パンプスの先が湿った黒い土の中へ沈み込み、踵のあたりも埋もれた痕が残っていた。湿地の足場の悪さなど平気な顔で膝を閉じて座り込み、左手には折りたたんだハンカチーフが握りしめられていた。幾度か折りたたんだ縁で鼻の頭を軽く押さえた。伏目の顔も、葉の色と似た白だった。
「寺の池に蓮があるだろう、あれと親戚かなにかだと勝手に思っていた」
女は拾った枝で花をつつく男の手元から視線を反らし、眉を顰めながら、
「熊が冬眠でお腹に老廃物が溜まる。それを吐いたり下剤代わりにこの花を食べるんだって。私たちにはよくないみたい」
やせ細った獣が嘔吐する姿を足元に想像すると、子供の頃、動物の排泄物を枝でつついて座り込み怪我をした膝小僧が再び割れて血が流れた俯きをふいに憶い出し、咎められた気もして、男は枝を外野手のようなモーションで大袈裟に放り投げると、枝は回転しカーテンを切り裂く鋏の音が湿地を渡り、向こう側の地面へ斜めに刺さった。
「人間はとりあえず喰おうとするよな。海沿いの末裔でなくてよかった」
男は自分の言葉が誰に対して何を意味しているかわからないとあきれた。弱く枝の折れる音がして振り返ると、一羽の雉が降り立っていた。女は男の仕草や言葉など気に止めず額の前の手のひらで木漏れ日を遮り湿地の先を遠く眺めた。
「長い路をとにかく歩いたわけよね。鬱蒼とした森の中や谷や峠を。どんな気持ちで眺めたんでしょうね。その時の旅人は。わたしはちっとも奇麗だなんて思わない。なんだか白すぎて頭痛が酷くなりそう」
男が折れた幹の上に腰掛けようとすると、女は浮き上がるように立ち上がり、遊歩道に向けて戻り始めた。力が込められた左手首には筋が走っていた。幾度か腰のあたりを叩くような仕草をした。将来を誓い合ったわけでない男と女が互いの素性よりも身体を求める時期に、こんな群生地を訪れるべきではない。なんだか誰かを弔いにきた霊園のようだと男は一度湿地を振り返り、女の後をしずかに追った。
何も言わず後ろを歩く男のことを、女はまだ迷っていた。前の男は父親と似てひとりで決定し従わせた。それが最初は心地よかったが長く続かなかった。再び枝を拾って誘った女の後を歩くこの男の子供じみた仕草にどこか引き寄せられて、こんな所まで来てしまったけれど、次に誘われたらどうやって断ろうかと考えた。職場の酒の席で家庭のある上司が酔って耳元で囁いた油脂で嗄れた声を憶い出し、混乱した後戻りできない罪悪の香りの中に身を置く自分を想像した。
「帰りにうどんを食べようか」
肩越しにとても良いアイディアだと勇んだような口ぶりの声がして、女は思わず笑うと、白い頬が薄く桃色に染まった。とてもいい似た色を選んだわねと褒めてあげようかと思ったが、女は崩れた口元をそのままにして、
「今度は海につれていって」
とちいさく呟いた。