6月 25th, 2009 § 林 はコメントを受け付けていません § permalink
ようやくバイトで貯めた金と母親に強請った金で念願のハンドルと取り替えることができる。達夫は放課後まで待ちきれなかった。通う高校からは、駅を挟んだバイバス沿いの専門店まで4キロほどあったが、日々を坂道を迂回してペダルを踏むことをむしろ好んでいる若い男にとって、平坦な道等数十キロでも平気だった。友人たちは、達夫が肩から下げるバッグを笑ったが、黒い手提げの革鞄を重そうに下げて通う友人達のほうが滑稽にみえた。
父親は、知り合いの会社の工場で身体に負担の少ない仕事を探してくれたが、自転車で走ることができる新聞配達を自ら選んだ。最初は自分のスポーツ仕様のサイクリング車で配りますと店の人を驚かせたが、さすがに大量の配布する紙束を、肩下げに分割して幾度も店へ往復する手間に本人も諦めて、店の据え置きの配布用の大きな荷台が取りつけられたものを使うようになった。達夫よりひとつ年下の、別の高校に通う男は原付バイクで達夫の半分の時間で配達を終えていたので、幾度か免許取得を勧めたが、仕事の後で地面に座らせ磨き上げた自分の自転車の説明を部品を示しながらすると、年下は何も言わなくなった。
北側の山沿いの家から、バイバス沿いの専門店まで何度か通ううちに、これまで用事がなければ立ち入ったことのなかった鬱蒼とした広大な別荘地の、舗装もしていない私有地とも示されている迷路のような路を、時々彷徨うことを楽しみにするようになり、一度その迷路の中で後輪をパンクさせ、担いで帰らねばいけないかと自転車を肩に担いだ時、林の中から声がして、男がひとり手招きをするのでそのまま近寄ると、黙ってガレージまで招き寄せシャッターを引き上げた。ここにあるもので修理できるだろう。専門店でも扱っていない海外ブランドの自転車が数台並ぶコンクリートに座り、修理よりも溜息をついて、これデ・ローザですかと聞くと、男は少し驚いた表情で、チタンだよと答えた。
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6月 25th, 2009 § 握り飯 はコメントを受け付けていません § permalink
背を曲げて手にした柄杓から幾度も汲み取り、襟元まで濡らしながら雪解けの清流を飲み干す夫を見ながら、明子はようやく安堵が広がるような気がした。
手を大きく鳴らし、社の前では若いカップルに頼んで、随分放っておいたカメラの前にふたりで並んだ。賀津夫のリュックには、痛み止めの薬を忍ばせてあったが、もう使うこともないなと、指先で横へ寄せ白いタオルだけ取り出し、首の回りに吹き出した汗を拭って振り返ると既に座って食べましょうと促すような目で明子は、手元の包みを開いていた。
休日ではなかったから、参拝の客も少なく、社の脇から伸びる登山口にはまだ鎖が渡されており、見上げる岩山のいたる所が白く、ふたりが座り込んだベンチの回りにも融けきるにはまだ時間がかかりそうな雪が残っていた。
数日前に少し季節が早いかと日にちを危ぶんだけれど、自身の身体の恢復を歩みで妻に知らせたい気持ちが勝り、もう決めたと勝手を言う賀津夫に、前日の天気予報を確かめる迄明子は迷ったが、快晴であると知ると行きましょうと頷いた。朝早くから俺がやると白米を炊かせてふたり分の握り飯をこさえ、冷蔵庫を探して昆布でいいよな。賀津夫のやることを台所に座ったまま、明子は笑ってみていた。夫は左足をまだ庇うような所があり、妻は車の中で、途中で痛くなったら引き返しましょうと幾度か口に出していた。
三ヶ月の入院の後、自宅療養で川縁を歩いていたからか、賀津夫自身思った程長い参道をゆく歩みには不安なものは感じなかった。吹き出す汗がただ嬉しかった。夫婦よりも早く参拝を済ませた人が、参道ですれ違う度に軽く会釈しながら挨拶を投げかける度に、明子にとっては夫の恢復を喜んでくれる声に聞こえた。
握り飯をひとつあっという間に平らげた賀津夫に、ポットからお茶を注いで渡しながら明子は、ちょっと大きすぎるけれどおいしいわねと、正午迄まだ時間があったが、少し早い昼飯に時間をかけた。
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6月 23rd, 2009 § 心 はコメントを受け付けていません § permalink
もともと身体が長距離に適していると、半ば独り言のように呟いて、掛かり付けの田中医師は、聴診器を耳からはずしカルテにペンを走らせた。直之に同伴した妻の佐知子が、
「いい年してこんな事を始めるからご近所にも恥かしくずて、それでこの人は、大丈夫なんでしょうか」
のど元まで捲りあげたTシャツをベルトの下へ入れ、脇に妻が畳んだ縞柄のシャツを羽織って、小さくおいと妻を肘でついた。
「まあ、若くはないんだから、ちょっと自制しないといけませんね。でも毎日走ることは良いことです。無理をしなければ」
今年こそは。この村主催のトライアスロンで完走というより、上位入賞を目指そうと正月に誓って酒を断ち、子供達に冷やかされつつ毎朝農作物の手入れの前に、走り始めたのは、そもそも中古の競技用自転車を知り合いから思いがけないほど安く譲り受けることができたからだったが、スポーツというより肉体を腰や腕の力で強引に動かす仕事で長い時間使い込んできていたので、しなやかさというバランス感覚に縁がないのだ。と直之は、手で口元を押さえるように幾度か咳をした。季節の変わり目の気温の変化が激しい朝夕汗を流し数日して咳が止まらなくなった。
佐知子にしても、口にするほど、直之の決心を不愉快には思っていなかった。大学を卒業した長男は隣町の大きな電子部品の工場に勤めはじめ、下の娘も看護学校に通い始めると、急に両親を老人扱いする大人になってしまい、無邪気に走りはじめる夫の、幼い行動を見守る感覚が、子を育てた懐かしさとなって蘇り、仕方ないわねと愚痴ながら、腕時計のラップの変化を本人以上楽しんでいた。
6月 19th, 2009 § 1993 2009 はコメントを受け付けていません § permalink
パンプスの先が湿った黒い土の中へ沈み込み、踵のあたりも埋もれた痕が残っていた。湿地の足場の悪さなど平気な顔で膝を閉じて座り込み、左手には折りたたんだハンカチーフが握りしめられていた。幾度か折りたたんだ縁で鼻の頭を軽く押さえた。伏目の顔も、葉の色と似た白だった。
「寺の池に蓮があるだろう、あれと親戚かなにかだと勝手に思っていた」
女は拾った枝で花をつつく男の手元から視線を反らし、眉を顰めながら、
「熊が冬眠でお腹に老廃物が溜まる。それを吐いたり下剤代わりにこの花を食べるんだって。私たちにはよくないみたい」
やせ細った獣が嘔吐する姿を足元に想像すると、子供の頃、動物の排泄物を枝でつついて座り込み怪我をした膝小僧が再び割れて血が流れた俯きをふいに憶い出し、咎められた気もして、男は枝を外野手のようなモーションで大袈裟に放り投げると、枝は回転しカーテンを切り裂く鋏の音が湿地を渡り、向こう側の地面へ斜めに刺さった。
「人間はとりあえず喰おうとするよな。海沿いの末裔でなくてよかった」
男は自分の言葉が誰に対して何を意味しているかわからないとあきれた。弱く枝の折れる音がして振り返ると、一羽の雉が降り立っていた。女は男の仕草や言葉など気に止めず額の前の手のひらで木漏れ日を遮り湿地の先を遠く眺めた。
「長い路をとにかく歩いたわけよね。鬱蒼とした森の中や谷や峠を。どんな気持ちで眺めたんでしょうね。その時の旅人は。わたしはちっとも奇麗だなんて思わない。なんだか白すぎて頭痛が酷くなりそう」
男が折れた幹の上に腰掛けようとすると、女は浮き上がるように立ち上がり、遊歩道に向けて戻り始めた。力が込められた左手首には筋が走っていた。幾度か腰のあたりを叩くような仕草をした。将来を誓い合ったわけでない男と女が互いの素性よりも身体を求める時期に、こんな群生地を訪れるべきではない。なんだか誰かを弔いにきた霊園のようだと男は一度湿地を振り返り、女の後をしずかに追った。
何も言わず後ろを歩く男のことを、女はまだ迷っていた。前の男は父親と似てひとりで決定し従わせた。それが最初は心地よかったが長く続かなかった。再び枝を拾って誘った女の後を歩くこの男の子供じみた仕草にどこか引き寄せられて、こんな所まで来てしまったけれど、次に誘われたらどうやって断ろうかと考えた。職場の酒の席で家庭のある上司が酔って耳元で囁いた油脂で嗄れた声を憶い出し、混乱した後戻りできない罪悪の香りの中に身を置く自分を想像した。
「帰りにうどんを食べようか」
肩越しにとても良いアイディアだと勇んだような口ぶりの声がして、女は思わず笑うと、白い頬が薄く桃色に染まった。とてもいい似た色を選んだわねと褒めてあげようかと思ったが、女は崩れた口元をそのままにして、
「今度は海につれていって」
とちいさく呟いた。
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6月 19th, 2009 § 042409 はコメントを受け付けていません § permalink
引率の教師がひとり部屋の布団に入ったのを見計らって宿から深夜抜け出した。酒など飲まなかった。一番年上もまだ十七だった。月も隠れた漆黒の闇の中、道自体の存在が発光する淡い輪郭を頼りに、数人で歩き始めていた。男ばかりだった。皆まだ十代の乱雑に突き差した風や雨で簡単に流される杭の奔放と無邪気を使い、墨の液体に身体を投じて辿る怖れを笑い声の反響も吸い取られる夜へ、放り投げてから耳を澄まし、弱く立ち向かうような意気地を爪先に集め幾度も肩に積もる闇を払い落とした。皆が腹の底に生まれる黒いものを隠すような、どこか慌てるような歩みだった。アスファルトから剥き出しの地面への参道へ入り、足裏に連山の欠片のような摩耗していない石を痛みと共に捉えつつ進んだ。一人は脇に流れる細い水に足元をすくわれ下半身を濡らした。糞。と短い怒気のある言葉には普段口癖の吐き捨てる力が足りない。独りであったら気が振れるだろうかと一人は、禁忌を口にしたように狼狽えた。千五百年過去の男色聖が取り巻いて座していると前方にいた筈の男の声がふいに後ろに小さく浮かび、思ってもいない距離から、男色と云う自覚も誇りもなかったさ。別の声も聞こえたが、どれも一旦吐かれてから口に戻るように言葉の語尾が小さく蜷局を巻いて消音した。月の無い夜、光の無い夜は、獣も身を潜めているのか。と、ここに居る筈のない声が脇の肩越しに聞こえた。森も闇に埋められ、存在の気配の濃厚な香りだけ遺した静謐を、歩む少年達の腰の深さ迄足音を吸い込んで湛えていた。あの時の私は、このままひたすら歩けばいい。と何も考えないように言葉を舌の裏に隠した。自身の呼吸が頬のあたりから皮膚の内側を通って聴こえた。手を伸ばせば潰すことができそうな声が湖底の泡のようにうまれるたびに声の主の表情をそれぞれ浮かべた。瞼の中に、どれも同じように耳元が引き締まり目尻が顳顬まで切り裂かれ瞳孔が開き、覚醒と興奮を交ぜた粉で白く化粧を施された獣の顔となった。女の話もしたかもしれない。歩む男達は若いなりに甘辛い事情をポケットに入れていたが、記憶には残っていない。女の話を男同士で茶化すほど成熟していなかった。女といっても身体のことだった。それぞれが些細な事で大いに悩んでいた。今思えば、あの十代の、痩せた身体に合わない背広のような大人の身振りの日々は、拙いけれどよっぽど大人らしい切断を決心を繰り返していた。奥社に辿り着くと、闇は淡くなり胸元から切り立つ嶺と背後の森の上に蓋が開いたような頭上の厚い雲がぼんやりと月の光の透過を漂わせた。闇の歩みの中考えていたよりも幼い顔がうっすらと並び、それぞれが初めて出会う他人を眺めるような目つきでお互いをみた。そこには安堵と云うより、俺達はどんな理由があるにせよ、無知蒙昧な日を送るにせよ、忌まわしさに抱かれて生まれてきたのだという硬い諦念で貫かれている表情だった。後の夢の中、うっすらと並んだ顔はその時に老成した老人から幼子への変容を一瞬に伺わせた。そういう時間も確かに流れた。
自分たちが時間の中に居るということには気づかなかった。変化の中に立っている現実感を喪失していることに気づくのは、あれから35年待たねばならなかった。この経過の中、幾度も訪れている場所ではある。時間の経過が、杉の太さと高さの変化をふいに気づく実感としてこちらに吸い込まれた。こんなにも巨大な時空へ変化していたのかと見上げて、自らの変化を認めていた。生活はこのような大いなる時間の変化の眺めと共になければいけないと考えていた。
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