洗面所の下に開けられた窓から同じ車が見えた。
誕生日に妻からプレゼントされたばかりのブラウンのシェーバーを顎にあて、歯を磨きリステリンで口を濯ぎ、風倉が誉めてからずっと妻が使い続けているプチサンボンの隣にあるブルガリのプールオムを、鎖骨に一押し噴霧させ、タイを緩めに絞めた。
朝はいいっていつもいってるだろう。風倉の席の前の絵皿にスクランブルエッグとフルーツが添えられてあり、妻の明子は対面式のキチンのカウンターでパジャマのまま珈琲を煎れていた。あたしが食べるわ一人分しか作ってないし。明子の差し出したマグカップに風倉が立ったまま唇につけると明子は寝不足のような虚ろさでつぶやいた。
今日は部活の指導があるから帰るのは六時すぎだな。病院で問題があったらメールしてくれ。と、ベランダに続く窓迄歩き、遠くに見える水平線を眺めた。娘の理恵が夕べ熱を出し、妻は先ほど学校へ病欠の電話をしたところだった。理恵は生まれた時から気管支が弱く、妻のアトピーも遺伝したようで、季節の変り目やちょっとした埃で咳き込み熱を出した。掛かり付けの小児科に連れて行くわと、昨夜明子は理恵の額を冷やしながら決めていた。妻からひとつにしたらと何度も言われているのだが、立場上目を通す必要があると半ば意地になって三社の朝刊が毎朝届くが、最近はひとつを家に置いて、ふたつを持って出かけ、社会科職務室に積み上げてあるのを先輩の教諭に諭されてから、行きか帰りのコンビニのゴミ箱に棄てるようになり、全てに目を通すことなど余程のことがないかぎり無かった。
試験が近いので、少し早めに通勤する。と妻には言ったが、外の車のことのほうが気になっていた。
風倉は大学院の修士論文の指導教授から地元の私立高等学校を紹介され、移動もないから楽だぞと薦められるまま大学院を修了し社会科の高校教諭に就いた。幼少から勉強よりスポーツ万能で、高校の頃から熱中したスノーボードはプロ顔向けの腕で、ボーダーメッカのゲレンデも近かったこともあり、大学も地元を選び、学生の頃は何度か大会でトロフィーを貰ったこともある。勤めた高校の理事長からスポーツマンは好きだよと云われたが、どこで勘違いされたのか男子バレーボール部の監督・顧問を任され、二年後には県大会で優勝を逃す程鍛えあげた。このことを新入生に授業で挨拶代わりに話すと生徒には受けた。十代から絶えず女関係というより女の問題が山積していたが、どちらかというと身体を酷使し、器具の手入れをする時間のほうが気持ちが安まった。就職が決まり、凡庸な勤務の日常をはじめた五度目のシーズンオフの休日に、東京まで車を三百キロ走らせて、翌年に卒業を控えたまだ学生だった明子に求婚した。妻の明子とはゲレンデで知り合い、明子は東京から遊びに来ていたが、わざわざ風倉に会いに3シーズン、多い時は5回程ゲレンデに通った。求婚の際、明子は東京に来てといったが、それなら諦めると車で戻ると電話があり、電話の中で明子は謝った。風倉の求婚は、回りの締め付けによるものが大きな理由で、家族は勿論、親戚や職場の同僚も断わるとすぐにまた見合いの写真を腕に挟んで走り寄ってくるようになり、いっそ自分で勝手に決めると、それまでの関係から選択するような気持ちで明子を選んでいた。
所帯を持った翌年には長女の理恵がすぐに生まれたが、理恵が三歳の時に、それまでより通勤には時間がかかるようになったが、新築の4LDKのマンションを実家に援助してもらい購入し、これで二人目が生まれると大変だわと、回りには駆け込める知り合いのいない都会ッ子の明子が呟いたのを聞き、ふたりはしばらく避妊することにした。
風倉はシーズン中には時々、世話になっていたゲレンデのスクールからスクールコーチを頼まれ、結婚前より仕事の合間に趣味的に通いはじめ、その為だけにフルタイム4WDを購入したのだった。実家はこの地方有数の豪農で、風倉の六つ上の兄が家を継ぎ、真ん中の姉は関西へ嫁ぎ、末っ子には選択肢は無限にあったが、通えぬ距離ではなかった大学時から、大学寄りの海沿いのワンルームで独り住まいを始め、所帯を持った時もその下の階の2LDKに移っただけだった。
勤務先の高校では、勤務年数を重ねる毎に、私立高校故の持続の手法を先輩の教諭から何度も諭されていたので評判も良く、なんの問題も起こらなかったが、冬期のスクールコーチでは、もともと異性に好かれるタイプであるせいか、ちやほやされ、何度か通りすがりの女性達と関係を持った。妻は私にわからないようにしてと、最初から多少の火遊びは認めた風だったが、それは当時流行ったTV番組の真似であり、明子はなんとなく察知してはストレスを身体に埋め込んでいった。
風倉はマンションの地下駐車場から車を出し、路上で止めてドアから外に出て、エンジンを止めて駐車している車に近寄った。助手席の窓をノックすると、シートを倒して寝ていた風だった男が慌ててイグニッションを回しながら、窓を下ろした。この車、昨日も私の仕事先で見たんだが、私に用事があるのか。それとも誰かに頼まれた興信所か。と風倉が尋ねると、男は左手を左右に振ってギアを入れ走り去った。見上げると、部屋の窓縁の柱に身体を半身凭れるようにして明子がこちらを見下ろしていた。