「案山子」はどうやら法律関係か興信所、もしかすると刑事かもしれない。あまり余計な記述をせず選んだ言葉で的確な合理を示すので、学生のような面影も漂ったが、おそらく40は越えている。佐々木の知らない「ウド」と呼ばれる案件に関して自称庭師と豪語する「谷底」が触れたことがあり、「案山子」の嘆きに関することだったらしく、「案山子」の書き込みには増長への躊躇いが現れ、それは年齢の若い者の「間」ではなかった。
佐々木は「棒」と自称し、嘆きのカテゴリーはまだ明示していなかった。「案山子」は「クロユリ」と名付けた案件の簡単な説明をした。
ー黒百合の花言葉は「恋」「呪い」または「復讐」。この花言葉が今回の成立を端的に示している。黒百合は石川県の「郷土の花」であり白山が群生地として有名であり、同時に花を咲かし受粉する迄時間がかかることも符合する。金沢市内で1987年に家長が家族を殺害した事件があった。犯行は金属バットおよび包丁が使われている。家長である原田康夫(62)、房子の家に、息子である長男は妻と幼い子を加え二世帯同居しており、事件当時長男は交通事故で休職中だった。原田康夫は犯行理由として、家族の中で疎外され、妻からも見放されたと感じた。長男が暴言を吐いたのを、深夜目が覚めて思い出し、寝ている息子の部屋に行き、金属バットで頭部を殴打した。最初は息子だけと思っていたが、物音に気づいて声を出した息子の嫁をそのまま殴打、叫び声をあげる妻を台所で包丁で刺し、死んだことを確かめてからお湯を沸かしお茶を飲んだ。子供部屋で孫娘が寝ていることに気づき、このままひとり生き残っても可哀相だと、朝方になってから金属バットで殴打し、そのまま午前6時前に、自分で警察に電話をした。15年の禁固刑の実刑を終え、2003年に出所。翌年の2004年隣の家の家族を殺害。これも自分から警察に電話した。この時、佐藤由佳里(55)が、原田康夫と共に殺人幇助で起訴されたが、佐藤由佳里は、1987年当時の、原田の愛人であり、原田の出所まで原田の犯行のあった家で暮らしていた。今回は死刑判決となった。とある出版社が目をつけ、15年間の原田と佐藤の、段ボール箱15個となる往復書簡の出版を予定しているらしい。溜息のでるようなラブレターだという。二度目の犯行理由は、佐藤由佳里が15年の間、近隣から嫌がらせを受け、落書きや村八分にされ、その戦陣を切っていたのが殺害された山岡宗一(77)であったという。妻の和子(75)、長男の悟(51)も、同日殺害された。山岡と原田は小、中学校の同級で、酒を飲む仲だった。ラブレターは、二度目の犯行の裁判時に証拠物件として扱われ、内容が明らかになったが、1995年頃より、佐藤の文面に原田の家族の霊が現れ始め、同時に近隣からの嫌がらせに対する詳細な報告も加わっているが、文面にあるような嫌がらせの事実確認はできていない上、判決後入所した1988年当時、原田の家に住み始めた佐藤を気味悪がる近所の家族はいたが、時間とともに忘れられていったという証言もある。ー
「案山子」は、公務員だった原田が退職後愛人を囲い、おそらく家族にそれが知れたのだろうと続け、問題にすべきなのは、原田康夫ではなく、佐藤由佳里であり、今回長くとも7年以下の実刑であるから、再び社会へ戻ることが予想され、加えて出版される書簡の流通次第によっては、愛の狂気が正当化されることも懸念される。いかがか。というものだった。
自称建築関係の「短冊」は、愛人の存在による第二の犯行を除いた、第一の犯行に普遍性があるかもしれない。と書き、自称神経科医である「るふらん」は、この国に伝統的な愛のエチュードとして、母性に横たわっている気の振れであると書いた。「棒」である佐々木は、「自分が全く同じ状況下にある」と書いた。