ロバートがスザンヌの肩を抱く写真を手に取り、亡き夫の口髭あたりを指先で辿った。
飛行機に乗る前に、息子家族から今年は先に決まったスケジュールがあって来れない。ママが一人で行く事はないよ。と連絡があったが、スザンヌは秋迄滞在する事を決めた。最愛の夫が病死して二年過ぎて、はっと大切なことを忘れていたと憶い出して、飛行機チケットを購入した。随分久しぶりのような気がした。
年の離れた夫のロバートは、結婚してすぐに父親から譲られた異国の別荘に毎年欠かさず妻を連れて避暑滞在し、異国の文化を母国と同じように愛した。地元の人々からも愛された。溺れる子供を救助した時の表彰状が、コテージに飾られてある。
スザンヌにとって、この湖は、他のどこよりも夫との濃密な記憶の広がる特別な場所だった。
管理スタッフと一緒にコテージの窓を開け放った初日には、ロバートの教え子のミツコが顔を出し、スザンヌを抱きしめて、ロバートは残念でした。と泣いてくれた。
久しぶりの避暑地の知り合いを回って挨拶をして、最後にロバートとふたりで夢中になった吉本の工房に寄ると、カワムラが笑顔で迎えてから、ソーリーとロバートを偲んでくれた。
ロバートとスザンヌに、私たちも素人なんですよと、吉本とカワムラが陶芸をゼロから教えた。スザンヌはコテージの食卓をすべて自作のセラミックにしたいとロバートと誓い合うほど、セラミックアトリエに通った。工房の隅に隠していたカワムラのセラミックを、スザンヌはいたく気に入り、初めて購入したのは、セラミックアトリエの商品としての器ではなく、カワムラのセラミックの板だった。カワムラは、酷く照れて何度も断ったが、スザンヌが競り勝った。ライト家の夕食に呼ばれた吉本は、カワムラの板の上に盛られたローストビーフに驚き、以降カワムラを真似た板皿を数枚捻ったが、これはカワムラのオリジナルだよと、ロバートに諭されてからは、そうだなと頷き、自分は生活の飯盛り茶碗、湯のみ、お銚子だけにすると決めたのだった。カワムラは、ライト夫妻の博識を敬愛し、何冊も書籍を借りるのが楽しみだった。
汚さぬよう気をつけて丁寧に一ページづつ捲るのが、カワムラの休日の過ごし方だった。セラミックアトリエを開いて四年目の吉本に雇われて、二年後には、ボーナスだと、まとまった金と湖畔迄歩いて30分はかかるアパートの鍵を渡され、貯蓄も少しずつ増えたが、カワムラには逃走の怯えが消えずに、休みの日も、どこかへ出かけるなど考えなかった。ロバートが亡くなる前の年の夏にロバート・ライトに誘われて、二人で釣り糸を湖に垂らしていると、ロバートは不意に英語で喋りはじめた。カワムラは彼が何を言っているのかさっぱりわからなかったが、繰り返されるユアギルトという部分だけ記憶していた。ロバートは途中で両手を前に放り出して喋るのをやめたが、独りの部屋に戻り辞書を開いて調べると、どうやら「お前の罪悪感」という意味であることを知り、翌朝早くまだ眠っていた吉本を起こし、なぜロバートは私のことを知っているかと詰め寄った。吉本は、落ち着いて最初から話せとカワムラを座らせ、不安そうに話が前後するカワムラの言葉を確かめると、珈琲を入れて後でスザンヌに確かめるから心配するなと肩をたたいた。吉本はロバートが地方検事を勤めたやり手の正義感であることと、スザンヌがFBIやNSAのスタッフに特化したセラピストであることも承知していたので、おそらくロバートはカワムラが身体から滲ませる後ろめたさから何かを感じ取ったのだろうと、できればスザンヌに心理療法での治療を頼もうと考えた。
スザンヌはロバートと同じ印象をカワムラに抱いていた。真直ぐな青年なのに覇気がない。彼には何か絶えず苦しみがあり、それを押し殺すように抱いている。ロバートはカワムラのセラミックはピュアで人間性に溢れているのに、と英語で付け加えた。吉本は不安そうに俯いて座るカワムラにそのままを通訳し、目を見開いてライト夫妻を見上げたカワムラをそのまま手で抑制させ、スザンヌに治療をお願いできないかと、カワムラから聞いた全てを話したのだった。
話を聴き終えたロバートは、頭を何度も頷かせながらカワムラに近づき、頬を大きな手のひらで包み。オケィオラィトとゆっくりと呟いた。カワムラはどうしてかわからないまま涙がこぼれた。
週に一度は必ず工房に制作に来るライト夫妻は、その度にカワムラを連れてコテージに戻り、通訳を吉本を指名しとにかく本人にこれまでを語らせることが大切よ。あなたもこの機会に英語を勉強しなさいと微笑んだ。
スザンヌは二年ぶりにこの湖畔を、ロバートが此処を愛した理由を再び確かめるように、道沿いの樹木に手を触れ、水際の小石を拾い、草むらの中へ手を差し込みながら歩いた。今年は歩く時間が増えるわと思った。朝と昼と晩と歩こうと思っていた。
ロバートと最期に過ごした夏に、セラミックアトリエのカワムラという青年の告白を受け止めて、スザンヌは、彼はこの国に蔓延する病の象徴なのだと理解した。端的に言えばエゴの喪失であり、自己という感受が備えられないまま大人になった。ロバートは、自分の父親は、原爆開発に携わった祖父から償いの意味で日本へ行きなさいと言われてこの避暑地を買ったのだと、若い頃説明されたとスザンヌに話した。私は単なる親日家だが、祖父は殺戮に加担している。祖父は他人ではないから、遺伝子に生きているから、私の行為ひとつひとつに償いの意味は込められる。それはわたしにとっても嬉しいことだよ。夜の湖畔を腕を組んで歩きながら、ロバートは深い瞼を潤ませた。
スザンヌのセラピーにより、カワムラには愛の欠落が認められた。身体の中に愛を収めるべき場所が用意されているのに、そこがぽっかり空洞になっている。もしかすると、この用意されていること自体を教えられていないのか、と吉本に尋ねると、吉本は、我々この国の人間は皆同じかもしれないと答えた。
スザンヌとロバートは、この空洞に愛を置く事ができるが、育む努力を怠るとこれが朽ちていき、弊害を与えるのだと説明した。育み方はいたって簡単で絶えずその愛に向かって言葉を紡ぐのだ。吉本は黙り込んでから、カワムラに通訳した。
するとカワムラは、父親には感謝している。母親が亡くなり私を運転席に乗せてトラックを運転して仕事をしたことも記憶にある。ただ父親は両親とうまくいってなかった。私を預けてから、尚更よくなくなったようだ。祖父母は溺愛してくれたが、思春期の私はそれを突き放すところがあった。微力な老人ふたりを前にして暴れたこともあった。一度だけ、父はお前は母親に似過ぎていると車の中で呟いたことがあった。
父親が所帯を持って再婚し、子供ができたと電話口で聞いたとき、この世に存在しない母親に似ている俺が、父親と二度と会う訳にはいかないと悟った。
陸自での不祥事というのは、強姦傷害事件で、これはもみ消され表沙汰にならなかった。その事件の主犯の人間を皆が知っていたが、組織の上の血縁者ということで、事故として扱われ、被害者の女性もは金を握らされて任意辞職を促された。私は冬山訓練時の夕食の後、犯人の男を呼び出すと、仲間を二人連れて現れた。私は負ける気はしなかった。三人とも徹底的に殴り倒し、おそらく主犯の男の両手首を折った。気づくとこちらも身体中に傷を負っており、そのまま雪の中へ逃げた。もう戻れないと考えて、山の中穴を掘り中でこのまま死んでもいいと考えた。
主犯の男は、入隊した時から事件の起きる時迄、親友だった。と一気に言葉を紡いだ。
スザンヌは、カワムラに向かって、あなたは三回同じ事を繰り返すことになってしまった。それは、大切なものの喪失よ。ママ、パパ、ベストフレンド。そしてその原因はすべて自分だと勘違いしている。これは私たち人間にとってとても堪えることなの。避けようがなかったことかもしれない。でも、あなたは今、吉本という良き師に出会い、他にも友人がすでに居る筈だわ。共に新しく育まれ共に愛し愛されている。この今の愛を失わない為に生きれば、過去の喪失は癒されるわ。隠し事をせずに話したい事があったらいつでも話すことよ。英語も話せるようになってちょうだい。ロバートもそれを望んでいる。と最期には微笑んだ。