慌ただしい町並みをぼんやり眺めている時に、眺めの中で注視すべく対象として、その輪郭が際立った。
汚れていると最初は思った服装は、実は濡れているようで、雨など降ったかと一日を振り返ったが、晴天の健やかな秋の一日だけが淡く思い返されて首を傾げた。大丈夫?と冗談を含ませて近寄り肩を叩く友人が付近にいる筈で、タオルかなにかを取りにいっている。一度は自分のポケットから取り出したスケジュールを眺めて落ち着いたが、細い線のような声が聴こえたような気がして再び窓の外を見やると、矢張り女は首を振って、濡らした服の裾を片手で叩いている。よくみれば、足下に女のバッグが転がって中身が散乱している。おかしなことに通り過ぎる人間は皆、歩みを止めることなどせずに、その散乱した口紅やハンカチや財布や手帳を上手に避けて跨いで歩き去っている。
女の腕はタクシーのライトを浴びる度に、白く浮き上がった。ひどく白いなあと思った。
夕刻の約束は食事の席で行う種類のものではなかったから、軽く腹を満たしておこうと注文したサンドイッチが目の前に運ばれたが、食欲は萎えて、一片を掴んで一度かじって皿に戻していた。
首を振る女が徐々に暮れる夕闇に紛れるのを眺めながら、約束などどうでもいいと携帯を取り出して、急用ができたので本日は伺えないと他人の声で断った。
注視を促されてどのくらい時間が経ったのかわからない。唐突に女は足下のバッグを取り上げて、散らかった物を拾い上げ、突然の事故で転んだ行き交う人間の仕草で腰を伸ばして立ち上がり、傘を広げて何もなかったように足早に歩きはじめた。西の空は既に闇に消え、ネオンを反射する低い雲から再び小雨が降り出したようだった。
girl
11月 29th, 2007 § girl はコメントを受け付けていません § permalink
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11月 26th, 2007 § search はコメントを受け付けていません § permalink
ボンネットに落ちる雨音が止まった。フロントガラスに明滅していた小さな水の花火は消え、流れの筋が白みかえた景色をその幅だけクリアに垣間見せた。
冷えたバーガーを喉へ押し込み、ペプシで流し込む。
とりあえず身体を動かせる為で味など無かったが、顎を動かし続けた。助手席の足下には、2日分の補給で放り捨てた空のペットボトルとハンバーガーの包装紙が重なり、そこへビリビリと振動が伝わる携帯を拾い上げると、メールと着信履歴が同一名で累々と並んでいる。閉じて再びゴミの下へ戻す。幾度か咳がでた。
フロントミラーを手前に曲げ、ハンバーガーのケチャップがついた髭と顎を指で擦り、リアガラスに映り込んだヘッドライトの破片が瞼に飛び込み、眉間の間を指で押さえて弱く緩慢に続く頭痛を堪えた。
2センチほど開けた窓の隙間にクチビルを尖らせて近寄せ、白みかけた外気を縮んだ肺に吸い込んだ。
田舎の梅漬けのような香りが少しした。
—
美食とかグルメとか言って、デロデロのぬらりひょんなものばかり喰っているから、最近の女なんぞ、顎がこう細くなっちまって、ベロばかりでかくなっちまって。UFOに乗って飛んでっちまえってんでぇ。
あたしゃ戌年だから、バリバリ音が脳天まで響くような骨っぽいものが大好物なんだが、そんなもの歯に挟まるだとか、卑しいだとか、獣呼ばわれされちまいましてぇ、獣って言われてみればそのとおりでございますが、わけわかんないよぅ〜
—
ラジオから鮮明に、若い噺家だろうか、DJの声がふいに聴こえてきて、先ほどまではそういえばオーケストラが弱く鳴っていたような気もした。
ワイパーでフロントガラスの筋を拭ってから、脇の携帯双眼鏡を手に取って覗き込み、相変わらず閉まったままの、50メートル程先のマンションの地下駐車場を確認してから、5Fの角部屋の窓へ垂直に覗き穴を上にスライドさせた。
「かわりなし。わけわかんないよぉ〜」
と呟いた。
離脱
11月 12th, 2007 § 離脱 はコメントを受け付けていません § permalink
口元に落ちた水滴をゆっくり舐めて目が覚め、まだ生きているのだと思った。懸命に仮設した雪の祠が溶け始めていた。顳顬から脳天にむかってズキズキと痛み、それが凍傷であるとわかるまで頭を何度も振っていた。ビニール袋を体に巻き付けシェラフに体を密封し、死ぬかもしれないのだからと、何度も南の島の女を浮かべて自慰にふけって意識を失ったのだと数時間前が浮かんだ。
手袋の中の指を動かし、内側に折れたままの足の指を、皮膚を擦りつつゆっくり外側へひとつづつ曲げると、肩口の黒い滲みと痛みが広がり、転落した時に貫いた穴の傷と、弱い記憶が巡った。
下半身は凍り付いたようであったが、ふくらはぎに貼付けた使い捨てカイロの御陰だろう、血は巡っている。
雪から這い出ると、目の前には真っ白な丘と快晴の蒼天が広がり、身体から垂直に蒸気が上昇した。
眼下に見える樹々のある所迄歩いて、焚き火をこしらえなければいけないと思った。
バックパックを背負うと、身体の数カ所に痛みが走った。腰迄埋まる雪上を歩くのに手間取りながら、痛みと共に新しく吹き出してくる傷口の血の香りに、生存への意欲が湧くのが不思議だった。
血とともに全身を流れ落ちる汗が、凍った身体を自力で暖めたが、この汗が急速に再び身体を冷やすことが怖かった。
枝に残った葉を毟って口に入れ、握った雪片と共に飲み下した。見上げると真上の太陽を鷹がピーと鳴いてあたりを切り裂くように、滑空していく。
この時、海辺迄歩いて、仕事を探そうと決めていた。
He awoke slowly licking the drop of water that had fallen into the mouth.