気づけば人影の無い街角に立っていた。なぜ自分がここにいるのか分からなかったが、そう考えているということは、我にかえった。正気になれたと即座に思った。そういう時間の経過の感覚は身体のどこかに刻まれている。両手には何も持たず、見た事の無いコートを羽織り、膝までのゴム長靴を履き、左手の腕時計は午後2時30分を示し、紅白の紐で痩せた腕にくくりつけられていた。顎に触れると汚れがこびりついたような堅い髭が伸び、頭皮が痒かった。道路の中央だったので、脇まで退いてコンクリートの塊に座りコートのポケットを探ると試したことのない銘柄の煙草とマッチ箱があり、それを銜えて火をつけ、身体のひとつひとつを確認していった。ジーンズの脹脛のあたりが裂けて、肉には瘡蓋となった傷がある。額には小さな瘤があって痛みが残っていた。そうした全てに憶えがなかった。
街角とはいっても、人が住まなくなったような廃屋が並ぶ一角で、振り返ると午後の陽射しを照り返す小さな入り江に港と海が見えた。煙草2本をつづけて根元まで吸い込み、喉に残ったようなものをアスファルトに吐くと黒い血の塊が含まれていた。指を差し込むと奥歯がぐらつき頬の内側が切れていた。胸の内側のポケットには一度水に濡れたような財布があり、中身をみると、免許証とカードがあり、金も札が数枚入っている。全て忘れているわけじゃない。免許証の写真と名前を眺め憶い出すことの出来る記憶を探した。一昔前には蒸気をだして稼働していたような工場の廃屋の角に貼られた地名と番地にも憶えがない。どうやら馴染んだ土地とは大きく違った場所にいるが、そのほうがましだとも思えた。瞳を開いたままでいると、光景のいちいちが水分補給をするような勢いで新鮮にみえてしまうので、記憶を辿る集中ができなかった。
港まで歩き始めてから立ち止まり、投げ出されたような廃屋の並ぶ街角を再び眺めて、そうか自分と同じような光景を探していたのかもしれない。景色とイコールとなることで元に戻れたか。銭湯でも探して湯に身体を沈めよう。そこからゆっくりはじめることにする。と決めてから、はじめなくてもいいかもしれない。聞いた事の無い明るい声で呟いた。