ずぶ濡れで全身から水を滴り落としながら砂漠を歩いていることに少しも疑問を抱かずに振り返ると、足跡が延々と続き、長い時間歩いてきたのだと呟いた。踝迄砂の中に埋まった素足の先で海岸の砂を憶い出そうとしていた。
ふいに喉に何かが詰まって咽せ、歩行の感覚は失せて浮遊に変わり、気づくと波間から辛うじて鼻先を出して漂っていた。細長い発砲スチロールの廃材に身体を貫かせ意識を失っていたときの浅い夢が砂漠の歩行とは。現在の自身の危機的状況よりも、その奇妙な想起の重なりに、確かにずぶ濡れには違いない、晴れ渡った青い空を見上げてから言葉を含んだ笑みが口元に広がり、笑う状況ではないと慌てた。
胃まで呑み込んだ細い紐を左手で手繰り出し、身体の位置を変えて安定させてから四肢を確認する。血が滲む肩にやや深い切り傷があったが痛みはなかった。周囲を見渡すと遠くビルの凸凹のある陸地が臨むことができ、タワーなどの先端も見え隠れする。東京湾に浮かんでいる。
頭のすぐ後ろでエンジン音が聴こえたので頭だけ捩る。ほんの数十メートル先をタグボートが進んでいる。助けを頼もうとするが声が出なかった。人間の身体が廃材に隠れているのだろうか、腕を上げて幾度も振ったが船は遠ざかっていく。地面が見えるだけましだと斜めに傾く陸に向かって弱く泳ぎ出した。
一体どうしてこのような状況に陥ったか憶い出そうとするが、空腹が様々な料理を浮かばせるだけで、地下鉄で座っていた事の他は辿れない。それよりもなんとか死から免れようと把握のできない長い時間足掻くように防波堤へ近づくことだけの為に身体を使った。幾度か嘔吐した。
気づいた時は真上から陽が差していたようだったが、潮流に流され身体の力も萎えていたようで、数時間後の西日となりつつあった頃、ようやく防波堤の壁に触れることができたが、這い上がる場所が無い。暫く壁にしがみついて身体を休めた。
個人経営の釣船の木製の桟橋に、満ちた潮のおかげで這い上がった時は既に、ネオンに輝く夕刻となっており、泳ぎの邪魔となって海中へ脱ぎ捨て、下着姿の動く死体のような格好で、よたよたと残った体力で歩道を急ぐサラリーマンのひとりに、弱く交番を尋ねようとするが声がでないので後ろから肩に触ると、年配の男は驚いて声を出し遠ざかってからまた近づいて、「大丈夫ですか」と声をかけ、同時に幾人もの人間が走りよって来るのを見ながら、そこに崩れ落ちるように意識を失った。アスファルトに頭をペタンと倒した時に、砂漠をずぶ濡れで歩く自身へ戻りたいような甘えが浮かんだ。
砂漠
1月 8th, 2008 § 砂漠 はコメントを受け付けていません § permalink