8月 8th, 2009 § 案山子 はコメントを受け付けていません § permalink
「案山子」はどうやら法律関係か興信所、もしかすると刑事かもしれない。あまり余計な記述をせず選んだ言葉で的確な合理を示すので、学生のような面影も漂ったが、おそらく40は越えている。佐々木の知らない「ウド」と呼ばれる案件に関して自称庭師と豪語する「谷底」が触れたことがあり、「案山子」の嘆きに関することだったらしく、「案山子」の書き込みには増長への躊躇いが現れ、それは年齢の若い者の「間」ではなかった。
佐々木は「棒」と自称し、嘆きのカテゴリーはまだ明示していなかった。「案山子」は「クロユリ」と名付けた案件の簡単な説明をした。
ー黒百合の花言葉は「恋」「呪い」または「復讐」。この花言葉が今回の成立を端的に示している。黒百合は石川県の「郷土の花」であり白山が群生地として有名であり、同時に花を咲かし受粉する迄時間がかかることも符合する。金沢市内で1987年に家長が家族を殺害した事件があった。犯行は金属バットおよび包丁が使われている。家長である原田康夫(62)、房子の家に、息子である長男は妻と幼い子を加え二世帯同居しており、事件当時長男は交通事故で休職中だった。原田康夫は犯行理由として、家族の中で疎外され、妻からも見放されたと感じた。長男が暴言を吐いたのを、深夜目が覚めて思い出し、寝ている息子の部屋に行き、金属バットで頭部を殴打した。最初は息子だけと思っていたが、物音に気づいて声を出した息子の嫁をそのまま殴打、叫び声をあげる妻を台所で包丁で刺し、死んだことを確かめてからお湯を沸かしお茶を飲んだ。子供部屋で孫娘が寝ていることに気づき、このままひとり生き残っても可哀相だと、朝方になってから金属バットで殴打し、そのまま午前6時前に、自分で警察に電話をした。15年の禁固刑の実刑を終え、2003年に出所。翌年の2004年隣の家の家族を殺害。これも自分から警察に電話した。この時、佐藤由佳里(55)が、原田康夫と共に殺人幇助で起訴されたが、佐藤由佳里は、1987年当時の、原田の愛人であり、原田の出所まで原田の犯行のあった家で暮らしていた。今回は死刑判決となった。とある出版社が目をつけ、15年間の原田と佐藤の、段ボール箱15個となる往復書簡の出版を予定しているらしい。溜息のでるようなラブレターだという。二度目の犯行理由は、佐藤由佳里が15年の間、近隣から嫌がらせを受け、落書きや村八分にされ、その戦陣を切っていたのが殺害された山岡宗一(77)であったという。妻の和子(75)、長男の悟(51)も、同日殺害された。山岡と原田は小、中学校の同級で、酒を飲む仲だった。ラブレターは、二度目の犯行の裁判時に証拠物件として扱われ、内容が明らかになったが、1995年頃より、佐藤の文面に原田の家族の霊が現れ始め、同時に近隣からの嫌がらせに対する詳細な報告も加わっているが、文面にあるような嫌がらせの事実確認はできていない上、判決後入所した1988年当時、原田の家に住み始めた佐藤を気味悪がる近所の家族はいたが、時間とともに忘れられていったという証言もある。ー
「案山子」は、公務員だった原田が退職後愛人を囲い、おそらく家族にそれが知れたのだろうと続け、問題にすべきなのは、原田康夫ではなく、佐藤由佳里であり、今回長くとも7年以下の実刑であるから、再び社会へ戻ることが予想され、加えて出版される書簡の流通次第によっては、愛の狂気が正当化されることも懸念される。いかがか。というものだった。
自称建築関係の「短冊」は、愛人の存在による第二の犯行を除いた、第一の犯行に普遍性があるかもしれない。と書き、自称神経科医である「るふらん」は、この国に伝統的な愛のエチュードとして、母性に横たわっている気の振れであると書いた。「棒」である佐々木は、「自分が全く同じ状況下にある」と書いた。
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8月 3rd, 2009 § 音 はコメントを受け付けていません § permalink
地に散らばった幾千もの白い抜けた歯を地に臥せた視線で眺めていた。墓場で気づいたか。雹でも降ったのか。まさかこんなにも歯ではないだろう。小石など撒かれてあっただろうか。朧げな昼とも夜ともわからない仄かな光の中で瞼を閉じたつもりだった。腕を伸ばしてひとつを探り掴んだ指先で形を追うと、指先の小さな力で潰れて粉になった。しばらくその粒子を皮膚の間で確かめて、瞼を開けようとするが重怠い眠気が酷くなるようだった。
乗り上げた途端に鈍いゴムの黒い冷徹で圧倒的な重量を、寸前まで張りつめるように堪える白い健気な印象を一瞬に轢き潰す、ドライバーの用心深さを繊細に反映したその弾力は、忍び寄るにじり寄る速度で時々停止し、定規の目盛りを浮かばせるような始まり方で、再び耳元に、みし。みし。と音を響かせた。横を向くような陰惨な人の態度が伴った。
まだ眠りの内側に深く瞼を閉じたまま、身体の在りどころを忘れ、自分の顔の在処もぞんざいに曖昧な感覚で遠いけれど、音はいよいよ明晰に鼓膜から更に奥へと細く尖ってくっきり届き置かれるようだった。
家主の長男の朝帰りかと思って、あのタイヤは太い。聞いてたまげた値段のアルミフレームをまずさきに克明に浮かべていた。自分はいつからこの家に滞在している。訪れた理由は墓参りだったか。排気量の大きな外車ではなかったが金を注いだことを誇らしげに話した長男の口元だけが無声で瞼の中で繰り返され、ああ彼が泊まり客に気を利かせたのだ。忍びよりの速度の解釈を一度決めつければまたそのまま恰好で眠りに戻れるような甘い崩れが広がったまま、ふいにぽっかり瞼を開けた。
見当はずれの団地の自室のソファでうたた寝をしていた午後の日差しがあり、深夜と近づいた闇などどこにもなく、ベランダから鳥のさえずりが聞こえた。ちいちいと鳴く声がミシとならない。一歳になった次女が台所のダイニングテーブルの下にちょこんと静かに座り口元へ手をやっている。寝かしつけたつもりで寝かされてしまい、何があってもおかしくはなかった空白の時間を考えて背筋に痛みが走った。慌てて娘を抱き寄せて、口の中をみると紐のようなものをなめており、取り出すと30センチもある紅白の結び紐だった。
娘を抱いたままミルクを温め腕の中から這いだして一人静かに小さなものを拾い上げる飢えと無邪気の攪拌された時間何事もなく大人しかった娘の瞳の瞳孔が、ごくごくと吸い込むミルクの量に応じて広がっていく。遠くから救急車の音が聞こえ、団地の下を通過してほどなくいったところで停車したようだった。お前でなくてよかったなと、口元に溢れて垂れたミルクを指ですくってなめると安堵の味が広がる気がした。
腹の膨れた娘がウトウト小首を傾げはじめたので木製の赤ん坊の為のベットに寝かせ、時々瞼を開けてこちらを確かめる視線を受ける位置に座って卓上の新聞を引き寄せあてもなく記事を辿った。ドアベルが鳴らされて、近所の方がドアを開け、長女の曲がった自転車を下まで運んでおいたと聞き、ここではじめて長女が車にはねられて救急車で運ばれたことを聞いた。どこの病院に運ばれたか、その人も知らなかった。
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8月 2nd, 2009 § 墓 はコメントを受け付けていません § permalink
知り合いが近郊の法人での退職後の役職を推薦してくれて再就職した夫の誠司は、まさかこんな地方で再び毎日出勤する日々を送るとは思わなかった。妻の優子に、清々しく夕食の後にダイニングテーブルにこれ見とけよとお墓のパンフレットを広げた。
退職を目処にそれまでの稼ぎと貯蓄で10年以上かけて東京の自宅マンションを売り払い、紆余曲折を経て湖畔にログハウスを建て終いの住処と移り住んだ時は、菜園でも呑気にやるとふたりで決めていたが、仕事があればそれはそれで生活の足しになると夫婦は喜び、夫も一度は萎えた勤労意欲を新しい職場の、倹しい収入に見合ったような穏やかな業務に慣れるに従い、車で片道1時間かかる通勤も楽しいよと、小さい動物が飛び出した。役職とは名ばかりで実際はなんでもやるんだ。背広ではなくグレーの作業着も汚れはじめた頃には、職人ってのはいいねと、これまで妻にみせたことのない表情をして、週休二日の休みには、これは失敗だったなとログハウスの片付けと手間のかかる修理や掃除に明け暮れる時間に充足している様子だったが、子のいない夫婦の今後のその先をふと不安に思ったか、墓地を買おうかと夫は言い出した。
田舎での生活の経験のない優子は、建てる前から花の咲き乱れるカントリーハウスを乙女のように夢想して引越ししてきたばかりは、場所に似つかわしくない調度を公道にはみ出るほど誂えて、近隣から顰蹙をかっていたことを後に知った。幾度か冬を身体で過ごしきり、なるほど場所に応じた生活の知恵に則った誂えというものがあると徐々に判るようになり、ログハウスの浮き立ったような生木の隙間の手入れの面倒に、自分たちの無知が晒されていると時間とともに羞恥を覚えるようになった。
近隣には越して来てから4年過ぎてようやく認知されたと実感したのは、町内の祭の実行委員に夫ではなく優子の名があがり、町の年寄り数名が尋ねてお願いしますよと柔らかく依頼され、私にできますかしらと優子は夫の再就職の喜びが、ようやく理解できた時だった。
8月 1st, 2009 § 朝 はコメントを受け付けていません § permalink
四十を過ぎてからやり手だと云われることが恥に思えるようになった。どこをどうすれば効率が良いかわかるようになり、それを身体で示せば評価されたが、怠くなった。新橋の狭いカウンターで自殺した同僚から囁かれて梶田はその時は頷かなかった。肩を叩いて少し休めと云うと、同僚は小さく頷いた翌日から休職し、1ヶ月後に自宅マンションから飛び降りた。家族はいなかった。
五十を過ぎればヒラであってもつまらない確認処理程度の責任を都度押し付けられ、抱える処理の速度は下に任せ、舵取りの安定ばかり上下から要求されるので、肩書きも昇進もいらないと最初から諦めるより無関心を装う態度と、新しい世代引き蘢りのような自己完結を、身なりや仕草に示す所謂一見無能な者こそが、大らかで自由気侭に見えるようになり、昨今流行の禁煙とダイエットを大袈裟に声高に決行し、諄い言い訳を連ねて唾を飛ばす年寄りはなんて醜いのだろう。自分を棚にあげてようやく梶田も実感するようになり、自分は辺境の傍観者なのだ。帰りの電車で雑誌を捲りながら薄笑いを浮かべることが続いた。
案の定リストラの候補リストに名前が挙がったと告知を示され、首にはならなかったが開発から人事の事務処理の窓際へ回され、梶田はむしろほっとしていた。業務の関係で幾分出社の時間も調整できるようになり、斜に構えても早朝出勤と残業をつづけていたこれまでと変わり、帰宅時間も定刻に表情の異なった人種の並ぶ電車に揺られ、夕食も子供達と一緒に妻のつくるものを食べるようになり、息子から誘われて早朝のランニングを始めたが、これは身体がついていかなかったが、せいぜい歩こうと、朝飯の前に近隣をひと回り歩くことをはじめた。そんな梶田の変わり様をみて妻は弁当をつくるようになり、社の昼時に、実は梶田のように愛妻弁当を広げ、ほのかに弛緩したような柔らかい人間がいることを知った。
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8月 1st, 2009 § 母 はコメントを受け付けていません § permalink
いつもよりかなり酒の入った夫は帰るなり玄関に仰向けに寝転がりすぐに鼾をはじめた。礼子は脇に座ってしばらく夫から匂い立つ酒をわざと吸い込むようにした。思えば、母親の姉が後家として嫁いだ家の長男が真面目な警官で。親戚ではあったが血の繋がりはないから是非と縁談を回りから勧められ、礼子も適齢期を逃すかもしれない年齢にさしかかっていたので大阪から出向いた見合いの席では、本当なら男のほうが大阪にくるべきだと内心思った。畏まった年下の長男はまだ青年の小心さを身体と表情に隠さず、礼子も戦地から帰らなかった約束の人をこれで遠くへと置きやることにしようと決めて嫁いだけれど、そもそも互いを知らない内に生活を始め、最初の申し合わせ通り礼子の歳の離れた弟と母との同居ではじめた新婚所帯は、そのはじまりからいかにも都合と都合を無理強いしたちぐはぐに歪んでいた。
戦後のどさくさを十代の頃から愚連隊に加わり、やさぐれることを覚えてから親に厳しく言い渡され仕方なく警官となった夫の孝は、女房など、言うことをきかせる女中程度にしか考えておらず、連れ子ならぬ連れ家族持ちの姉さん女房を同僚がからかう度に腹立たしさが膨れ、最初は隠れた所で意味もなく手をあげ、時間が経てば妻の家族にわかるようにと意地悪さにまみれた。礼子だけでも五月蝿いのに母や弟の俯いたような塩らしさも目障りでひとりで夜の街へ飛び出し、自分の職業を忘れたように酒をあびたが、警邏課での仕事は、短気だが不良を叱りつける度胸もあって真面目だと近隣では評判があり、上司にも可愛がられていた。
礼子は小学校の教師の職に就きながら、家に戻れば母と弟の世話があり、ぶたれてばかりの夫には財布から金を抜かれ、こんな生活をする為に生きているわけじゃない。職場での同僚の日に日にリベラルになる様子と比較して、自分ばかり世の中と逆の方向へ沈んでいく。絶望を黒いものに変えていった。
夫の酒臭い鼾の向こうの玄関の壁にかけてある制服の下の警棒に眼が止まり、ふっと立ち上がり手にしてから夫婦の寝室にあった帯を縛り付け、警棒を両足で踏ん張るように支えて夫の首に帯を巻き一気に力を入れると、何か小さな音がして、夫はあっけなく舌を出し、黒目を瞼の上に巻き込んで動かなくなった。リトマス試験紙のようだわ。紫色から黒々と色の変わる隆の顔を見下ろしてからようやく帯から手を離した。後ろで母親が倒れて泣き崩れた。礼子はようやく片付いたとこの時は、むしろほっとして微笑んで母を見た。あっと言う間の出来事のように思え、こんなにも簡単だったわと母の手を掴んで撫でた。
十四の弟はぐっすり寝ていたので起こさずに、まず泣きはらした母が吊り上がった目つきで、よしよしお前にやらせて悪かったと呟きながらてきぱきと指示をして、女ふたりでは男の遺体をどうしようもできない。月の隠れた暗い庭に引きずり出してから台所にそっと走り戻ってきた時には両手にあるだけの包丁を持ち、ひとつを礼子に渡してなるべく小さく切りなさいと、母から先に躊躇無く隆の首に刃を入れた。長い時間黙りこむような暗闇が徐々に雲間から月明かりが落ち、母と娘の表情がうっすら浮かび、母は娘に押し殺した声で、骨は切らずに関節をと落ち着いた声で伝え、娘ははっきりとわかりました。と答えた。嗅ぎ付けて忍び込んだ野良猫にむかって母はどこかを小さく切って投げた。
切り分けた夫の身体を新聞紙や油紙に包んで紐で縛りながら、礼子は春の日に家族で出かけた花見の時の手料理を朝早くこさえて包んでいた手元を憶い出し、時々蝶々結びをした。その日は包みを柳行李の中に並べ入れ、そのまま倒れ、台所で母親が昔のように忙しなく立ち働いている気配を子供の心地で安堵しつつ深く眠った。母親は金盥にためた血を洗い流し、朝迄寝ずに神経質に雑巾で家の中を拭いて回った。翌日から三日かけて深夜に母と川縁まで幾度か往復し包みを流れにちゃぽんと投げ入れてから家に戻ると、家族3人で旺盛な食欲で白米を炊き、消えた義兄の行方を訝る弟には、どうせどこかで酔っぱらっていると誤摩化して庭の七輪で魚を焼き、日中は母親は掃除ばかりを執拗に続け、娘は夫の失踪を届けてから明るい顔で教室に立っていた。血のメーデー事件から13日過ぎており、職場で礼子は盛んに体制を批判する側についていた。
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