ブルワリー

9月 19th, 2008 § ブルワリー はコメントを受け付けていません § permalink

車で20分ほどの森の中のブルワリーに隣接されてある、ブルーベリー園に行けといったのは房子のほうだった。外から眺めるだけでもいいから見てきなさいと、業務指令を下す上司の口調には逆らえないと、笑みをこぼしながらハンドルを握ったものだ。と野上は憶い出した。ホテルの厨房にあったブルーベリーが、このブルワリーのものであり、他の巨大農園のものと比べるとクオリティーが高い。育て方が違うと房子はホテルのシェフの轟から聞いたのだった。
野上は、ブルワリーに併設されているレストランで、まだ若い田代というシェフ兼醸造工場長と、彼のだしてくれたランチパスタを頂きながら、新緑の木漏れ日の中、シーズン中の納品スケジュールを調整していた。この田代にも湖畔のホテルのシェフが仲介し、此処のレストランで使われる無農薬野菜の契約を取り付けていた。ブルワリーではなかなか味の良い地ビールを生産していたが、田代のいうにはコストに問題があり、末端価格が現状でも厳しいと、ことあるごとに愚痴を零したが、田代のそれは何か爽やかで、野上は田代の愚痴を聞くのがむしろ楽しみだった。野上がまだ代理店で勤めている時既に、この地ビールの発売の告知を知っており、幾度か接待の席で目にしたこともあったが、ブルワリーには妻に言われる迄来た事がなかった。
野上は酒を呑まなかった。外回りに奔走している頃は、業務に支障がでるに違いないと決め、晩酌の習慣もなかった。煙草も吸わず、回りからは何が楽しみなのと揶揄されても一向に平気だったが、湖畔で、牧場を辞め農園の経営が上向きになり出して、ホテルのシェフの轟に是非試してみなさいと薦められワインを飲み、以降度々アルコールを少量身体に行き渡らせることを知った。このブルワリーとの契約時に、出荷されている全種類のエールを12本購入し、拡張した湖畔の家の買い替えたばかりの冷蔵庫に並べると、妻も息子も手を出して、あっと言う間に空になった。すべてそれぞれ深い味のする苦みがあり、上品なビールだったが、毎晩何本も空にする値段ではなかったので、野上は他では買わず、此処にくる度に4種類を三本ずつ家族に合わせて1ダース購入するようになった。野上は濃厚な黒ビールが好きだった。妻も息子も各種類1本ずつ飲むのだった。

こんにちわと頭を下げられて、振り向くと、湖畔のニースの安藤が微笑んで頭を下げた。野上さんお久しぶりです。先日シェアコテージで滞在している坂下さんが野上さんの野菜を料理して、スザンヌと川上さんといただいたわ。坂下さんは酔っぱらって土がついたまま炒めていたけど。と笑った。土がついていても家のは大丈夫だよ。ミッちゃん。と野上は釣られて微笑んだ。
田代さん今度もお願いします。ワッペンのデザインをビルが作ってくれたから持ってきたわ。タロウ君も手伝ってくれったってビルが言っていたわよ。ちょっと早いけど、見てもらおうと思って。
タロウと聞いて野上は、安藤がいいかしらとテーブルに座り広げたクリアファイルのグラフィックを覗きこんだ。安藤はボードの大会に出る時に田代のブルワリーから、ささやかなボリュームだが、スポンサーアップしてもらっていた。10年前の冬期オリンピック時に選手として目覚めたが、年齢的には遅咲きだった。育った環境が柔軟な身体に適応力を与え、男性が驚くような勇気をみせることがあり、オリンピックでウインターアスリートたちの環境は大いに改善され、一時はノルウェイの世界大会に地元がその費用をサポートして遠征したこともあった。だが、もともと小柄であり、安藤は海外の選手の体格との差異に限界を感じながらも、国内の大会では常連となり、大会に花を添える明るさでスポンサー申込が相次いだ。3年前に大会で足を折り、引退を考えたが、このブルワリーの田代や湖畔の皆が励ました。だが、田代には次のシーズンで引退する旨を前シーズンの終了時に明るく申し出ていた。

尾行

9月 19th, 2008 § 尾行 はコメントを受け付けていません § permalink

洗面所の下に開けられた窓から同じ車が見えた。
誕生日に妻からプレゼントされたばかりのブラウンのシェーバーを顎にあて、歯を磨きリステリンで口を濯ぎ、風倉が誉めてからずっと妻が使い続けているプチサンボンの隣にあるブルガリのプールオムを、鎖骨に一押し噴霧させ、タイを緩めに絞めた。
朝はいいっていつもいってるだろう。風倉の席の前の絵皿にスクランブルエッグとフルーツが添えられてあり、妻の明子は対面式のキチンのカウンターでパジャマのまま珈琲を煎れていた。あたしが食べるわ一人分しか作ってないし。明子の差し出したマグカップに風倉が立ったまま唇につけると明子は寝不足のような虚ろさでつぶやいた。
今日は部活の指導があるから帰るのは六時すぎだな。病院で問題があったらメールしてくれ。と、ベランダに続く窓迄歩き、遠くに見える水平線を眺めた。娘の理恵が夕べ熱を出し、妻は先ほど学校へ病欠の電話をしたところだった。理恵は生まれた時から気管支が弱く、妻のアトピーも遺伝したようで、季節の変り目やちょっとした埃で咳き込み熱を出した。掛かり付けの小児科に連れて行くわと、昨夜明子は理恵の額を冷やしながら決めていた。妻からひとつにしたらと何度も言われているのだが、立場上目を通す必要があると半ば意地になって三社の朝刊が毎朝届くが、最近はひとつを家に置いて、ふたつを持って出かけ、社会科職務室に積み上げてあるのを先輩の教諭に諭されてから、行きか帰りのコンビニのゴミ箱に棄てるようになり、全てに目を通すことなど余程のことがないかぎり無かった。
試験が近いので、少し早めに通勤する。と妻には言ったが、外の車のことのほうが気になっていた。

風倉は大学院の修士論文の指導教授から地元の私立高等学校を紹介され、移動もないから楽だぞと薦められるまま大学院を修了し社会科の高校教諭に就いた。幼少から勉強よりスポーツ万能で、高校の頃から熱中したスノーボードはプロ顔向けの腕で、ボーダーメッカのゲレンデも近かったこともあり、大学も地元を選び、学生の頃は何度か大会でトロフィーを貰ったこともある。勤めた高校の理事長からスポーツマンは好きだよと云われたが、どこで勘違いされたのか男子バレーボール部の監督・顧問を任され、二年後には県大会で優勝を逃す程鍛えあげた。このことを新入生に授業で挨拶代わりに話すと生徒には受けた。十代から絶えず女関係というより女の問題が山積していたが、どちらかというと身体を酷使し、器具の手入れをする時間のほうが気持ちが安まった。就職が決まり、凡庸な勤務の日常をはじめた五度目のシーズンオフの休日に、東京まで車を三百キロ走らせて、翌年に卒業を控えたまだ学生だった明子に求婚した。妻の明子とはゲレンデで知り合い、明子は東京から遊びに来ていたが、わざわざ風倉に会いに3シーズン、多い時は5回程ゲレンデに通った。求婚の際、明子は東京に来てといったが、それなら諦めると車で戻ると電話があり、電話の中で明子は謝った。風倉の求婚は、回りの締め付けによるものが大きな理由で、家族は勿論、親戚や職場の同僚も断わるとすぐにまた見合いの写真を腕に挟んで走り寄ってくるようになり、いっそ自分で勝手に決めると、それまでの関係から選択するような気持ちで明子を選んでいた。
所帯を持った翌年には長女の理恵がすぐに生まれたが、理恵が三歳の時に、それまでより通勤には時間がかかるようになったが、新築の4LDKのマンションを実家に援助してもらい購入し、これで二人目が生まれると大変だわと、回りには駆け込める知り合いのいない都会ッ子の明子が呟いたのを聞き、ふたりはしばらく避妊することにした。
風倉はシーズン中には時々、世話になっていたゲレンデのスクールからスクールコーチを頼まれ、結婚前より仕事の合間に趣味的に通いはじめ、その為だけにフルタイム4WDを購入したのだった。実家はこの地方有数の豪農で、風倉の六つ上の兄が家を継ぎ、真ん中の姉は関西へ嫁ぎ、末っ子には選択肢は無限にあったが、通えぬ距離ではなかった大学時から、大学寄りの海沿いのワンルームで独り住まいを始め、所帯を持った時もその下の階の2LDKに移っただけだった。
勤務先の高校では、勤務年数を重ねる毎に、私立高校故の持続の手法を先輩の教諭から何度も諭されていたので評判も良く、なんの問題も起こらなかったが、冬期のスクールコーチでは、もともと異性に好かれるタイプであるせいか、ちやほやされ、何度か通りすがりの女性達と関係を持った。妻は私にわからないようにしてと、最初から多少の火遊びは認めた風だったが、それは当時流行ったTV番組の真似であり、明子はなんとなく察知してはストレスを身体に埋め込んでいった。

風倉はマンションの地下駐車場から車を出し、路上で止めてドアから外に出て、エンジンを止めて駐車している車に近寄った。助手席の窓をノックすると、シートを倒して寝ていた風だった男が慌ててイグニッションを回しながら、窓を下ろした。この車、昨日も私の仕事先で見たんだが、私に用事があるのか。それとも誰かに頼まれた興信所か。と風倉が尋ねると、男は左手を左右に振ってギアを入れ走り去った。見上げると、部屋の窓縁の柱に身体を半身凭れるようにして明子がこちらを見下ろしていた。

別な形

9月 18th, 2008 § 別な形 はコメントを受け付けていません § permalink

最初は農地を売り払った金で、新車の最上級のセダンを買ってしまおうと日産、トヨタのカタログを取り寄せてこれにしようと思っているがと相談すると、兄貴それってあんたの新しい仕事上似合わないって絶対誰もが口を揃えて非難する。やめとけ。と弟が言い放ったので、考え直した。結局、中古ならばよいだろうと3ナンバーを選んだが、弟は首を捻った。弟は子供が年子を挟んで四人の計六人の大家族を形成していて、実家の手伝いの他、隣の県で豪農の家からかなりの範囲の稲田の管理を任されていた。
川上の出戻りを祝う同窓の会を開いた友人達は、そろってあんたは変わっていないと酒の席で口を揃えた。相変わらず狡賢い感じと独りの既婚の女が口にすると、川上はぷいと腹を立て席を立った。それから幾度か宴会に誘われたが出席しなかった。幼少の頃より、人里離れた自分の家を呪うように育った。あなたは農家のお手伝いもあるのによくできると女性教師に誉められたのが忘れられず、屈折して目上に媚を売るような性格が助長され、年下の自分には何の得にならない者に対しては冷たいというより無関心だった。一浪して早稲田に合格したが、予想以上に同級生は優秀であり、自分がいかに田舎者であるかを痛い程味わったが、それを表には出さず、実家からの仕送りを増やすよう、それらしい内容の口実を都度捏造し、流行のファッションで都会の若者を気取った。時代がバブルを経験する時、人事を煙に巻いて入社を果たした大手のメーカーの東北の地方都市で躓きの種を蒔いていた。
博物館の学芸員の口も、母親があそこの学芸員が退職だからお前が資格をとれば大丈夫だと見つけてきたが、最初はこんな田舎で博物館などと地味な仕事は嫌だと思った。が、他に納得するものが見あたらず、無職でいつまでも車を走らせているわけにもいかないので、話を聴きに博物館を尋ねるとトントン拍子に話がすすみ、資格なんてここで働きながら通信で取得すればいい、地方公務員試験だけ受けてくれと、退職する館長と入れ替えで就職が決まり、これでようやく俺にも風が吹いてきたと、大袈裟な離れを実家の横に造らせた。母親は見合いの話を幾つも貰ってきたが、父親が半分以上を断った。川上は文句を言わなかった。
好きな女は何人もいたが、都度気取って大袈裟に自分を誇張するだけで、その度に呆れられて振られた。懲りなかった。風俗の店に入り浸り、これで充分と社内での酒の席で嘯いた。
あなたって中途半端に馬鹿じゃないから厄介よね。と年下の安藤に言い寄った時に言われて、その時はどういう意味かわからなかった。呑んで酔えば、陽気になり辺りを笑わすと、湖畔の商工会の年配や市や県の担当者には好感を持たれており、川上は自分を見透かすような安藤をどうにかしないと気が済まなかった。

川上がニースでランチ用のパンを買いに来た際に、この後閉館間際でいいからちょっと博物館に来れるかいと声をかけられた時は、安藤ミツコは気軽に何の用なのとさっぱり返していた。夏のイベントのことでさ。困ってるのよ。と続ける川上が町の長老らから厄介事を頼まれたというより安請け合いしたのだと判り、了解。でも三時半すぎるわよ。それまでアイちゃんと交代できないから。閉店間際に店の前に立たれるようしましだわと、少しは懲りたようねと受けていた。

イベントの相談だと思ったら、いきなりあいつはやめたほうがいいと川上は口にした。どうしてあなたにそんなことをいわれなきゃいけないのよ。と帰ろうとすると、君は健全でなきゃいけないと、強引に座らせるのだった。川上は、時々ニースの閉店間際に車が止まり、その車に乗り込む安藤を何度か目撃していた。ニースのアルバイトに、あれって誰と聞くと、ミツコさんアイジンらしいです。と、赤い頬のアルバイトのアイちゃんは、わたしから聞いたって黙っててください。とつづけて奢るからと誘ったホテルのランチをぱくぱく食べながら喋り続けた。どうやら冬期のゲレンデのボードの指導教官らしいが、隣の県に家庭があり、妻も子供もいて高校の教諭らしいというところまで聞き出した。
愛とか恋とか流石に諦めた。別の形の親しみから、言う事にしたんだ。俺が相手にもうやめてくれっていってやるよ。とそれらしい口調で添えた。安藤は、しばらく思い悩むように下を向いたまま膝に手を揃えて黙り込んだ。
足音に気づいた安藤が、あらっと川上の背中の向こうへ目をやった。安藤の表情がすうっと明るくなった。

セラピストとインフラ

9月 17th, 2008 § セラピストとインフラ はコメントを受け付けていません § permalink

マジョラムはシソ科の多年草で、沈静、血圧降下作用があるのよ。
スザンヌのコテージの深いソファーに座った坂下は、漂う香りを吸い込んで頷いた。
この国では、まだセラピストは公に認知されていないけれど、民間での資格などはあるようね。リラックスなさい。

安藤がスザンヌを同伴して坂下のコテージに現れた理由は、夫を亡くしたスザンヌを癒したい他に、スザンヌがプロのセラピストで、公的機関の専属で何年も本格的なPTSD患者の対応をしてきたことを憶い出し、坂下に会わせたかったからだった。
とはいっても皆がそれぞれ初対面に近いあの夜は、既に患者を含めた二人が酔っぱらいで、この料理まだ土がついていると、皆で笑うだけの陽気なウエルカムパーティーとなり、それ以上のものではなかったが、川上が安藤を呼んだタクシーで見送り、坂下がスザンヌのコテージまで歩いて見送った帰り際、ちょっと待っててと、自分の名刺を坂下に渡し、よかったら連絡してと、診察をする旨を彼女から申し出たのだった。どうやら安藤が坂下のことを多少説明していたのだった。

坂下の英語は自信がなかったが、できるならば英語でと云われ、これまでの自分の生い立ち、家族関係などを静かにゆっくり話した。スザンヌは真直ぐに坂下の瞳を見つめて何も喋らず、時折頷きながらペンを走らせた。
オーケィ。今日はここまで。今度はいつ来れる?とドアまで坂下を誘導した。坂下は稚拙な英語力が恥ずかしかったが、スザンヌのセラピストの表情にこの時信頼を寄せていた。
坂下が帰ろうとすると、スーザンとネイティブな声が横からして体格の良い男が歩み寄り、ハグをした。スーザンから、ビル、こちら坂下さん。彼は今セラピーに来ていたの。坂下さん、こちらビル。ここからすぐのコテージのオーナーでカナダ人よと紹介してくれた。坂下は手の甲の濃い体毛に指先を絡ませるような握手をしてから二人に会釈して歩き出した。スザンヌと個人的な用事がありそうなビルは、メイビーネキストタイム。と手を振った。 

坂下はラップトップで少しずつ仕事をはじめていた折、ADSLでは速度が足りないと、拡張回線の工事を依頼していた。オーディオの修理に来た電気店の主人が再び訪れて、今度は上田電気店取締役、上田義男と書かれた名刺を差し出した。このあたりは、湖畔を離れるとネットインフラなどまだない。携帯だって微妙です。湖畔は海外のオーナーが多いから、彼等の要望で90年代半ば頃から、ISDNを使う人が多かった。そのネットインフラ開設陳情、嘆願者が、どうやらビルだと坂下は上田から知った。
ビルは、相当なシステムをコテージにあつらえてあり、避暑地のほうが仕事ができると、こっちに来てしまった。時々帰るようだ。上田は、湖畔のほぼ全ての電気関係の工事を請け負っているようで、住民のことも詳しそうだった。坂下は新たな企画書を作成する上で、一世代前のラップトップに乗せていたアプリケーションではプログラムのテストができそうにないと判り、すぐにビルのことが浮かび、スザンヌの二回目のセラピーの後、教えてもらったビルのコテージのドアをノックした。

両手を広げたビルが現れ、坂下は腕を差し伸ばすと、いきなり両肩を抱きしめられハグされた。 苦笑しながらコテージに入ると、リビングのソファーに青年が座ってチップスを口に運んでいた。ビルはふたりを見比べるように首を回し、お前達知らないんだなと、タロウ、坂下、と紹介した。坂下は、あっ野上タロウクン?と、野菜を分けて貰いにいった際、離れのプレハブから出て行く後姿を憶い出した。
座ったまま頭を少し下げたタロウは、変わらずにチップスを口に運び、低いテーブルに置かれたモニターを眺めながら、手にはコントローラーを持って操作を続けていた。
坂下は、訪問の理由を手短に説明し、こちらのシステムは完璧と上田電気店の主人に聞いたので伺ったと、現在抱えているPCのCPUなどを加えた。ビルは、了解。とはっきりとした日本語で答え、タロウの横のソファに座れと促した。

ゲームをやっているのだろうと、タロウの見つめているモニターを眺めると、30インチほどの液晶モニターには、天気図が映し出されており、どうもそのプログラムをタロウがカスタマイズして、動きの調整を行っているようだった。口笛を鳴らして眉を曲げ、坂下は驚いた。
タロウに仕事を任せたの。スパークリングでいい?ビルは坂下の答えを待たず、明晰な日本語で栓を抜きながら目の前にペリエを置いた。日本語完璧ですね。と坂下が言うと、ボク、翻訳もするから。とビルは自分の胸をたたいて笑った。

轆轤

9月 17th, 2008 § 轆轤 はコメントを受け付けていません § permalink

こりゃあ繊細だなあ。轆轤の回転を止め、普段は寡黙な本川は声を出した。その声に自分で驚いた。

ホテルのラウンジで、ヒトミの仕事の様子を聞いていると、携帯に吉本から戻ったと連絡があり、よ〜し行きましょう。つくりましょ。と立ち上がりながら、愚痴を本川さんに話す為にとっておいてよかった。と笑った。
ヒトミは叔父さんこのひと接骨師だから腕には自身があるわよ。体験コースご指導よろしく。と背を押し本川を預けて、棚に載せておいた自分の小さなテラコッタを手にとり、カワムラに模様はどうしたらいいかしらと釉薬見本をカワムラから受け取り独りで勝手に作業をはじめた。
お願いします。本川は吉本に渡された申込書に記入しながら、結納をしているような気分になった。
あたしも腰を一度やってね。座骨神経痛で一ヶ月臥せっていた。ヤツに代わりを頼めたから助かった。今度やったら治療をお願いしようかな。と挨拶代わりの台詞に本川は幾分緊張を解き、腕を捲った。

カワムラは、ヒトミの束ねた髪が一筋ほぐれて自分の腕に触れる度に、本川のほうを眺め、ヒトミがとうとう男を選んでしまったという傷心が膨らんだ。どうか付き合ってくださいなどと言うつもりは毛頭なかったが、度々叔父を尋ねる溌剌とした姪っ子として、年上だったが憧れるような気分を加えて恋をしていた。ヒトミの頼みは全て受け止めて、大皿の大作に挑んだときは、三日間休みをとって泊まり込んだヒトミと随分話したものだったが、吉本から逃げたことは言うなとグギを差された。カワムラはこれを姪には手を出すなと受け取り、そんなつもりはありません。と答えたが、仕方ないと諦めた。

吉本は、五十になる手前で会社を辞めたのは、陶芸をやろうと決めたからだった。地方都市の割と大手のデパートに大卒で入社し、県内の支店を数年ずつ回って本店に戻り、経営の企画開発をやり手の上司の下で腕を磨いたが、いうなれば隷属された飼い犬のようだといつも感じていた。催し物会場で幾度か陶芸展を行った大家の陶芸作家の家に挨拶に行く機会があり、上司は用事があるからと吉本ひとりを送り出した。盛況な展覧会をありがとうございました。次回も是非お願いいたします。と礼を言うと、北陸の作家宅から工房へ誘われて、そこで働く二人の青年に出会った。精悍な顔つきをした男性と女性は会釈をしてあれこれ教えてくれた。吉本は作家の作品の善し悪しなどひとつもわからなかったが、このふたりの青年の引き締まった修行僧のようにさわやかで凛々しい表情がいつまでも残った。
酒の席で、部長となって管理職らしい腹を気にするようになった上司に、陶芸をやってみようと、定年前に辞めようかと思っていると伝えた。ぷっとグラスに口びるをつけたまま部長は吹き出して、お前には無理だよ。諦めろよ。即座に返して笑った。
独身を貫き、付き合いのゴルフも趣味程度だったが、ひとりで回るときもあった吉本は、まだ身体には自信があった。今を逃せばあとはないと決断して、市内の割高だったマンションを値切られたが売り払い、退職金を加えて、幾分かの貯蓄を残し、湖に近いJRの駅前にアパートを借り、購入した湖畔の土地にログハウスを独りで建てながら構想を練り、清算しても残る人間関係の澱を、肉体を鍛えることで振り払おうと人が聞けば、頭のおかしい人間と思える滑稽さで、基礎のセメントから取り組んでから既に十二年が過ぎていた。

それにしても皆真っ白ですね。茶碗も皿も。
本川が問うと、最近だよ。ここ2年ほどでこうなった。それまではあれこれやってね。このあたりは目利きが多くて、五月蝿いのだわ。自分の趣味と生理を振り返って、そこのカワムラの意見も素直に聞く事にしてこうした。すると評判が良くなってね。
あら、最近流行なのよ。こういうシンプルなもの。叔父さん知ってて戦略だと思っていたわ。新たな塊を練り始めたヒトミが、会話に入り込むと、俺はこのスタイルをもう変えないと思う。吉本は下を向いたままやや頑固さを秘めた口調で答えた。
長石釉で白くする。志野焼で有名です。とやや尖った自分の口調を押さえるように吉本は加えた。
飯盛り碗を整形し終えた本川は、う〜んと腰を伸ばし、わたしがどこかの接骨師に整体治療してもらうというのはなんかおかしいですかね。唐突に言った感想が皆に受けて、皆がどっと笑った。カワムラも、この人ならヒトミさんを大事にしてくれそうだと目を細めた。

また来ますのでよろしくご指導ください。本川は独りでも来たいと思った。これからシーズンなので、仕込みが大変でね。憂鬱ですよ。と笑う吉本は、引き締まった腕を差し出し、本川の手を力強く握った。叔父さんたまには母の料理をまた食べにきてね。ヒトミは、叔父に本川を認めてもらった誇らしさを隠さず、先に車に走り込んだ。吉本は、ああいうヤツですがよろしく頼みます。とヒトミに気づかれないように小さく頭を下げた。片付けをするカワムラも顎をあげ、本川をみやって同じように頭を下げた。

Where am I?

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