シベリウスですかぁ。斧を振り下ろした坂下に向けて手をあげた川上が声をかけた。
この小屋はまさか薪で風呂を焚かれているんですかぁ。いかにも自分に会いに来た様子だったので、坂下は首に巻いたタオルで汗を拭ってから斧を置き、どうぞとコテージの中へ川上を迎え入れた。
入り口の脇に置かれた土にまみれた野菜の山を見つけて腰を曲げた川上に、坂下は、野上自然農園で譲ってもらいました。勿論お金は支払いました。と説明して、簡素なソファーに座るよう促した。
わたしはビールにしますが、どうします。珈琲もあります。と坂下がベックスに既に口をつけ一口飲み干したのを川上は眺めて、じゃあビールいただきま〜す。と無邪気な声を出した。
坂下のコテージには、川上の指摘した通り、シベリウスが流れており、それもかなり良い音響であったので、部屋に入った川上は、突っ込むことも忘れて、感心したようにビールに手を出した。
ジャズも聴きますが、湖の音やこの土地の空気はクラシックが相性が良いようです。二本目のベックスを川上の前に置いてから、オーディオ機器の前迄歩きボリュームを絞って戻り、で、どんな御用です。先日のイベントサポートのことかな。と坂下は座った。
月に二回の隔月曜日は博物館は休館日で今日がその日であること。実は安藤ミツコも坂下に断り無く此処へ誘った。夕方迄ニースで仕事だから、あと一時間ほどで来ると思う。思った程この辺りには有能な青年が少なくて、皆ほとんどが海側か内陸の地方都市で働いている。自分もあなたも安藤も、青年というほど若くないが、青年は他にも数名いる。湖の商工会と町の観光課の人間から、観光活性化イベントを是非盛大に行いたいが、アイディアがないので、頭を捻るよう頼まれている。初対面に近い坂下にこんなことを頼むのもなんだが、安藤ミツコの間違いを正したいので、協力してもらいたい。と続けると、ビールは丁度二本空になった。
坂下は何も答えずに立ち上がり、キチンの冷蔵庫へ歩き、ベックスを両手に4本抱いて戻り、どうぞ。と川上の前に二本置いてから、あっ車でしたか。タクシーで帰ってくださいね。車のイグニッションキーと交換ですよ。というと、川上はポケットからキーを取り出してテーブルの上に置いた。
最後の安藤サンの間違いを正すというのが、一番気になるなあ。と坂下は明るい声を出して、でも、正したいというのは我侭な響きがある。あなたの個人的な欲望であって公私混同ではないですか。と続けた。
あなたは率直な方だ。安藤ミツコには三度振られています。三度というのが凄いでしょ。
間違いというのを、なんとなく想定することはできるけれども、異人の私が、彼女の断りもなく知る事はいけないと思うな。気分的にも。無論、いきなり、それはいけないよとモノを申す立場に私はいないよ。と坂下はきっぱりと答えた。
川上は三本目を少しずつ呷りつつ、暫く考えるような仕草をしてから、了解しました。確かに我々まだ知り合ったばかりです。こういう場所にいると、会話のできる人間が少なくて。日常会話のことではないです。なんといえばいいかな。常套句を使わずに核心を的確に共有するとでもいったら大袈裟かなぁ。
核心ってそんなもの誰にとっての何ですか?常套句というのは、実によくできた言語だと思いますよ。
あなたちょっと仕事できるでしょう。でもストレスで落ち込んだ。その理由は女なの?
ベックスを煽る毎に、二人とも相手の揚げ足をとるような口ぶりになり、坂下ははっと彼のペースに巻き込まれるな。と戒めた。
安藤ミツコが今晩わとドアをノックした時は、外には夕闇が訪れており、川上は小さな杯の熱燗を唇を尖らせて吸い込み、猫舌なんだよねと安藤へ手を振った。坂下はフライパンで酒の肴を作っており、川上さんドアを開けてと、キチンからいらっしゃいと迎えた。
安藤の後ろにはもう一人女性が立っていて、手にはワインをぶら下げていた。あら〜スザンヌさん。と川上は立ち上がり、ドアを左手で押さえて迎えた。坂下は、濡れた手を拭きながらキチンよりドア迄歩みより、はじめまして坂下ですとスザンヌに手を伸ばした。
閉店間際にスザンヌが来て、夕食に誘われたんだけど、大勢のほうが楽しいかなって。坂下さんごめんなさいね。
スザンヌです。少々日本語喋ります。コンバンワ。ミツコは友だち。川上サン知ってます。