交差点

5月 11th, 2008 交差点 はコメントを受け付けていません

「あれやれ。これやれ」
シマムラは、わざとドアを強く閉めたので、オフィスの入り口近くに机のある女くらいは、こちらの腹の虫が暴れているんだと気づいてくれただろうかと、エレベーターのボタンを押しながら呟いて考えた。
下働きのようなアルバイトを、先輩の紹介で学生の頃から続け、大学を卒業したからようやく正規社員として雇ってくれるものとばかり楽観していたが、シマムラはいつまでたっても時給で支払われるアルバイト扱いの、下働きのまま、いいように使われていることに不満が膨れ、何度か飲み会の席で、上司に柔らかく懇願していたが、その上目遣いの柔らかさを、上から柔らかく無視されていた。
いろいろな部署から、細かい業務のどうしようもないパシリのような言いつけに、文句も云わず素直に従えば、そのうち良い事があると信じて疑わなかったが、弁当の買い出しや、消しゴムだとかボールペンを買ってきてというまるで子供の使い走りをする馬鹿なアルバイトと位置づけられてしまっていると、シマムラと然程年齢の変わらないスーツ姿の大卒や、事務職の女子社員のこちらを半眼で見る目元の蔑みを、忌々しいと浮かべ、下がる箱の床に唾を吐いた。

最近はなぜか午後になってからの疲れが酷く夕方には頭痛も走り体調が悪い日が続いていたので、昨夜誘われた友人たちとの夕食も楽しめなかった。サトミは独りでショッピングをすれば体調は治るとこれまでを振り返り、上司に外回りの直帰を申し出て、時間のかからぬ営業をさっさと終え、昼過ぎの街の、あまり知らない路地へのんびり歩き始めていた。
早々に自宅へ帰れば母親がいらぬ心配顔を近づけて、挙げ句は見合いの話に縺れ込むから、このまま遅く迄ウインドゥショッピングなどするほうが、今の自分の為になる。コンビニの ATMで奮発してお金を引き出し、カードではなくて現金で思い切り、バッグかハイヒールでも見つけて買ってしまおうと決めた途端、身体に織り込まれていた重いような怠さが淡く消えるような気がした。

「中途半端な立場が責任を背負うしかない」
社長自ら暗い響きの声を投げかけて、ひとり呼び出された苅田は、俯く事しかできなかった。まあ、君はその歳で独身だから、他の身重の連中に比べたらなにかと楽だ。子供の進学やら、家族の今後も背負っている。と続いた社長の声を鵜呑みにするような姿勢で、苅田はこれまでこのどうしようもない人間の下で働いてきた自分が情けななくなった。はいと一言返事を返した後、追って辞令を出すからと、電話を手にとり背を向けた男を、しばらく真っすぐ見つめていた。振り返ってコトは終わった筈と苦い表情の社長を更にしばらくモノのように眺めて社長室を後にした。辞令等待つ迄もないと一人で決めて、そのまま担当部署だったフロアの自身のデスクを整理し、私物を郵送する手配を終えて立ち上がると、オフィスの人間が静かにこちらを見つめていた。
軽く手を挙げ、じゃあと出て行こうとすると、入社してまだ数年の坂本が、肩を掴んで深々と頭を下げたのをきっかけに部屋の全ての人間が立ち上がり同じように腰を折った。坂本の耳元で、
「ありがとう。社長を殺すよ」
と囁いていた。苅田は、15年勤めあげたビルディングの入り口で振り返り、言ってしまったなと妙にきっぱりした口調で声に出した。


サトミは、4年前から、帰宅の途中駅のホームで過労で倒れて線路に落ち、辛うじて停車した車両に腹を潰されて植物状態となった父親の介護をする母親と実質的には母子家庭のような生活となり、自分も時間のある時は母親に代わって介護を続けられるよう介護士の免許を学習取得し、収入のほとんどを母親に渡していたが、母親はそれを別に貯金しているようだった。保険が効いて退職まで数年を残すばかりだった父親の退職金と合わせて、なんとか生きていくわよと母親とふたりでと誓い合った。
会社の同僚も上司も勿論それを知っていたが、月日が流れると、そうした家庭の事情は、それぞれの人間の個々の事情に撹拌されるように話題にのぼらなくなっており、サトミはそのほうがせいせいすると感じていた。
母親は、こうした事情がサトミの恋愛に支障をきたし、進むべきことも進まなくなる怖れがあると普段から細かく気遣うのだが、サトミにしてはその気遣いを鬱陶しく思うことが多かった。
父親は、壮健な中年を終え、管理職に就いた頃より、若い頃ラグビーで鍛えた身体の衰えを怯えて、大学に入学したばかりの娘のサトミを誘って早朝に走り始めた。サトミは、嫌だわと最初は父親の青年気取りが気に入らなかったが、2ヶ月ほどして、時々一緒に自宅から数キロ離れた河川敷までの往路を一緒に時々走るようになり、ふたりで汗を拭って戻ってから出迎える朝の母親の笑顔と朝食の美味しさに、顔を見合わせ、父親の根気に頭を下げていた。父親は脊髄に致命的なダメージを負って、神経の恢復の見込みがなく、寝たきりとなっており、逞しかった身体も一ヶ月ほどで目を覆う程にやせ衰えたが、寡黙に窓を見つめる目の輝きは失せていなかった。

ほんの一週間前の休日に、2年程付き合った女から別れましょうと云われ、シマムラは、驚きもせず即座に頷いていた。思えば勝手気侭に付き合い、身体の関係だけ続けているような状態で、女からディズニーランドへ行きましょうとか映画に行きましょうとか誘われても、最近は面倒くさいと思うようになっており、女からもシマムラ自体の人間性に恋をしているようなひたむきさが無いように感じられていたし、別れて歩き出した時には、よくもまあ2年もアイツと付き合えたもんだと、身軽になった自分に浮かれた感覚が生まれていた。だが、数日して、こちらの日々のつまらない仕事の愚痴を彼女は笑い話を聴くようにいつもただ聴いてくれていたとふいに情景を憶い出し、途端に哀しくなってベッドに突っ伏して暫く泣いた。
別れるんだからと、最後の日に互いの携帯から番号とメルアドの登録を削除したことは正解だったと、残っていたなら今頃メールをしている自分のいい加減な性質を恨めしく思った。

不祥事が公になった本質的な理由は、社の体質にあった。バブルの後、会社は世襲システムを放棄し一度は抜本的な改革をすると姿勢を新たにしたが、鋭利目的の企業体質は、どうころんでも社会悪なのだという、就任当時はやり手と云われた手法の強引な社長に代わってから、利益は上がったが、社内では隠れて首を傾げる輩が至るところにいた。経費削減とリストラこそ、更なる企業利潤を生むのだという社長の意向は、若い世代は、もはや受け入れていなかったが、誰も声を大にしてそれを言い出すわけではなかった。
苅田は、黙って与えられた仕事に必ず結果を出す、いわば本性的に潔癖な性格が、地味ではあったが数字的に認められ、部長に昇進した時は、社内ではこいつは誰だと云われた。部下やチームを先導して、かけ声を掛け、その勢いでごり押しする同世代の管理職に比べると特異な位置にいたが、調子だけよろしい酒の席で無礼講だとむしろ無礼を行う肥満系の者より、部下からは、苅田の静かさが慕われていた。
苅田は、一度結婚する間際迄話が進んだことがあったが、もともと見合い話であり、相手が自分より十も離れた短大を出たばかりの今時の女性であったことが、決断の手前で結婚そのものを諦める理由となった。数回デートをして、一緒に映画を観ている隣で若い女は、私もあんな風に楽に行きたいわと呟き、それが破談の理由となり、こちらも結婚という構築作業と仕事の両立をどうしても考えられなくなったのだった。

雇うほうにしてみればシマムラのようなアルバイトはそれなりに重宝なのは理解した。けれど会社は人間のことを大切にするような社風はない下請けの代理店で、社長を除く人間は皆独立を望んでいるような口ぶりだった。ハイと即答して、よかれと思って整えた姿勢が、自分の立ち位置を危うくしている悪循環に気分が日に日に重くなり、つまらない用事で外へ出る度に腹が立ち、一度そのまま帰宅したが、次の日には、誰もその事について言及しない。どうやらいてもいなくても良いと半ば無視されているのだなと、年上の社員に対する態度も乱雑になってきていた。自分で墓穴を掘っているようなものだよと、学生の頃からの友人は電話でそのままを指摘してくれたのに、自分から通話を切っていた。
シマムラはどちらかというと勤勉なほうだと自分では思っていた。極めることは能力として限界を感じていたが、ずる賢いと後ろ指を指されたこともあったが、都度臨機応変に立ちふさがったものをしりぞけてきた自負もあり、多少利己的だと提出レポートに、教授の朱が入っていた時は、それはお前のほうだと嘯いて、話を聞いた付き合っていた女は、別れる理由にその件を持ち出した時には驚いた。

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