5月 13th, 2008 § 風 はコメントを受け付けていません § permalink

白いパンプスが湿った地面の濡れた葉に埋まって汚れたけれど、スポンジを踏んでいるような柔らかい感触に、いっそ足首迄飲み込んで欲しいと思った。
予算が乏しい仕事を、バスで行ってきますと一人で社を飛び出し、小雨の降る駅前で1時間以上はかかる道のりの日に数える程の発車時刻を指でたどり、待ち合わせの間肩掛けバッグの中身を確認し、乗車した時には、自分ひとりしか乗車客がいなかった。途中、雨が一度激しくなったが気にならなかった。
季節が一度冷え戻り、新緑の樹々が春を待つような気温が続き、こちらの姿勢も影響されて軌道に乗った筈をはじまりに戻され、仕切り直すようなムードが社にも広がって、瞳はそれをおもしろがっていた。小さな雑誌の小さな掲載記事の為の取材分が足りていないと判り、編集の人間は皆が記載をやめようと相談している時、知っている所がありますと手をあげていた。
アポも取らず、カメラマンもいらないです。と少し大きな声で口にしたのは、少々強引だったかもしれない。帰れば叱られることもあるだろうがそれでもいい。峠を越えて窓を流れる雨水が消え、その向こうに流れる遠い景色が霧にまぎれているのを眺めながら少し前を憶い出していた。同じ編集の年上の同僚から唐突に酒の席で優しいことを耳元で囁かれ、それまで気に止めていなかった存在がいちいち視野に入って、明るく行こうと誘われた隣の市の遊園地でのデートは学生のような乗りで二人でラーメンを音を出して平らげ手を振って別れたが、三度目の夜だった昨夜、車の中で抱きしめられた途端突き放していた。当惑する表情の男を瞳はまじまじとみつけ返して、どういうつもりなんだと口に出す男の言葉を最後まで聞かずに車から降りていた。社では朝からこちらを見つめる視線に気づいていたが、気づかぬ振りをして、それが気象と重なって鬱陶しさがつのるばかりだった。

終点の高原の二つ手前の神社の鳥居で下りると霧の中で、数十メートル先は白く消えていた。休日は観光客で賑わうこともある参道から脇に入った店の料理を取材して、店主から妙な季節ですねと差し出された温かいどぶろくを両手で悦んでいただき、謝礼を言って頭を下げて、無事取材終了の報告を携帯でしてから降りたバス停の時刻表を見るまで、そのまま戻るつもりでいた。次の発車まで随分時間があることが判ると、まだ残る霧の中の、学生の頃、うぶな恋人とふたりで湖畔を歩いた事のある湖まで歩きはじめていた。

単独行にしろ十代から何度も登ったことがあり、記憶も鮮明で大したことはない。昨夜のベッドの寝入る前には普段の格好で買い物にでかけるような気軽さででかけようと思っていた。朝になり窓を開けると雲が広がり、目当ての方角は目視できなかったおかげで、眉間に皺を刻みながら戸棚からリュックを取り出し、雨具やら携帯食料やらライトやらまるで何かの避難民のような支度をして、それを担ぎ、スニーカーを靴箱に戻して登山靴に替えて靴ひもを硬く縛った。
本川が接骨医療を選んだのは、高校卒業間際の、家族も友人も誰ひとりとして自分の将来等関知しない日々の中で、何気なく書店で手にした資格の並んだ書籍に職業の詳細が書かれていて、何度か読むうちに、自身の内向的な性格や接骨医療の、所謂医者と異なり、医師の資格は必要なく柔道整復師という資格取得が比較的容易であることから、専門学校を選び、同じ書籍に掲載されていた遠い街の接骨医院で働きながら資格取得することを決めたからだった。
父親は鉄工所を経営し、本川の幼少の頃には、錆臭い工場に若い工員が数人働いていて、痩せた本川を抱き上げて巫山戯て遊んだ記憶もあったが、中学に入る頃から経営が行き詰まったようで、働く人間はいなくなり、父親ひとりで不機嫌そうに溶接の火花を散らせており、本川にしてみればこんな辛気くさい工場を継ぐなど考えられなかった。父親も、自分の明日がまず心配であり、長男の事等二の次で、跡継ぎの事等考える余裕はなかった。気の小さな母親は、父親のいうなりだった。
それでも、数年して本川が資格を取り、実家に戻って自営の接骨医院を開設したい旨を父親に告げると、老いた父親は無理をして、自宅の近くに借地して安普請の医院を長年の知り合いの業者に依頼して建設し、本川の月々の実入りから支払いを約束させ、開業を近所に知らせると年寄りが寄り付くようになっていった。
開設してから5年ほどで、仕事は安定し環境にも定着し、本川の実直を知る近くの人間が手を回し見合いを都合し、流されるままに所帯を持つに至ったが、結婚後1ヶ月で嫁は家を出ていった。表向きには性格が合わなくてと、あまり話さない母親が方々へ説明したが、本川は結婚ということがわからないまま女と同居し、女という生き物がわからないまま、女は他人のままぷいと拗ねて出て行ったにすぎないと感じていた。夕食では何も話さない。夜は歯磨きと同じなのよ。終わると背を向けて先に眠る。と出て行った嫁は外で殊更大袈裟に話を膨らませ、私は被害にあったと吹聴したが、その噂を聞いてもそのとおりだと本川は気にしなかった。
中学の頃は絵を描くのが好きで美術部に入り、友人と油絵を楽しんだが、絵を描いても飯を喰っていける筈がないと子供の頭で早々に諦め、高校は柔道部に入って身体を鍛えることに専心した。接骨医療は、肉体労働なのでこの頃に作った身体のお陰で仕事にへこたれずにすんだが、一人で遣繰りするのはどこか父親とやはり似ており、何か偏りが生まれ、自分の寡黙さを増長させ鏡に映る顔には絶えず不機嫌な皺が刻まれていた。気を紛らわせる必要があると、近くの山に登る事をはじめたのだった。

湖畔に辿り着いた瞳が、人影の無い散策路に沿って歩き始め時には、バスの発車時間に間に合わなくても構わないと決めていた。ものを複雑に考える事は苦手なのに、結局複雑にしてしまう自身の傾向のこれまでのあれこれが散漫に浮かんだ。大学の頃、友人からもっとオシャレに気を使いなさいと注意されて、そんな身分なら勿論そうしているわと答え、後になって身分とはお金のことなのだと気づき、自分の浅ましさにあきれてどうしたらいいかしらと電話を返すと、男と付き合いなさいと突き放された。友人が遠ざかってから、自分は同性から男の振りをしているように見えるのだと、自分の肉体がまな板の上の食材のように感じられるようになり、洗面所で何度も吐いていた。吐くものがなくなってから、この生々しい身体と付き合うほかはないと決めたけれども、あの時の嘔吐感は消えたわけではなかった。
霧が薄くなりはじめ、新緑の樹々の姿が根元より広がりだすと、湖の姿は以前来た時とはまるで違った風に見えるのだった。水面に残った霧が水平に流れ出し、弱く風が流れ始めていた。霧の中では音も消えるのだろうか、いきなり小動物の鳴き声が幾つか高く響き、体感が変わり、重怠い想念も吹き流されるような気がした。
バッグを足下に放り、膝を折って太腿と踵で尻を支えて座り、上空に小さく穴があき、そこから青空がのぞくのを眺めると、これまで白黒の世界を迷っていたような気がした。
ふいに、煙草の煙の香りが漂ってきた。振り向くと湖畔のすぐ近くにあるベンチに座っている男がおり、男は無表情に頭を下げた。

本川は山に入ると何も考えなかった。何も考える必要がなかった。ただ耳を澄まし、呼吸を整えながら歩けば、自分の身体の様々な音が、樹々と人気無い大気の空間で際立ち、蠢いているこれこそが自分なのだと、後頭部が麻痺したようになって、時々内蔵の動きまでもが感じられるのだった。
連休ではなかったから日帰りの短い山登りと決めて、痩せた足で背を曲げながら父親に連れられて小学校高学年の時一度登山したことのある山だった。登り口の社までヒールでお参りにくるほどに気楽な山だが、季節柄か、登山口には足跡があまり見えなかった。

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交差点

5月 11th, 2008 § 交差点 はコメントを受け付けていません § permalink

「あれやれ。これやれ」
シマムラは、わざとドアを強く閉めたので、オフィスの入り口近くに机のある女くらいは、こちらの腹の虫が暴れているんだと気づいてくれただろうかと、エレベーターのボタンを押しながら呟いて考えた。
下働きのようなアルバイトを、先輩の紹介で学生の頃から続け、大学を卒業したからようやく正規社員として雇ってくれるものとばかり楽観していたが、シマムラはいつまでたっても時給で支払われるアルバイト扱いの、下働きのまま、いいように使われていることに不満が膨れ、何度か飲み会の席で、上司に柔らかく懇願していたが、その上目遣いの柔らかさを、上から柔らかく無視されていた。
いろいろな部署から、細かい業務のどうしようもないパシリのような言いつけに、文句も云わず素直に従えば、そのうち良い事があると信じて疑わなかったが、弁当の買い出しや、消しゴムだとかボールペンを買ってきてというまるで子供の使い走りをする馬鹿なアルバイトと位置づけられてしまっていると、シマムラと然程年齢の変わらないスーツ姿の大卒や、事務職の女子社員のこちらを半眼で見る目元の蔑みを、忌々しいと浮かべ、下がる箱の床に唾を吐いた。

最近はなぜか午後になってからの疲れが酷く夕方には頭痛も走り体調が悪い日が続いていたので、昨夜誘われた友人たちとの夕食も楽しめなかった。サトミは独りでショッピングをすれば体調は治るとこれまでを振り返り、上司に外回りの直帰を申し出て、時間のかからぬ営業をさっさと終え、昼過ぎの街の、あまり知らない路地へのんびり歩き始めていた。
早々に自宅へ帰れば母親がいらぬ心配顔を近づけて、挙げ句は見合いの話に縺れ込むから、このまま遅く迄ウインドゥショッピングなどするほうが、今の自分の為になる。コンビニの ATMで奮発してお金を引き出し、カードではなくて現金で思い切り、バッグかハイヒールでも見つけて買ってしまおうと決めた途端、身体に織り込まれていた重いような怠さが淡く消えるような気がした。

「中途半端な立場が責任を背負うしかない」
社長自ら暗い響きの声を投げかけて、ひとり呼び出された苅田は、俯く事しかできなかった。まあ、君はその歳で独身だから、他の身重の連中に比べたらなにかと楽だ。子供の進学やら、家族の今後も背負っている。と続いた社長の声を鵜呑みにするような姿勢で、苅田はこれまでこのどうしようもない人間の下で働いてきた自分が情けななくなった。はいと一言返事を返した後、追って辞令を出すからと、電話を手にとり背を向けた男を、しばらく真っすぐ見つめていた。振り返ってコトは終わった筈と苦い表情の社長を更にしばらくモノのように眺めて社長室を後にした。辞令等待つ迄もないと一人で決めて、そのまま担当部署だったフロアの自身のデスクを整理し、私物を郵送する手配を終えて立ち上がると、オフィスの人間が静かにこちらを見つめていた。
軽く手を挙げ、じゃあと出て行こうとすると、入社してまだ数年の坂本が、肩を掴んで深々と頭を下げたのをきっかけに部屋の全ての人間が立ち上がり同じように腰を折った。坂本の耳元で、
「ありがとう。社長を殺すよ」
と囁いていた。苅田は、15年勤めあげたビルディングの入り口で振り返り、言ってしまったなと妙にきっぱりした口調で声に出した。

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ヤマウエの動態マップ

5月 10th, 2008 § ヤマウエの動態マップ はコメントを受け付けていません § permalink

発生熱36°以上の動態に対してマーキングし、静止態に対しては、アーカイブデータとの相対解釈によって、建造物の反射熱の場合は熱の差異を記録してマーキングから削除し、熱変化のない静止態の温度差を色分けするデータで蓄積した。簡単に云えばこれだけのことだが、ヤマウエの卒論に、このデータをグーグルマップにリンクさせ、少なくとも6ヶ月はデータ処理をしなくては、地表に新しい地図は描けないと見込んで、夏から地味な作業反復に精を出していた。

ヤマウエは、衛星にハッキングできることを知り、様々な衛星の機能が、実は公示されているものより、数段複雑な処理能力を持っており、軍事的、政治的に利用されている実態を、数年に渡って調べてきたが、これは彼の覗き趣味が高じた結果であった。それ以前は、引っ越しのアルバイトなどの際に、見知らぬ家々に盗聴器や、盗撮用小型カメラを仕込み、気の向いた時にデータを収集し、密かに一人で楽しんでいたが、あまりにその盗んだ内容の凡庸さに飽きてしまいやがてやめた。

ヤマウエは地図制作の歴史の学習をはじめた。20世紀に入ってはじまったフォトリソグラフィーの技術により、地図をレイヤーに分割する1950年代のワシントン大学でのレポートを読み、1967年に、カナダのオンタリオ州オッタワで開発された世界で初めて動作可能な地理情報CGISシステムの初期、あるいは、ESRI、MapInfo、CARISなどがCGISの機能を取り込み、空間情報と属性情報を分離し、属性情報をデータベースの形式で管理する形態の地理情報システムの詳細を夢中で読んだ。似たシステムをこの国でも、1970年後半から研究が始まっていたことをなどを学習した。

時間差はあるが惑星上の全ての地域の静止画像が利用できるようになった時、ヤマウエはビデオカメラ動画の局所的利用よりも、トータルな惑星データとして、動くものをマップマーキングすることを思いついたのだった。時間はかかるが、情報化されていない動きが例えば、海中にもみつかるかもしれないが、衛星デバイスの機能に限界がある為、諦めないといけない項目はかなりの量になった。

秋が終わり、冬らしい木枯らしにコートの襟を立て、息も白くなる夕刻を迎える時期となって、ストックデータの統合処理を拡張したPCを連結させてはじめたヤマウエは、その当初から、モニターに現れる妙な形態の動きに首を傾げていた。
大きな白い綿布を研究室に張り、投影画面を拡大し、この惑星のマップデータのアーカイブがモーショングラフィックで動態移動が光線の束となって、タイムラインによって移動反復が美しく描き出された。

俯瞰-導入

4月 30th, 2008 § 俯瞰-導入 はコメントを受け付けていません § permalink

最初はそんなつもりがなかったが、結局一ヶ月の間、山辺健の部屋に泊まり込んで、自分の部屋には帰らずに過ごしてしまったことは、川西透の本来的な精神の愚鈍と無邪気さが主な理由ではあったが、山辺が川西との共同生活を厭わず、むしろ彼自身の日々が川西によって刷新される喜びを選んだことも、川西の甘えを助長していた。
早く起きた方が朝飯を作ったし、あるいは買い物に出かけ、時には互いを思いやるような食材で、手料理自体を楽しみもしていた。山辺は十代から暴走族を率いて大井埠頭辺りを仕切った特攻服を今でも部屋に飾るほど、単車にかけては一筋縄ではいかない過去があったが、現在は、荷物の多いことから父親から譲り受けたというより預かっているマーキュリー・カプリで大学へ通うことが多かった。川西が中型の免許を取り、最初は川西が単車入門に選んだ原付の可愛いスポーツタイプを微笑ましく眺めていたが、突然400ccの新車に乗って峠に行こうと誘ってきた時には、山辺の仕舞っていた「走り心」に火がつき、一度は足を洗ってのんびりやるさと乗り換えていたアメリカンを再びチューンアップして、川西の先を先導するように走り始めた。
そもそも山辺のアパートメントは似たような学生が棲んでおり、互いの部屋を行き来する気楽な人間ばかりで、勿論秘め事には鍵をかけることを怠らないが、ある意味健全で奔放放埒な行動に悪意は生まれないが、それ故の鬱陶しさは互いに抱き込んでいた。

見える

4月 17th, 2008 § 見える はコメントを受け付けていません § permalink

中学を出る頃から母親の私を見る眼差しが変わった。
気にしないようにつとめていられたのは、父親のいつまでもかわらない緩くやさしい視線が、帰宅の遅い父親の仕事のせいもあって、こちらにまとわりつかなかったからだと思っている。
通学の電車の中の香りのキツいコロンの男達の、地獄からもどってきたような目つきが、母親の中に見え隠れするようになり、こちらも食卓から逃げるように過ごすようになっていった。同じ頃から同性の友人達が母親と重なり、身重な女の蔑みのような眼差しを受けて、独りで部屋に籠るようになった。
この身体は見られる為に在るんだと開き直って化粧を覚え、鏡に向かうと、お酒に酔ったような投げやりな心地が大きくなって、勤め始めてからは、母親の瞳の中に宿ったものが、こちらの眼差しにも在ると実感することも何度かあった。草臥れていくことが成熟なんだと何度も諦める度に、無駄な脂肪も増えた。

仕事の関係で外に出た街角で仰いだ陽射しが眩しくて、暗がりの路地へ駆け込んで座り込み、暫く両手で顔を隠すようにして呼吸を止め、私の見える頭は、見られるこの身体のものじゃない。どうしてこんなにも違うのだろうと繰り返して呟きながら、嘔吐して下から小水を漏らしていた。バッグから取り出したハンカチで口を拭い路地の奥を見やると、小さな子どもが1人いて、ふいに足元の小石を拾ってこちらに投げるのだった。瞼の上にごつんと当たった。子どもは下品な家畜を眺めるような怒気を含んだ顔つきで睨み、きびすを返して走り去った。濡れた下着を脱ぎ、大きく息を吸ってコンパクトミラーで額を見ると、少し裂けて血が流れている。私は立ち上がり、数日前に結婚を申し込まれた同僚の男の、草臥れた背広を憶い出し、彼と一緒になろうと決めていた。