農園

9月 16th, 2008 農園 はコメントを受け付けていません

病んだ子を連れて、とんでもないところに来てしまった。家を建ててしまった。慣れない肉体労働でストンと死んでしまったよう背を向けて横たわる夫を、房子は上掛けを腰迄下ろし半身を起こして見つめた。幾度となく繰り返す深夜の溜息が今夜も漏れた。狭いベッドから立ち上がり窓際迄進んでカーテンを指で寄せると、夜なのに湖面がみえた。先が見えないわ。あなた、私はもう少し気が振れたままでいるわ。と清明な目つきで夫を見下ろした。
野上誠一は、地方都市の代理店を勤めあげるつもりで、人の嫌がる痛がる仕事を率先して引き受け、景気の落ち込んだ時も、社長を励まして乗り切った。先導するリーダーとしての資質ではなかったが、ほうぼうに客を増やし仕事先の評判も悪くなかった。御陰で家を振り返らずに仕事に疾走し、呑めない酒の席にも必ず座り、人の言う事を全て頷いて聞いた。すると、四十半ばで中学生の息子が不登校となり、伴って家を守る妻が錯乱した。息子は妻任せだったし、子供の言うなりの妻は、髭の生え始めた息子が怖くなった。などと夜中に叫んだ。最初はどこにでもあることだと高を括っていた。加えて、馴染みの仕事先で、唐突に、上目遣いでご家族はいかがですか。大変ですね。と声をかけられた。同じことが他でも繰り返され、首を傾げて腰をあげ、会社には黙って興信所に依頼して調べると、信頼していた若い部下の一人がリークしていたことがわかり、詰め寄ってなぜだと糾すと、あんたはセコいんですよ。安い仕事ばかり真剣でさ。やめてくれればいいなってね。と何事もなかったようなつるっとした顔で言われた。
幾度かその部下の斬新な提案を、会議で斥けた記憶はあったが、あまりに子供じみた復讐にあきれかえり、同時に会社のために生きる事をやめようと決めたのだった。あのひとは気の振れた家族がいるんですよ。その原因は本人でしょうね。といった風説は、辞職願いを出した後も、別の方角から、あの人はどこかいい加減だったという修正評価が添えられて届いた。会社には一切を説明しなかった。私物を片付けて、このときはすっかり家族の為に引っ越すことにしたと吐露し同僚に頭をさげ、裏切られた若者をみると薄笑いを浮かべていた。野上は、世の中には絵に描いたような「悪意」というのはあるのだな。と妙なことに感心した。若者には恨みなど感じなかった。
家族は、主人の説明を気の振れたまま受け取ったと誠一は考えていた。兎に角、この妻とこの息子はなんとか守らないといけない。所帯を持って五年程で手にした宅地と家はまだローンが残っていたが、売り払って清算し、少ない退職金で辺鄙な荒れ地を格安で譲ってもらい仕事の顧客だった小さな建設会社に無理を云って安普請平屋を一ヶ月で建てた。建設会社に雇ってくれと懇願したが断られ、ほうぼうを足を膨らませて歩き仕事を探し、牧場で事務と放牧牛の管理の仕事を契約でなんとか決めて、食事の足しにしようと土地を耕し野菜を植えた。最初の冬に大雪が降り、小さな弱い平屋は屋根が凹んだ。屋根の傾斜が、この土地では通用しないと、助けにきてくれた近所の商工会の人間が教えてくれた。誠一は誰にも相談せずに独りで決めた。春になって屋根の修理をしながら、自分の欠点は独りで決めることだとすとんと判った。

一人息子のタロウの、最初の不登校の理由は単なる頭痛だった。だが頭痛は繰り返し襲った。朝は特に酷かった。頭痛を訴えても家族も学校も具体的な対応をしないことが意志的な不登校を加速させたのだった。母親は、学校にいかないなんておかしい。人様に顔向けできないなどと気が振れた。夜逃げかよとタロウが呟いた引越しの後も、房子は隙があれば誠一の肩を鉛筆で刺した。誠一は黙って堪えた。タロウはそれをドアの隙間から眺め、両親は他人だと強く思うようになり、率先して何かを相談することなどなくなった。父親も、何かを話そうとしなかった。家族が頑に閉じて、けれど寄り添っているように、外からは見えた。貧相な平屋を時間をかけて手入れして、書面上転校した中学には、ひとつ繰り下げて同級生が進学を考える時、2学年の教室に通いはじめた。庭の農園の野菜の種類も一時は増えたが、タロウが家に居ない時間房子は農園にかかりきりになり、誠一が牧場で貰ってきた犬に、ジロと房子は名前をつけて可愛がるようになって、ある夜、静かな食卓で、あたし、今までどうしていたのかしら。と呟いた。誠一は食べるのをやめ、溢れ出る涙を隠さずに拭った。タロウは高校へ行くよと加えた。

近所付き合いも始めた房子は、無農薬というのが良いらしいと一人で決めて、誠一に沢山の専門書を購入させ、誠一も、嫌な所を真似るものだと、然し妻の決心を許して興味を持った。タロウが大学には行かないと、再びゲームオタクになり、高校を卒業した時には、誠一はそうか、好きにしろとだけ言って、逞しく健全になった房子とふたりで無農薬農園づくりに夢中になった。通りかかった湖畔のホテルのシェフが、野上家の素人にしては大袈裟な農園を覗きこみ、幾度か立ち話をするようになり、翌年の春には、無農薬野菜数種類をホテルと契約した。タロウは、二十歳を過ぎ、自分で探したアルバイトを繰り返すようになったが、小金が溜まると、誠一に離れを造ってほしいと申し出て、プレハブの自分の部屋を建てさせた。同時に食卓にタロウはあまり顔を出さずに、改造したプレハブの中で、コンビニの弁当で夕食を済ませるようになった。

野上農園の野菜はホテルの客にも評判が良く、シェフの紹介で他の店にとも契約することになり、屋根の潰れた平屋も寒冷地に完全対応する改築を少しずつ繰り返し、菜園も車で通う場所に新しい農地を借りて拡張し、収穫時にはアルバイトを頼むチラシを駅前に置くようになった。房子は誠一よりも無農薬野菜の持続経営に熱心で、農園の監督を妻に任せた分、息子が気がかりとなりはじめ、たまに二人で海沿いへ釣りに出かけるようになった。どうこうしろと諭すことなどなかったが、隣に息子が黙って釣り糸を垂らしているだけで、過去がやわらかく変容し、安心できた。

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