秋本は、こちらが大したリアクションを返さないのに懲りずに声を掛けてくる。友人とは呼べないが、気さくな同僚の一人として、酒の誘いにも付き合っていた。懇意にしている上司がいるわけでもなく、馴れ合いの女の噂も今はなかった。
秋本が充分準備して薬を呑んだのは、方々に発見当日に配達されたモノで明らかだった。
本田の自宅へ秋本から届いたのは、あちこちから俺の所にも来たよと、いぶかる小さな声が静まってからだったので、この遅れが死者の強い恣意に思え、届いたことを黙ったままにした。
秋本
5月 28th, 2008 § 秋本 はコメントを受け付けていません § permalink
ヤマダ
5月 28th, 2008 § ヤマダ はコメントを受け付けていません § permalink
列車から見える水平な広がりがいつになく妙に心地よいので、そういえば仕事の空間は垂直に幾重も交錯した構造だから、始終顎を上下している。数日前はエレベーターに20分閉じ込められ、見知らぬ男と意味ないなじりあいに発展していた。振り返って目の前を失いそうになり、慌てて窓に額を近づけた。よくみれば田に水が入れられ苗を落とす間際の反射面がひたすら続いている。偶然に田植え前の水平面が空間の広がりを加速させたのだとヤマダは、府に落ちた。
妙な時に呼び出されたと煩く思って断りの電話をすると、相手構わぬ断定的な言葉を短く閉じ、暫く空白を挟む。相変わらずの声の、例の空白に切迫感があって、結局こちらから了解の返事を返していた。
こうした機会がなかったせいで、日々のニヤケタ仕事にじっとりまみれ、思い返すとまる2年、故郷に顔を出していない。ついでというのはうしろめたかったが、先祖の墓参りもしようと決めた。
青木
5月 28th, 2008 § 青木 はコメントを受け付けていません § permalink
最近にしては、早起きして辺りを軽く走り軽めの朝食も旨かったと一日を頗る健やかにはじめている顔つきだったので、青木はその青年がまず珍しく、身なりを下から上へと相手が嫌がるような目付きで眺めてから、全く利己的に無根拠な親しみを持った。
単に健康というのと違うな、年齢は二十代後半だと思うが、赤ん坊のような殻を剥いたばかりのゆで卵な顔をして、奴には刑務所から勤めを終えてシャバに出てきたような晴れやかさがあったよ。
青木は同僚に話す酒の席で後になって振り返った時、鏡に映る自分の表情こそ、罪を犯したもののそれだよと、ひとり呟いていた。
若い男は、コンビニで言いがかりをつけられ、逆に相手の頭にビール瓶を打ち付けて倒し、全治2週間の大怪我をさせ警察で事情聴取を受け、正当防衛だったが手を出したほうの親に訴えられ、事情を知る警察の担当者はそれに同情したが、怪我が頭蓋を割るほどだったので、塩らしくひたすら項垂れていたようだったという。
俺だったらやられるばかりだったろうに。と青木は青年に慰めの言葉をかけたが、慰めというより羨望の気持ちが強かった。青年も思いがけない反応をして、あれで殺していたら、ボクはどうなっていたんでしょうねぇと人ごとのようなことをつぶやいた。
青年は青木の仕事場に勤め始めてまだ一ヶ月も経っていない新米で、他所からの転職と聞いていたが、目立つ性格でもなく、普段は大人しい静かな人間と見ていた。
ペットボトル
5月 26th, 2008 § ペットボトル はコメントを受け付けていません § permalink
男が少し前に空になったリュックを投げ捨てたのは、リュックという道具自体にどこかしがみついている気がしたからだったが、水の入ったペットボトルは手放すことはできなかった。
泥に膝まで埋まり、枝で頬を切り、流れ出た血液は、興奮で凝固していた。それでも男は歩みを止めようとしなかった。
ふいに目の前が明るく開け、円形に樹木が喪失した空間が顕われた。至るところに動物の屍が転がっているのを目にすると、此処が終点であると男は悟り、中央に歩み出て、ペットボトルの残りの水を地面に流し落としてから、ゆっくりと横たわった。
男の眼に
5月 14th, 2008 § 男の眼に はコメントを受け付けていません § permalink
聡の瞳に映ったのは、夜の街でこちらを誘う女の化粧の顔でなく、通学の途中で出会い、何度も隠れてみつめた隣町の女子高校生の清廉さでもなく、風邪に伏して苦しんだ寝床で汗を拭ってくれた母親の優しさでもなく、つまり「女」ではないと思った。
聡は仕送りの学生というのは歴史的に考えてみれば、奇妙な立場だといつも考えていた。彼の屁理屈は、自分は親のペットであり、仕送りという枷に縛られているという結論であり、これはサラリーマンも同じで、生活を支える為に企業利益の手法に従わなくてはいけない労働者にすぎないのであって、突き詰めるとこうした社会が、一方的な仕組みを強要しているように感じるのだった。だが、親からの仕送りを断り、さて文無しになったところで一ヶ月と生きてはいけない。とりあえず勉学の時間を割って、一晩中、ベルトで流れる缶詰の空き缶をみつめる深夜のアルバイトをはじめ、自転車で40分かかる工場まで、ほぼ毎晩通うことをはじめたのだった。
時給は安かったが一晩で一週間の食費に充てられる分を稼ぐ事ができた。他者と交じわる仕事ではなかったので、淡々と独りの行為として持続することで、アルバイトを自分の自由を得る為の行為と位置づけて、友人にも内緒にすることができ、また、仕事による疲労で友人の誘いのほとんどを断って、無駄な出費を避けることもできた。
そもそも何考えずに大学を選び歴史学を専攻し、それなりに卒論も仕上げたが、その学習によって未来は開くわけはないと信じていたし、友人のほとんどは、専攻となるで関係のない方面へ就職を決めていた。卒業まで2年ほど続けたアルバイトで貯金が、月々の仕送りの20倍以上になった。聡はこれまでの仕送りの礼と、今後家には戻らないが心配しないで欲しいと親に短い手紙を書き、アルバイトをやめた。
自分の計画を実行するには、もう少し貯蓄額を増加させる必要があった。東京は生活費が嵩むので、他へ移動し、数年は住居を用意された仕事を探そうと決め一ヶ月ほどあちこちを探した。