マジョラムはシソ科の多年草で、沈静、血圧降下作用があるのよ。
スザンヌのコテージの深いソファーに座った坂下は、漂う香りを吸い込んで頷いた。
この国では、まだセラピストは公に認知されていないけれど、民間での資格などはあるようね。リラックスなさい。
安藤がスザンヌを同伴して坂下のコテージに現れた理由は、夫を亡くしたスザンヌを癒したい他に、スザンヌがプロのセラピストで、公的機関の専属で何年も本格的なPTSD患者の対応をしてきたことを憶い出し、坂下に会わせたかったからだった。
とはいっても皆がそれぞれ初対面に近いあの夜は、既に患者を含めた二人が酔っぱらいで、この料理まだ土がついていると、皆で笑うだけの陽気なウエルカムパーティーとなり、それ以上のものではなかったが、川上が安藤を呼んだタクシーで見送り、坂下がスザンヌのコテージまで歩いて見送った帰り際、ちょっと待っててと、自分の名刺を坂下に渡し、よかったら連絡してと、診察をする旨を彼女から申し出たのだった。どうやら安藤が坂下のことを多少説明していたのだった。
坂下の英語は自信がなかったが、できるならば英語でと云われ、これまでの自分の生い立ち、家族関係などを静かにゆっくり話した。スザンヌは真直ぐに坂下の瞳を見つめて何も喋らず、時折頷きながらペンを走らせた。
オーケィ。今日はここまで。今度はいつ来れる?とドアまで坂下を誘導した。坂下は稚拙な英語力が恥ずかしかったが、スザンヌのセラピストの表情にこの時信頼を寄せていた。
坂下が帰ろうとすると、スーザンとネイティブな声が横からして体格の良い男が歩み寄り、ハグをした。スーザンから、ビル、こちら坂下さん。彼は今セラピーに来ていたの。坂下さん、こちらビル。ここからすぐのコテージのオーナーでカナダ人よと紹介してくれた。坂下は手の甲の濃い体毛に指先を絡ませるような握手をしてから二人に会釈して歩き出した。スザンヌと個人的な用事がありそうなビルは、メイビーネキストタイム。と手を振った。
坂下はラップトップで少しずつ仕事をはじめていた折、ADSLでは速度が足りないと、拡張回線の工事を依頼していた。オーディオの修理に来た電気店の主人が再び訪れて、今度は上田電気店取締役、上田義男と書かれた名刺を差し出した。このあたりは、湖畔を離れるとネットインフラなどまだない。携帯だって微妙です。湖畔は海外のオーナーが多いから、彼等の要望で90年代半ば頃から、ISDNを使う人が多かった。そのネットインフラ開設陳情、嘆願者が、どうやらビルだと坂下は上田から知った。
ビルは、相当なシステムをコテージにあつらえてあり、避暑地のほうが仕事ができると、こっちに来てしまった。時々帰るようだ。上田は、湖畔のほぼ全ての電気関係の工事を請け負っているようで、住民のことも詳しそうだった。坂下は新たな企画書を作成する上で、一世代前のラップトップに乗せていたアプリケーションではプログラムのテストができそうにないと判り、すぐにビルのことが浮かび、スザンヌの二回目のセラピーの後、教えてもらったビルのコテージのドアをノックした。
両手を広げたビルが現れ、坂下は腕を差し伸ばすと、いきなり両肩を抱きしめられハグされた。 苦笑しながらコテージに入ると、リビングのソファーに青年が座ってチップスを口に運んでいた。ビルはふたりを見比べるように首を回し、お前達知らないんだなと、タロウ、坂下、と紹介した。坂下は、あっ野上タロウクン?と、野菜を分けて貰いにいった際、離れのプレハブから出て行く後姿を憶い出した。
座ったまま頭を少し下げたタロウは、変わらずにチップスを口に運び、低いテーブルに置かれたモニターを眺めながら、手にはコントローラーを持って操作を続けていた。
坂下は、訪問の理由を手短に説明し、こちらのシステムは完璧と上田電気店の主人に聞いたので伺ったと、現在抱えているPCのCPUなどを加えた。ビルは、了解。とはっきりとした日本語で答え、タロウの横のソファに座れと促した。
ゲームをやっているのだろうと、タロウの見つめているモニターを眺めると、30インチほどの液晶モニターには、天気図が映し出されており、どうもそのプログラムをタロウがカスタマイズして、動きの調整を行っているようだった。口笛を鳴らして眉を曲げ、坂下は驚いた。
タロウに仕事を任せたの。スパークリングでいい?ビルは坂下の答えを待たず、明晰な日本語で栓を抜きながら目の前にペリエを置いた。日本語完璧ですね。と坂下が言うと、ボク、翻訳もするから。とビルは自分の胸をたたいて笑った。