いつもよりかなり酒の入った夫は帰るなり玄関に仰向けに寝転がりすぐに鼾をはじめた。礼子は脇に座ってしばらく夫から匂い立つ酒をわざと吸い込むようにした。思えば、母親の姉が後家として嫁いだ家の長男が真面目な警官で。親戚ではあったが血の繋がりはないから是非と縁談を回りから勧められ、礼子も適齢期を逃すかもしれない年齢にさしかかっていたので大阪から出向いた見合いの席では、本当なら男のほうが大阪にくるべきだと内心思った。畏まった年下の長男はまだ青年の小心さを身体と表情に隠さず、礼子も戦地から帰らなかった約束の人をこれで遠くへと置きやることにしようと決めて嫁いだけれど、そもそも互いを知らない内に生活を始め、最初の申し合わせ通り礼子の歳の離れた弟と母との同居ではじめた新婚所帯は、そのはじまりからいかにも都合と都合を無理強いしたちぐはぐに歪んでいた。
戦後のどさくさを十代の頃から愚連隊に加わり、やさぐれることを覚えてから親に厳しく言い渡され仕方なく警官となった夫の孝は、女房など、言うことをきかせる女中程度にしか考えておらず、連れ子ならぬ連れ家族持ちの姉さん女房を同僚がからかう度に腹立たしさが膨れ、最初は隠れた所で意味もなく手をあげ、時間が経てば妻の家族にわかるようにと意地悪さにまみれた。礼子だけでも五月蝿いのに母や弟の俯いたような塩らしさも目障りでひとりで夜の街へ飛び出し、自分の職業を忘れたように酒をあびたが、警邏課での仕事は、短気だが不良を叱りつける度胸もあって真面目だと近隣では評判があり、上司にも可愛がられていた。
礼子は小学校の教師の職に就きながら、家に戻れば母と弟の世話があり、ぶたれてばかりの夫には財布から金を抜かれ、こんな生活をする為に生きているわけじゃない。職場での同僚の日に日にリベラルになる様子と比較して、自分ばかり世の中と逆の方向へ沈んでいく。絶望を黒いものに変えていった。
夫の酒臭い鼾の向こうの玄関の壁にかけてある制服の下の警棒に眼が止まり、ふっと立ち上がり手にしてから夫婦の寝室にあった帯を縛り付け、警棒を両足で踏ん張るように支えて夫の首に帯を巻き一気に力を入れると、何か小さな音がして、夫はあっけなく舌を出し、黒目を瞼の上に巻き込んで動かなくなった。リトマス試験紙のようだわ。紫色から黒々と色の変わる隆の顔を見下ろしてからようやく帯から手を離した。後ろで母親が倒れて泣き崩れた。礼子はようやく片付いたとこの時は、むしろほっとして微笑んで母を見た。あっと言う間の出来事のように思え、こんなにも簡単だったわと母の手を掴んで撫でた。
十四の弟はぐっすり寝ていたので起こさずに、まず泣きはらした母が吊り上がった目つきで、よしよしお前にやらせて悪かったと呟きながらてきぱきと指示をして、女ふたりでは男の遺体をどうしようもできない。月の隠れた暗い庭に引きずり出してから台所にそっと走り戻ってきた時には両手にあるだけの包丁を持ち、ひとつを礼子に渡してなるべく小さく切りなさいと、母から先に躊躇無く隆の首に刃を入れた。長い時間黙りこむような暗闇が徐々に雲間から月明かりが落ち、母と娘の表情がうっすら浮かび、母は娘に押し殺した声で、骨は切らずに関節をと落ち着いた声で伝え、娘ははっきりとわかりました。と答えた。嗅ぎ付けて忍び込んだ野良猫にむかって母はどこかを小さく切って投げた。
切り分けた夫の身体を新聞紙や油紙に包んで紐で縛りながら、礼子は春の日に家族で出かけた花見の時の手料理を朝早くこさえて包んでいた手元を憶い出し、時々蝶々結びをした。その日は包みを柳行李の中に並べ入れ、そのまま倒れ、台所で母親が昔のように忙しなく立ち働いている気配を子供の心地で安堵しつつ深く眠った。母親は金盥にためた血を洗い流し、朝迄寝ずに神経質に雑巾で家の中を拭いて回った。翌日から三日かけて深夜に母と川縁まで幾度か往復し包みを流れにちゃぽんと投げ入れてから家に戻ると、家族3人で旺盛な食欲で白米を炊き、消えた義兄の行方を訝る弟には、どうせどこかで酔っぱらっていると誤摩化して庭の七輪で魚を焼き、日中は母親は掃除ばかりを執拗に続け、娘は夫の失踪を届けてから明るい顔で教室に立っていた。血のメーデー事件から13日過ぎており、職場で礼子は盛んに体制を批判する側についていた。