四十を過ぎてからやり手だと云われることが恥に思えるようになった。どこをどうすれば効率が良いかわかるようになり、それを身体で示せば評価されたが、怠くなった。新橋の狭いカウンターで自殺した同僚から囁かれて梶田はその時は頷かなかった。肩を叩いて少し休めと云うと、同僚は小さく頷いた翌日から休職し、1ヶ月後に自宅マンションから飛び降りた。家族はいなかった。
五十を過ぎればヒラであってもつまらない確認処理程度の責任を都度押し付けられ、抱える処理の速度は下に任せ、舵取りの安定ばかり上下から要求されるので、肩書きも昇進もいらないと最初から諦めるより無関心を装う態度と、新しい世代引き蘢りのような自己完結を、身なりや仕草に示す所謂一見無能な者こそが、大らかで自由気侭に見えるようになり、昨今流行の禁煙とダイエットを大袈裟に声高に決行し、諄い言い訳を連ねて唾を飛ばす年寄りはなんて醜いのだろう。自分を棚にあげてようやく梶田も実感するようになり、自分は辺境の傍観者なのだ。帰りの電車で雑誌を捲りながら薄笑いを浮かべることが続いた。
案の定リストラの候補リストに名前が挙がったと告知を示され、首にはならなかったが開発から人事の事務処理の窓際へ回され、梶田はむしろほっとしていた。業務の関係で幾分出社の時間も調整できるようになり、斜に構えても早朝出勤と残業をつづけていたこれまでと変わり、帰宅時間も定刻に表情の異なった人種の並ぶ電車に揺られ、夕食も子供達と一緒に妻のつくるものを食べるようになり、息子から誘われて早朝のランニングを始めたが、これは身体がついていかなかったが、せいぜい歩こうと、朝飯の前に近隣をひと回り歩くことをはじめた。そんな梶田の変わり様をみて妻は弁当をつくるようになり、社の昼時に、実は梶田のように愛妻弁当を広げ、ほのかに弛緩したような柔らかい人間がいることを知った。