6月 23rd, 2009 心 はコメントを受け付けていません

もともと身体が長距離に適していると、半ば独り言のように呟いて、掛かり付けの田中医師は、聴診器を耳からはずしカルテにペンを走らせた。直之に同伴した妻の佐知子が、
「いい年してこんな事を始めるからご近所にも恥かしくずて、それでこの人は、大丈夫なんでしょうか」
のど元まで捲りあげたTシャツをベルトの下へ入れ、脇に妻が畳んだ縞柄のシャツを羽織って、小さくおいと妻を肘でついた。
「まあ、若くはないんだから、ちょっと自制しないといけませんね。でも毎日走ることは良いことです。無理をしなければ」

 今年こそは。この村主催のトライアスロンで完走というより、上位入賞を目指そうと正月に誓って酒を断ち、子供達に冷やかされつつ毎朝農作物の手入れの前に、走り始めたのは、そもそも中古の競技用自転車を知り合いから思いがけないほど安く譲り受けることができたからだったが、スポーツというより肉体を腰や腕の力で強引に動かす仕事で長い時間使い込んできていたので、しなやかさというバランス感覚に縁がないのだ。と直之は、手で口元を押さえるように幾度か咳をした。季節の変わり目の気温の変化が激しい朝夕汗を流し数日して咳が止まらなくなった。

 佐知子にしても、口にするほど、直之の決心を不愉快には思っていなかった。大学を卒業した長男は隣町の大きな電子部品の工場に勤めはじめ、下の娘も看護学校に通い始めると、急に両親を老人扱いする大人になってしまい、無邪気に走りはじめる夫の、幼い行動を見守る感覚が、子を育てた懐かしさとなって蘇り、仕方ないわねと愚痴ながら、腕時計のラップの変化を本人以上楽しんでいた。

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