9月 17th, 2008 § 斥力 はコメントを受け付けていません § permalink
シベリウスですかぁ。斧を振り下ろした坂下に向けて手をあげた川上が声をかけた。
この小屋はまさか薪で風呂を焚かれているんですかぁ。いかにも自分に会いに来た様子だったので、坂下は首に巻いたタオルで汗を拭ってから斧を置き、どうぞとコテージの中へ川上を迎え入れた。
入り口の脇に置かれた土にまみれた野菜の山を見つけて腰を曲げた川上に、坂下は、野上自然農園で譲ってもらいました。勿論お金は支払いました。と説明して、簡素なソファーに座るよう促した。
わたしはビールにしますが、どうします。珈琲もあります。と坂下がベックスに既に口をつけ一口飲み干したのを川上は眺めて、じゃあビールいただきま〜す。と無邪気な声を出した。
坂下のコテージには、川上の指摘した通り、シベリウスが流れており、それもかなり良い音響であったので、部屋に入った川上は、突っ込むことも忘れて、感心したようにビールに手を出した。
ジャズも聴きますが、湖の音やこの土地の空気はクラシックが相性が良いようです。二本目のベックスを川上の前に置いてから、オーディオ機器の前迄歩きボリュームを絞って戻り、で、どんな御用です。先日のイベントサポートのことかな。と坂下は座った。
月に二回の隔月曜日は博物館は休館日で今日がその日であること。実は安藤ミツコも坂下に断り無く此処へ誘った。夕方迄ニースで仕事だから、あと一時間ほどで来ると思う。思った程この辺りには有能な青年が少なくて、皆ほとんどが海側か内陸の地方都市で働いている。自分もあなたも安藤も、青年というほど若くないが、青年は他にも数名いる。湖の商工会と町の観光課の人間から、観光活性化イベントを是非盛大に行いたいが、アイディアがないので、頭を捻るよう頼まれている。初対面に近い坂下にこんなことを頼むのもなんだが、安藤ミツコの間違いを正したいので、協力してもらいたい。と続けると、ビールは丁度二本空になった。
坂下は何も答えずに立ち上がり、キチンの冷蔵庫へ歩き、ベックスを両手に4本抱いて戻り、どうぞ。と川上の前に二本置いてから、あっ車でしたか。タクシーで帰ってくださいね。車のイグニッションキーと交換ですよ。というと、川上はポケットからキーを取り出してテーブルの上に置いた。
最後の安藤サンの間違いを正すというのが、一番気になるなあ。と坂下は明るい声を出して、でも、正したいというのは我侭な響きがある。あなたの個人的な欲望であって公私混同ではないですか。と続けた。
あなたは率直な方だ。安藤ミツコには三度振られています。三度というのが凄いでしょ。
間違いというのを、なんとなく想定することはできるけれども、異人の私が、彼女の断りもなく知る事はいけないと思うな。気分的にも。無論、いきなり、それはいけないよとモノを申す立場に私はいないよ。と坂下はきっぱりと答えた。
川上は三本目を少しずつ呷りつつ、暫く考えるような仕草をしてから、了解しました。確かに我々まだ知り合ったばかりです。こういう場所にいると、会話のできる人間が少なくて。日常会話のことではないです。なんといえばいいかな。常套句を使わずに核心を的確に共有するとでもいったら大袈裟かなぁ。
核心ってそんなもの誰にとっての何ですか?常套句というのは、実によくできた言語だと思いますよ。
あなたちょっと仕事できるでしょう。でもストレスで落ち込んだ。その理由は女なの?
ベックスを煽る毎に、二人とも相手の揚げ足をとるような口ぶりになり、坂下ははっと彼のペースに巻き込まれるな。と戒めた。
安藤ミツコが今晩わとドアをノックした時は、外には夕闇が訪れており、川上は小さな杯の熱燗を唇を尖らせて吸い込み、猫舌なんだよねと安藤へ手を振った。坂下はフライパンで酒の肴を作っており、川上さんドアを開けてと、キチンからいらっしゃいと迎えた。
安藤の後ろにはもう一人女性が立っていて、手にはワインをぶら下げていた。あら〜スザンヌさん。と川上は立ち上がり、ドアを左手で押さえて迎えた。坂下は、濡れた手を拭きながらキチンよりドア迄歩みより、はじめまして坂下ですとスザンヌに手を伸ばした。
閉店間際にスザンヌが来て、夕食に誘われたんだけど、大勢のほうが楽しいかなって。坂下さんごめんなさいね。
スザンヌです。少々日本語喋ります。コンバンワ。ミツコは友だち。川上サン知ってます。
9月 17th, 2008 § スザンヌ はコメントを受け付けていません § permalink
ロバートがスザンヌの肩を抱く写真を手に取り、亡き夫の口髭あたりを指先で辿った。
飛行機に乗る前に、息子家族から今年は先に決まったスケジュールがあって来れない。ママが一人で行く事はないよ。と連絡があったが、スザンヌは秋迄滞在する事を決めた。最愛の夫が病死して二年過ぎて、はっと大切なことを忘れていたと憶い出して、飛行機チケットを購入した。随分久しぶりのような気がした。
年の離れた夫のロバートは、結婚してすぐに父親から譲られた異国の別荘に毎年欠かさず妻を連れて避暑滞在し、異国の文化を母国と同じように愛した。地元の人々からも愛された。溺れる子供を救助した時の表彰状が、コテージに飾られてある。
スザンヌにとって、この湖は、他のどこよりも夫との濃密な記憶の広がる特別な場所だった。
管理スタッフと一緒にコテージの窓を開け放った初日には、ロバートの教え子のミツコが顔を出し、スザンヌを抱きしめて、ロバートは残念でした。と泣いてくれた。
久しぶりの避暑地の知り合いを回って挨拶をして、最後にロバートとふたりで夢中になった吉本の工房に寄ると、カワムラが笑顔で迎えてから、ソーリーとロバートを偲んでくれた。
ロバートとスザンヌに、私たちも素人なんですよと、吉本とカワムラが陶芸をゼロから教えた。スザンヌはコテージの食卓をすべて自作のセラミックにしたいとロバートと誓い合うほど、セラミックアトリエに通った。工房の隅に隠していたカワムラのセラミックを、スザンヌはいたく気に入り、初めて購入したのは、セラミックアトリエの商品としての器ではなく、カワムラのセラミックの板だった。カワムラは、酷く照れて何度も断ったが、スザンヌが競り勝った。ライト家の夕食に呼ばれた吉本は、カワムラの板の上に盛られたローストビーフに驚き、以降カワムラを真似た板皿を数枚捻ったが、これはカワムラのオリジナルだよと、ロバートに諭されてからは、そうだなと頷き、自分は生活の飯盛り茶碗、湯のみ、お銚子だけにすると決めたのだった。カワムラは、ライト夫妻の博識を敬愛し、何冊も書籍を借りるのが楽しみだった。
汚さぬよう気をつけて丁寧に一ページづつ捲るのが、カワムラの休日の過ごし方だった。セラミックアトリエを開いて四年目の吉本に雇われて、二年後には、ボーナスだと、まとまった金と湖畔迄歩いて30分はかかるアパートの鍵を渡され、貯蓄も少しずつ増えたが、カワムラには逃走の怯えが消えずに、休みの日も、どこかへ出かけるなど考えなかった。ロバートが亡くなる前の年の夏にロバート・ライトに誘われて、二人で釣り糸を湖に垂らしていると、ロバートは不意に英語で喋りはじめた。カワムラは彼が何を言っているのかさっぱりわからなかったが、繰り返されるユアギルトという部分だけ記憶していた。ロバートは途中で両手を前に放り出して喋るのをやめたが、独りの部屋に戻り辞書を開いて調べると、どうやら「お前の罪悪感」という意味であることを知り、翌朝早くまだ眠っていた吉本を起こし、なぜロバートは私のことを知っているかと詰め寄った。吉本は、落ち着いて最初から話せとカワムラを座らせ、不安そうに話が前後するカワムラの言葉を確かめると、珈琲を入れて後でスザンヌに確かめるから心配するなと肩をたたいた。吉本はロバートが地方検事を勤めたやり手の正義感であることと、スザンヌがFBIやNSAのスタッフに特化したセラピストであることも承知していたので、おそらくロバートはカワムラが身体から滲ませる後ろめたさから何かを感じ取ったのだろうと、できればスザンヌに心理療法での治療を頼もうと考えた。
スザンヌはロバートと同じ印象をカワムラに抱いていた。真直ぐな青年なのに覇気がない。彼には何か絶えず苦しみがあり、それを押し殺すように抱いている。ロバートはカワムラのセラミックはピュアで人間性に溢れているのに、と英語で付け加えた。吉本は不安そうに俯いて座るカワムラにそのままを通訳し、目を見開いてライト夫妻を見上げたカワムラをそのまま手で抑制させ、スザンヌに治療をお願いできないかと、カワムラから聞いた全てを話したのだった。
話を聴き終えたロバートは、頭を何度も頷かせながらカワムラに近づき、頬を大きな手のひらで包み。オケィオラィトとゆっくりと呟いた。カワムラはどうしてかわからないまま涙がこぼれた。
週に一度は必ず工房に制作に来るライト夫妻は、その度にカワムラを連れてコテージに戻り、通訳を吉本を指名しとにかく本人にこれまでを語らせることが大切よ。あなたもこの機会に英語を勉強しなさいと微笑んだ。
スザンヌは二年ぶりにこの湖畔を、ロバートが此処を愛した理由を再び確かめるように、道沿いの樹木に手を触れ、水際の小石を拾い、草むらの中へ手を差し込みながら歩いた。今年は歩く時間が増えるわと思った。朝と昼と晩と歩こうと思っていた。
ロバートと最期に過ごした夏に、セラミックアトリエのカワムラという青年の告白を受け止めて、スザンヌは、彼はこの国に蔓延する病の象徴なのだと理解した。端的に言えばエゴの喪失であり、自己という感受が備えられないまま大人になった。ロバートは、自分の父親は、原爆開発に携わった祖父から償いの意味で日本へ行きなさいと言われてこの避暑地を買ったのだと、若い頃説明されたとスザンヌに話した。私は単なる親日家だが、祖父は殺戮に加担している。祖父は他人ではないから、遺伝子に生きているから、私の行為ひとつひとつに償いの意味は込められる。それはわたしにとっても嬉しいことだよ。夜の湖畔を腕を組んで歩きながら、ロバートは深い瞼を潤ませた。
スザンヌのセラピーにより、カワムラには愛の欠落が認められた。身体の中に愛を収めるべき場所が用意されているのに、そこがぽっかり空洞になっている。もしかすると、この用意されていること自体を教えられていないのか、と吉本に尋ねると、吉本は、我々この国の人間は皆同じかもしれないと答えた。
スザンヌとロバートは、この空洞に愛を置く事ができるが、育む努力を怠るとこれが朽ちていき、弊害を与えるのだと説明した。育み方はいたって簡単で絶えずその愛に向かって言葉を紡ぐのだ。吉本は黙り込んでから、カワムラに通訳した。
するとカワムラは、父親には感謝している。母親が亡くなり私を運転席に乗せてトラックを運転して仕事をしたことも記憶にある。ただ父親は両親とうまくいってなかった。私を預けてから、尚更よくなくなったようだ。祖父母は溺愛してくれたが、思春期の私はそれを突き放すところがあった。微力な老人ふたりを前にして暴れたこともあった。一度だけ、父はお前は母親に似過ぎていると車の中で呟いたことがあった。
父親が所帯を持って再婚し、子供ができたと電話口で聞いたとき、この世に存在しない母親に似ている俺が、父親と二度と会う訳にはいかないと悟った。
陸自での不祥事というのは、強姦傷害事件で、これはもみ消され表沙汰にならなかった。その事件の主犯の人間を皆が知っていたが、組織の上の血縁者ということで、事故として扱われ、被害者の女性もは金を握らされて任意辞職を促された。私は冬山訓練時の夕食の後、犯人の男を呼び出すと、仲間を二人連れて現れた。私は負ける気はしなかった。三人とも徹底的に殴り倒し、おそらく主犯の男の両手首を折った。気づくとこちらも身体中に傷を負っており、そのまま雪の中へ逃げた。もう戻れないと考えて、山の中穴を掘り中でこのまま死んでもいいと考えた。
主犯の男は、入隊した時から事件の起きる時迄、親友だった。と一気に言葉を紡いだ。
スザンヌは、カワムラに向かって、あなたは三回同じ事を繰り返すことになってしまった。それは、大切なものの喪失よ。ママ、パパ、ベストフレンド。そしてその原因はすべて自分だと勘違いしている。これは私たち人間にとってとても堪えることなの。避けようがなかったことかもしれない。でも、あなたは今、吉本という良き師に出会い、他にも友人がすでに居る筈だわ。共に新しく育まれ共に愛し愛されている。この今の愛を失わない為に生きれば、過去の喪失は癒されるわ。隠し事をせずに話したい事があったらいつでも話すことよ。英語も話せるようになってちょうだい。ロバートもそれを望んでいる。と最期には微笑んだ。
9月 16th, 2008 § 農園 はコメントを受け付けていません § permalink
病んだ子を連れて、とんでもないところに来てしまった。家を建ててしまった。慣れない肉体労働でストンと死んでしまったよう背を向けて横たわる夫を、房子は上掛けを腰迄下ろし半身を起こして見つめた。幾度となく繰り返す深夜の溜息が今夜も漏れた。狭いベッドから立ち上がり窓際迄進んでカーテンを指で寄せると、夜なのに湖面がみえた。先が見えないわ。あなた、私はもう少し気が振れたままでいるわ。と清明な目つきで夫を見下ろした。
野上誠一は、地方都市の代理店を勤めあげるつもりで、人の嫌がる痛がる仕事を率先して引き受け、景気の落ち込んだ時も、社長を励まして乗り切った。先導するリーダーとしての資質ではなかったが、ほうぼうに客を増やし仕事先の評判も悪くなかった。御陰で家を振り返らずに仕事に疾走し、呑めない酒の席にも必ず座り、人の言う事を全て頷いて聞いた。すると、四十半ばで中学生の息子が不登校となり、伴って家を守る妻が錯乱した。息子は妻任せだったし、子供の言うなりの妻は、髭の生え始めた息子が怖くなった。などと夜中に叫んだ。最初はどこにでもあることだと高を括っていた。加えて、馴染みの仕事先で、唐突に、上目遣いでご家族はいかがですか。大変ですね。と声をかけられた。同じことが他でも繰り返され、首を傾げて腰をあげ、会社には黙って興信所に依頼して調べると、信頼していた若い部下の一人がリークしていたことがわかり、詰め寄ってなぜだと糾すと、あんたはセコいんですよ。安い仕事ばかり真剣でさ。やめてくれればいいなってね。と何事もなかったようなつるっとした顔で言われた。
幾度かその部下の斬新な提案を、会議で斥けた記憶はあったが、あまりに子供じみた復讐にあきれかえり、同時に会社のために生きる事をやめようと決めたのだった。あのひとは気の振れた家族がいるんですよ。その原因は本人でしょうね。といった風説は、辞職願いを出した後も、別の方角から、あの人はどこかいい加減だったという修正評価が添えられて届いた。会社には一切を説明しなかった。私物を片付けて、このときはすっかり家族の為に引っ越すことにしたと吐露し同僚に頭をさげ、裏切られた若者をみると薄笑いを浮かべていた。野上は、世の中には絵に描いたような「悪意」というのはあるのだな。と妙なことに感心した。若者には恨みなど感じなかった。
家族は、主人の説明を気の振れたまま受け取ったと誠一は考えていた。兎に角、この妻とこの息子はなんとか守らないといけない。所帯を持って五年程で手にした宅地と家はまだローンが残っていたが、売り払って清算し、少ない退職金で辺鄙な荒れ地を格安で譲ってもらい仕事の顧客だった小さな建設会社に無理を云って安普請平屋を一ヶ月で建てた。建設会社に雇ってくれと懇願したが断られ、ほうぼうを足を膨らませて歩き仕事を探し、牧場で事務と放牧牛の管理の仕事を契約でなんとか決めて、食事の足しにしようと土地を耕し野菜を植えた。最初の冬に大雪が降り、小さな弱い平屋は屋根が凹んだ。屋根の傾斜が、この土地では通用しないと、助けにきてくれた近所の商工会の人間が教えてくれた。誠一は誰にも相談せずに独りで決めた。春になって屋根の修理をしながら、自分の欠点は独りで決めることだとすとんと判った。
一人息子のタロウの、最初の不登校の理由は単なる頭痛だった。だが頭痛は繰り返し襲った。朝は特に酷かった。頭痛を訴えても家族も学校も具体的な対応をしないことが意志的な不登校を加速させたのだった。母親は、学校にいかないなんておかしい。人様に顔向けできないなどと気が振れた。夜逃げかよとタロウが呟いた引越しの後も、房子は隙があれば誠一の肩を鉛筆で刺した。誠一は黙って堪えた。タロウはそれをドアの隙間から眺め、両親は他人だと強く思うようになり、率先して何かを相談することなどなくなった。父親も、何かを話そうとしなかった。家族が頑に閉じて、けれど寄り添っているように、外からは見えた。貧相な平屋を時間をかけて手入れして、書面上転校した中学には、ひとつ繰り下げて同級生が進学を考える時、2学年の教室に通いはじめた。庭の農園の野菜の種類も一時は増えたが、タロウが家に居ない時間房子は農園にかかりきりになり、誠一が牧場で貰ってきた犬に、ジロと房子は名前をつけて可愛がるようになって、ある夜、静かな食卓で、あたし、今までどうしていたのかしら。と呟いた。誠一は食べるのをやめ、溢れ出る涙を隠さずに拭った。タロウは高校へ行くよと加えた。
近所付き合いも始めた房子は、無農薬というのが良いらしいと一人で決めて、誠一に沢山の専門書を購入させ、誠一も、嫌な所を真似るものだと、然し妻の決心を許して興味を持った。タロウが大学には行かないと、再びゲームオタクになり、高校を卒業した時には、誠一はそうか、好きにしろとだけ言って、逞しく健全になった房子とふたりで無農薬農園づくりに夢中になった。通りかかった湖畔のホテルのシェフが、野上家の素人にしては大袈裟な農園を覗きこみ、幾度か立ち話をするようになり、翌年の春には、無農薬野菜数種類をホテルと契約した。タロウは、二十歳を過ぎ、自分で探したアルバイトを繰り返すようになったが、小金が溜まると、誠一に離れを造ってほしいと申し出て、プレハブの自分の部屋を建てさせた。同時に食卓にタロウはあまり顔を出さずに、改造したプレハブの中で、コンビニの弁当で夕食を済ませるようになった。
野上農園の野菜はホテルの客にも評判が良く、シェフの紹介で他の店にとも契約することになり、屋根の潰れた平屋も寒冷地に完全対応する改築を少しずつ繰り返し、菜園も車で通う場所に新しい農地を借りて拡張し、収穫時にはアルバイトを頼むチラシを駅前に置くようになった。房子は誠一よりも無農薬野菜の持続経営に熱心で、農園の監督を妻に任せた分、息子が気がかりとなりはじめ、たまに二人で海沿いへ釣りに出かけるようになった。どうこうしろと諭すことなどなかったが、隣に息子が黙って釣り糸を垂らしているだけで、過去がやわらかく変容し、安心できた。
9月 16th, 2008 § 博物館 はコメントを受け付けていません § permalink
あいつはやめたほうがいい。
平日の午後閉館間際であったから、坂下の他には閲覧者がいなかったので、壁際の柱の裏側の囁きが、くっきりと響いた。
展示室を変えてゆっくり辿り、再び戻るとロビーのソファーに座った安藤ミツコが、あらと頭を下げた。
背中を向けていた男が振り返り、お知り合い?と声を出し、お客さんよというミツコの返事に重ねるように珈琲いかがですか、もうすぐ閉館ですがと加えた。
男は川上哲生と名乗り、此処で学芸員をしていると名刺を差し出した。ニースの安藤サンとは昔から友人で、今も人生相談に乗っていたところでと笑い、ちょっと最近のお客さんなのよ。と安藤は川上の安易さを疎ましい表情で遮り、ごめんなさいと坂下に向かって小さく微笑んだ。
腕時計を見て、おそらく閉館迄十分もないでしょうから、頂くモノはいただいて帰ります。坂下も微笑んで答えを返し、事務所の奥へ珈琲を取りにいった川上を見送り、安藤の前の座り、ニースのバケットはお気に入りです。自分の名前を言うと、よろしくと安藤は右腕を差し伸ばした。坂下は随分久しぶりに見る仕草だと感じながら眉を上げて右手で握手を返すと、安藤の手がひどく冷たいことに気づいて、思わず冷たい手だなと口にした。
そうなの、低血圧で、夏でも毎朝手足が冷えて困るの。冬はもー大変。
バケットだけじゃなくて、他のも召し上がってね。美味しいのよ。
坂下はこれまで口にしたニースに並んでいた種類を憶い出してひとつひとつ挙げていった。
あれは話したの、それとももう知ってるのかな。ミッちゃんがプロのスノーボーダーってこと。凄いのよこの女性。男勝りっつうか、負けず嫌いっつうか、いつもギンギンでさ。丸いお盆に三つのカップを乗せ、歩きながら川上は肩越しから喋りはじめた。坂下は然程旨くない珈琲に口をつけて、聞かれるまで自分のことは話さずに、さっさと飲み干して帰ろうと決めたが、ふいに安藤が、坂下さんは、こちらに引っ越してきたんですか?お仕事?それともまさか別荘で避暑というご身分?と川上の話の腰をポキッと折った。
何も隠す事等ないと、坂下は自分のこれまでの仕事の内容と春に通院したこと。タイムシェアコテージをレンタルしていること。TVを地下室に隠したことまで、ゆっくり話した。
職権乱用と笑う川上は、閉館の札を入り口に垂らして戻り、坂下の湖畔での生活に至る経緯に随分興味を持ち、じゃあまあ、とりあえず秋迄滞在ってことですね?と安藤を見てにやりと意味深に唇を曲げた。
PTSDね。それで療養中。安藤は坂下の率直な説明が気に入ったように頷いてから、川上サンは、仲間を捜しているのよ。この夏この博物館でやるイベントを手伝ってくれる人たち。でも、簡単に返事をしないほうがいいと思うわ。
心的外傷後ストレス障害っていうほどの外傷はないけれど、もしかすると、随分遠い過去のトラウマがそれに近いかもしれない。坂下は初対面の人間に何の蟠りもなく言葉を繋げる自分を不思議に感じながら、答えていた。わたしでよかったらお手伝いしますよ。暇だし。
パンと手を打って、決まりだな。即決。気持ちいいね坂下さん。と川上も腕を伸ばした。柔らかくて温かい手を握り返して、またゆっくり見学に来ますと坂下は立ち上がった。
手を振って自家用車に乗り込む川上を見送ってから安藤とニースまで夕暮れの道を歩き、川上という人間の面白さを転がしてから、店の前で、また買いにきますねと別れて歩き始めた坂下は、静かな博物館に響いたおそらく川上の囁きが、三人での会話とミスマッチであることがいつまでも残った。
川上が車を止めエンジンを切ってドアから出ると、街路灯のない農道が月明かりで真っすぐに国道に続き、人影はない。国道にもヘッドライトは見えなかった。田植えが終わった田からカエルの鳴き声が喧しいと、慣れた筈なのに顔を顰めた。
安藤と坂下に見送られ、坂下という男の、自分をさらりと人ごとのような臆面もなさで静かに話す様子に、憶えがあった。学生の頃何かと対峙した男とよく似ていた。実直だが正しいことしか言わない。その男はふざけてわざと散らかすような論理を転がす俺を侮蔑していた。何度か殺意を抱いたことを浮かべ、坂下の出現が、妙な方向へ傾く前に、なんとかしようなどと勝手に巡らせた。坂下に安藤が好奇心を持つだろう。一度では懲りず三度安藤に交際を断られた女の般若の面相を思い浮かべ、舌を鳴らして交差点でハンドルを逆へ切り、真直ぐに帰宅する気分を捨て去る意味でフロントミラーに離れてゆく自宅へ続く逆方向の道へ向かって手を振った。車で50分程の地方都市JRの駅前にある集合ストアの書店に向かい、店内に並ぶ書籍を全て確かめる意気地に任せて神経質に歩いた。川上はおそらく捲っても最後まで読み通すことはないと知りながら、タイトルと大雑把な筋だけを姑息に記憶する浅薄なやり方で、業務で対峙する様々な職種や組織に自らの正体を煙に巻く事ができるという学生時に手に入れたその場凌ぎの態度が身に染み付いていた。今回も新刊を含め十冊ほどをレジに持ち込み購入した。書店からレンタルビデオの店に回って、R指定のオカルト、AV、アニメを会員カードで一週間のレンタルをし、ファミリーレストランで夕食を摂り、国道を再び50分かけて戻った。博物館から15分ほどにも同じようなショップはあったが、顔見知りにいらぬ噂を流されるのを大いに気にした。
自宅は湖畔のふたつ隣の県境に近い村にあり、二世代目となる両親の農家の離れに個室を設け、風呂や台所まで取り付けてあった。建てた時分は、大工の棟梁がこれで後は嫁さんだけだな。と笑うほど、家族が増えても対応できるほどの作りで、書斎にはあらゆる類いの書籍がぎっしり書棚に並び、リビングには最も新しいシアターシステムが夥しい量のCDやDVDと共に整然と並び、防音も施されていた。川上は雑駁雑食なコレクターでもあった。
父親が四十の時の子供で、丁度四十の川上は見た目は若作りだが、七十からほぼ十年の間寝たきりの父親を母親と共に介護していた。母親は父親と十離れており、七十で介護疲れが最近いたる箇所にあらわれはじめ、愚痴を零すようになった。まだこれといった病も痛みもなく元気だったが、父親が独りで拡張した田畑の農作業を独りで引き受けるのを早々に諦めて、長男に相談して国道沿いのかなりの農地を売り払い、近くに住む川上の弟が時折、残された収入源となった林檎畑の農作業を引き受け、収入を折半する約束で他の作業にも手を出すようになっていた。母と弟は長男の川上に家の農作業を継げと迫れなかったのは、それなりに豊かな農家であった川上家の長男は地元の高校から主席で早稲田に進学し、大学では留年をする体たらくだったが、当時はなかなかの神童だった。勤めた大手電気メーカーを、父親の具合の悪さが発覚した時にやめて資格を取得し、博物館の学芸員に滑込み、これで父親をなんとかできると、家族は喜んだ経緯があり、これ以上、何かを強いることはできないと、むしろ長男の自由を黙認するようになった。
無論、川上が無垢な親思いで田舎に戻ったわけではなかった。本社勤めの将来を期待された川上は東北の支社に、経験値の修行と肩を叩かれ3年の間営業販売から工場の品質管理まで巡った。二十代の川上は狡賢く頭が回るほうで、年上からは好かれ、年下からは嫌われた。管理業務主任をしている工場にアルバイトで働いていた高卒の娘に手を出し、子を孕ませて親が本社に手紙を書いた。専務が東京から来て怒鳴り上げ、会社が和解金を支払うことで娘も親も従ったが、ベトナムで死んでもらうと専務に睨みつけられて、川上は辞表を提出した。重なって父親が脳溢血で倒れた。川上は会社での不祥事を家族にも誰にも明かしていなかった。
9月 15th, 2008 § 廃墟 はコメントを受け付けていません § permalink
二年前の冬にゲレンデのロケーションでモデルを撮影する仕事があり、この時は吹雪に悩まされて三日ホテルに閉じ込められた。帰りのロケハン車では四日も一緒に過ごしたスタッフらとの熟れたような空気から逃れるように結露した窓を開け、見上げると廃墟となった建物が目に飛び込み、寒いよ〜と文句を言うモデルやマネージャーたちの声を無視して注視していた。金村は、今回飛び込んだ仕事の自在度を聞いてすぐにこの廃墟を浮かべていた。ロケハンの時間も手に入れたので、事務所のスタッフの中村を従えて、とりあえず撮影許可を廃墟の土地の所有不動産会社から取得する前に一度現物を見てみようと車を走らせた。
金村は写真家として自立した事務所を構え、固定クライアントもあり、安定的な撮影の仕事をはじめていたが、どこかいつも、自分のしたいことはこういうことではないと綿菓子のような取り留めの無さで、ベタつくような不満を抱くようになっていた。注文どおりに動き、期待される以上の結果を出すことは、撮影という仕事の悦びではあったが、いざ現場で交錯する多数の恣意のヒエラルキーが、結局仕事を齎した素人にイニシアティブを取られ、時にはまだ子供のモデルの我侭にも付き合うことになる。金村のそうした滑稽な逆転への臨機応変な明るい対応が、クライアントからは喜ばれ、金村はなんでも注文通りやってくれると人格的な評判を得て、次の仕事に繋げていたので、ストレスは密やかに腹の中に積み上げられた。
友人の写真家が殺伐とした工場ばかりを撮影した写真集を出版し、これがどういうわけか随分売れた。金村のグラビア撮影の雑誌も評判はよかったが、写真が本来持つ目撃の強さ、ドキュメント性を高めたコンセプトで、自分らしさを示すことができないかと考え続けている間、ずっと件の廃墟が浮かんだのだった。
まだ若い頃に初めて購入した写真集も取り壊されつつある廃墟のものだったと、サービスエリアで運転を交代した途端に寝息を立てた中村をみやりながら憶い出した。
四時間程かけて現場に到着したが、廃墟となっているホテルのエントランスへつづく入り口は綱が渡されており、立ち入り禁止という立て札が置かれていた。町と町とを繋ぐ国道沿いにポツンと建つ、いかにも立地条件の悪いラブホテルだったが、その崩れ様に金村は、待ち望んだものをみつけた確信を増して抱いた。離れた国道脇に車を駐車し、サブカメラと三脚を中村に持たせ、自分は車から懐中電灯を取り出してポケットに入れた。朝暗い内に都内から走らせたので、まだ午前九時だったが、辺りはこの辺りの地形と季節のせいか濃霧に覆われており、割れた廃墟の窓の中は薄暗かった。
なんか怖いっすね。ヤバそうだったらすぐに出ましょうね。と何度も怖じ気づく中村に、今は朝だよ朝。男だろ〜と笑いを添えて従わせたが、入り口の割れたドアは固くロックされており、正面から中に入りことを諦めて建物の横に回り、叢を掻き分けてみつけた裏口の壊れたドアの下迄、廃墟となってから幾度も人の通った痕跡があるのをみつけ、金村も躊躇いが生まれた。
廃墟に差し込む光をと考えて、1Fのラウンジあたりでテストショットをして戻ればいいと考えていた。裏口は厨房に繋がっていて、業務用の冷蔵庫も、棚には食器類もまだ置かれていたが、スプレー缶の落書きもあり、近くの若者が屯する場所であるのだと知って、中村を振り返り顎で示して励ました。赤いカーペットの受付に出ると、国道を走り去る大型トラックが何台も続いている。三脚を立ててここから撮るぞと中村を促して2Fへ登る階段の先を見やった途端、金村の身体は凍り付いた。セーラー服の少女が座っている。
カメラを三脚に取り付けている中村に目玉だけ寄せて睨みつけ、少女を指差すと、中村は、はあと首を傾げてから振り返り、叫び声をあげた。
最初に駆けつけた駐在の警察官は、県警の刑事が来る迄待っていなさい。此処は廃墟だけど所有者がいるので住居侵入罪だよと諭しながら、金村の差し出した免許証と名刺を受け取った。
金村と中村は少女に近寄らずそれが死体であることを即座に理解して、機材を置いたまま廃墟から走り出ていた。車迄走り座席に座ってエンジンをかけてようやく、通報しなくちゃと金村の乾いた口が開いた。中村は声を震わせて、まじやばいっす。まじやばいっす。と2回繰り返した。二人とも身体の肉は堅く痙攣を続けていた。
遠山刑事は最近多いんだよねと、工事の現場監督のような身なりで部下を連れて近寄り、今、管理不動産に確認をとったから現場検証してるので、ちょっと時間いいですかねえと金村に頭を下げた。サイレンを鳴らして何台もパトカーが到着した時は、車内で中村とまるで犯人のような気分だと言葉少なく会話を交えるほどに緊張が解けていたが、おそらく一面記事になるんじゃないですか。という中村の一言に、暫く仕事ができないかもしれないと金村は思った。