猛禽か齧歯か、与り知らぬ小天狗道化の嘲笑を体に纏う輩が滑空した大気痕を斜めに追って顎を突き出し、枝間を睨みあげた眉の形を崩さず前のめりの格好のまま進む。というのも闇の中焚火炎に照らされ、また溜りの月光反射に咽ぶ彼らの飛翔に気づく度ちぃと舌を鳴らしていた。小憎らしい奴らの宙空へ遺した手を伸ばすと掴めそうで届かない飛行景を夢の中で「下ではなく上へ」と諭されるかに幾度か喉を反らして巡らせていたので、痕跡が結ばれる樹々の間隔と高低差をぬんと繋ぐ目付きとへの字に曲がった唇の形はいつまでも消えない。猛禽はまだしも齧歯のふざけた肢体のまま落下の速度で真横に流れることが気に触る。彼の目玉に乗り移ることのできない今世の軀のつくりが怨めしいのか。狐狸の徘徊には別段思いは膨れない。なにしろ宙空を浮遊したことなどないくせに夢のつづきでふわりと浮かび泳ぎこうだったのかと浮遊法の取得を歓ぶ束の間の錯覚の喘ぎが覚醒後も消えないからだと思われる。現在を切り裂いて「みえること」を遠く高く放り上げる手がかりが彼ら飛行類にある。錯乱に似た息を吐くこちらに出会うものは人間であっても魑魅魍魎であっても目玉が互い違いに上と下へ向けた気の振れた生き物と突き放し関わりを背けるだろう。
墨と光が鈍闇色に混じる半時前の疎らに煙るまだ昏い早すぎる朝から幻視と肉を錯誤させつつ動き、飛行輩が這い戻って眠る古木の高さのある樹洞を見上げ、樹々の幹枝に肩を幾度か擦りつけ足許に糞尿をみれば寝惚けを垂らした獣を嗅ぎとったりもして、立ちどまり、背を使って上を仰いでから腹を凹ませ下へ屈む軀の軸に直付けされ知覚の認識遅延を切り捨てた視線を朴訥に放って、残雪からのぞくゆるく水蒸気ののぼる濡れた黒い醗酵土へ指を差し入れ時折蠢くものを摘んで懐の紙袋に入れていた。代謝は荒れずいつになく漲って素早く動く足腰があるのは、雪が融けはじめた山に入るようになって半月は過ぎていたから凍結の季節に鈍って凍り弛緩した肉の撓みがこれも融け落ちているからだ。啓蟄芽吹きの薫粉が鼻孔に染み入って胸のなかまで毒粒子を含めばそれが臓の腐りを刮ぎ落とす、外から細胞の入替を強要される時節を丸ごと鱈腹喰らうだけでいいと軀は開いている。上空の乱気渦を千切った山神巨人の一筆のごとき打下ろしが垂直に小賢しい肉顫動を圧し潰し若気た人間の気配など土に交えて掻き回す上、獣らの軀も神経も再生の季節に痺れて犯されているから都合よい。行手を細い管道と示すかの儚い飛行痕を陽光に手伝わせた光環と映し朧前方へほらこっちだと導かれるままより深く高い森へと入るのだった。凍結が臑に這い上がる初心くちらつく雪の頃から昨日で百を数えた紐仕掛けの稚拙な罠に今朝はふたつ野兎が走り込みひとつはじっと座りひとつは突っ伏してじたばたしており腹に触れると野の奇跡と感じられるほど温かかい。赤布帯の徴を目印として添えた十の落し穴は破られていなかった。罠の必要に切迫しているわけではない。そもそも山中に放棄され朽ちて隠されたような潰れた空缶や衣服や瓶や靴、あるいは樹木葉の堆積層に深くそのほとんどが埋まっている電化製品の塊や車のタイヤなど、どういった理由でそれが其処に在るのか、空から降ったと決めるしかない不自然さで、人との繋がりを離れた時間を長々と費やし自然へと融けかかっており、そんなモノを躓くようにみつける度に深い山中の時間が漬け込まれた醗酵臭に酔うかに立ち尽くしつまらぬ感想を与え拾い上げるより先にその傍に座り、この軀にとっては到頭未来より過去の時間が長くなったからだろうと愚痴るわけでもなく稚拙な罠を仕掛けていた。棄てられたモノをつくづく眺め手にとることもあったが余程のことがなければいちいち拾い上げ懐に入れることはなかった。ただ様々に徒な朽ち様の詳細にほぉと声を漏らすこともある。百年でそのほとんどを分解するだろうが、欠けたラベルの文字が場所との不適合を越えて新しく「賞味期限」と笑わせる意味となって場所に打ち込まれる。ひとつ笑った後に文字が沈んでいるのを眺めるまま時が過ぎることもある。森の浸食の力といつしか同期するのはよいけれどやはりこの軀の消滅をくっきりと浮かべて静まる。今時こんな深い山中人も歩かぬだろうと浅く決めてもどこに何が潜もうとこちらが此処を彷徨うような気ままさの別軸の系は痕跡と徴された形骸がいくらでもあった。人気の失せた場所など世界には無いけれどその気配は長さの異なった時間に支えられていた。罠をこしらえることはだから、不法投棄を訝るのであれば自身の彷徨そのものをも戒めなくてはならないと笑いを浮かべる程度の仕草だったし、鞣した皮や肉を持って谷山中の隣人に届けると思いのほか歓ばれたからだった。森の力にそのほとんどを任せる山中行であり埋もれたタイヤに生け花をする意味の所有をするつもりにはならなかったが、幾つかは意識の外で持ち帰り、空缶を調べると半世紀は過ぎているものがあり、あるいは一度煮炊きに使ったようなものもある。間伐業者が残したような工具の類いもあって、幾分錆びた鉄塊は蹈鞴兄のところに持ち込み使えるものは研いてずっしりと重い叩けば時間が打開かれるような金槌として使うのだった。朽ちて潰れた遠い時間が目にみえる屑を倹しい小屋の柱に掛けて葉を差し、あるいは庭先で煙草皿とし、あるいはすきま風を防いだ。
次の季節雪のあるうちに追い込みをかける谷を浮かべ放置すればよくないことが起こるかもしれない落とし穴をひとつづつ潰していく。罠は地雷同様時節を逃せば悪意となる。仕掛けの確認を終えれば飛行痕と迷う光環にまんまと促される道行きのみとなった気楽な揺らぎ足にもどり、深山から降りたことのない谷へ滑り落ちるように下ってしまってから沢で口を濯ぎ首を洗い脹脛に縛り付けた足袋草履を緩め足裏に刺さったものを抜いてから流れに差し入れると赤筋が長く流れ伸びたので踵を太腿にかかえあげて新しい鮮血が膨れる裂目へモチグサに唾液をたらし擦り込む。皮膚裂けは旺盛な儂を示すだけであり谷を刻む岩に肉管の脈動が照り返されるようであったから眩しいので瞼にも水をざぁざぁと与えその冷酷にうあぁうあと唸るにまかせると渓谷はぶぁぐぁあと響き返す。手斧頭で兎の頭を叩き背の漲りがすとんと抜けた毛袋の腹に刃を入れるとひとつぎゅうと啼き背の張りが一度戻ってからまた落ちた尻の穴から胸元へと腹を開き湯気臓物を掻き落とし岸辺の残雪を丸めて太い動脈からの血を吸い取るとそれまでは姿を隠していた猛禽がどこか近くでぐぎぃぐと鳴いたようだった。仰げば羽影も流れたのでほら喰え。聲を洩らして岩の上に臓物を無造作に並べる。昨年の初秋の収穫前の稲穂を喰うわけでもないのにただただ荒らした猪のせいで米が臭くなり棄てるしかなかったとぼやいた蹈鞴兄へ差入れた薫製を、両手で受け取った親指の垢の詰まった潰して伸ばす仕事刺青の黒く平たい指爪がふいに浮かび、野郎のところで兎は鞣すかと迂回の道行きを浮かべつつ懐の紙袋の蚯蚓を針に差して沢の深みへ糸を放つ。儂は糸が引かれるまでそれまでの関心を蚯蚓に渡してしまった動かない森に棄てられた欠片のようなものになり、輪郭を屑同様腐食させるに任せ風には揺れたかもしれない。並べた臓物を鳶が降りておそらく胃などを白梟はおそらく腸をだらりと蛇のように銜えて低く飛び移る音を耳裏で聴いたけれども時が降るばかりで振り向きもしなかった。
ーついとなりで貪るものらは、宵から傍に居たわけでもないが、その動きはこちらの部分である項垂れを、頤に含んでいるー
半年前に里から歩いてきたという鬼灯を銜えた女が独りで棲みはじめ金色短髪であったからか女に纏わる在ること無いことが囁かれ四つほどの谷山を流れ渡った。時折雨露雷を避け数日寝泊まりすることもあった古びたふたつ山向こうの聖庵はだから近寄らなかった。噂が耳に触れた時に三つの山を越えてもその日の内に行き戻ると決めていた。釣りあげた岩魚山女魚兎の残腑と血筋を沢に流し与えてから燻すのも鞣すのも後回しにして腰に縛り付けつつ、そういえば炭焼樵の婆が煙りの中から儂を呼び止めあれは橋女郎じゃて鬼灯で子を堕ろす手練よ。へぇと近寄ってから山鳥と換えた芋が多すぎて重かったのはまだ秋の前だった。などを巡らせて降りる前に垂らしておいた綱を手繰って崖を垂直にのぼる。山の者どもはどうこういっても鬼灯金色女に食い物などを持って忍び寄り出自を探りつつ下流の大工が雨漏りの修理をしたやら神社の神主が布団を差入たなどと聞こえくることが重なった頃、あれはあれで知恵もあり子の熱をアオダモをつかって下げたこともあると聖庵の下手の村道沿いの雑貨店の主人が教えてくれた。儂はこのところずっと飛行する輩のことばかり考えていたのでどうでもよかったが谷山の出合頭に交える聲には必ず鬼灯女が滲むのだった。炭焼樵爺婆には娘が独りあって里だか街だかに嫁に出たまま戻ったことはない。下の息子は幼子の時に亡くなったと最早このあたりには現れることのなくなった薬売りに随分前に聞いたことがあったが、爺婆に確かめたことはない。橋女郎が娘と重なるかもしれないと儂は口を閉じて弁えて婆の聲を聴くだけにしている。炭も売れなくなり樵の体力も衰えた夫婦は荒庭の倹しい野菜よりも薬草やら山菜のほうが高値だと残り少ない歯をのぞかせてほくそ笑む。山の男は頑丈だがぽっくりと逝くから心配などしていられないと威勢のいい婆は実は爺よりずっと若いのだと営林署の人間に聞いたことがあったが、これも山中の立ち話にすぎない。こんな儂でも獲ったものを持っていけば土間と板敷きしかない小さな小便臭い小屋に呼び込んで泊まっていけと頻りに誘うものだから、爺の悦ぶ酒を婆には地蜂などを持参して幾度か通ったものだった。その度に鬼灯女ばかりではない幾襞もの谷山の者共の暗夜行路を砂糖をかけた沢庵をしゃぶりながら捏造を自ら許して呟く婆の聲を肴に儂と爺は黙って頷きながら杯を重ねるのだった。喋り終えると不意に小さなラジオのスイッチを入れ時々折れるような波打つような番組の音を枕元に添えて早々と布団に入ってしまう婆の寝息の聴こえてくる頃、爺はラジオのスイッチを切り、婆との生活では言葉など使わなかったような忘れてしまった者の発音でようやく嗄れた聲をぼそと零すのだった。鬼灯女は女郎ではないのよのお。しぃとるか。俺は目元をよおく見たから判ったぁ。誰に訊いたか咳き込んでいた俺に食べなよ菜葉と魚を上手に煮て持ってきた。あれは惣治の娘じゃてぇ帰ってきたのだぁ。俺の子ではないよぉ。おそらくのぉ。魚は北のなんだったっけなぁ。金髪には炭をたんと持たせた。にしんじゃ。あれはニシンじゃ。囁くような小さな呟きが緩慢に長い沈黙を挟んで続けられ、それを耳で受けとる儂はとうとう炉端に横になって目を閉じ杯を持ったままいつになく深いところまで沈んでしまったような眠りに就くのだった。炭焼樵の住処は儂のところからひと山も超えない近さであったから時間があれば立ち寄り、爺婆もそれを頼りにしてくれているが、八年すぎても互いの名を知らない。尋ねたこともない。
ー静寂など訪れないこの森の、しかし地べたへ低く張り付くように静まりかえることはある土に、星こそが染まり広がるー