7月 6th, 2009 § アカシア はコメントを受け付けていません § permalink
「アカシアの花を見上げる時期には、人が死ぬんだよ。寿命じゃないんだよ。いや、あれも寿命かしらね」
祖母はわたしの手を引いて満開のアカシアの咲く坂道の途中で腰に手をやり溜息をつくように零した。
一度きりのことだった。記憶の底に眠っているような出来事と思っていたが、最近夢に祖母が現れると、やはり坂道を歩いて一緒に白い花を見上げる光景が繰り返された。 マンションは樹木等見えない海沿いにあり、窓からは東京湾が広がるだけだったが、そういえば今頃はアカシアの咲く頃だと、太郎は目をこすって冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを喉を真直ぐに伸ばして腹へ注ぎ込んだ。朝日をあびた自身の影に飲み干した水が染み出すかなと足下を振り返って眺めた。
地下鉄を乗り換えて出勤する社へ、自転車のほうが近いじゃないかと、引っ越し早々グーグルマップをブラウザで眺め、安いロードバイクを注文し、時間的には短縮したが汗を流して濡れたジャージを勤め先で着替える要領を得るまで時間がかかった。慣れて気づけば、同じような出社の形の年上や入社したばかりの新卒もいて、使ったことのなかったロッカールームで別部署の人間とはじめて、仕事抜きの言葉を交わすようになった。
川本は、太郎のロードバイクが10台は買う事ができる高価な輸入ブランドチャリで、多摩川を越え1時間以上ペダルをこいで出社していると地下駐輪所に走り込んできた時にぼそっと話しかけた。はじめはどこか足りない奴だとなめていたが、人事部では優秀な業績をあげていると他から聞き出した。太郎の粗末なロードバイクよりも、同世代のフィジカルなライフスタイルに同調したか、川本は互いの地下鉄通勤を約束させ、狭いカウンターだけが並ぶ場末の店の暖簾をくぐって野菜の肴とサワーばかりの席で、自分のロードバイクの蘊蓄の後唐突に、最近人が死ぬんだよ。と囁いた。
「新聞を賑わすような悪行の尻拭いで自殺するとかいったのっぴきならない理由に支えられているわけじゃない。根拠も無くただふっと死んでしまうようなんだ」
入社する人間の面接の時、そんな雰囲気を持っている人間がいる。書類をみると、何の不備もない。だがどこか存在が透き通っているような白さがあって、それは一見溌剌としている隙間にちらっと見える。映像編集ミスのノイズのようにちらっとね。と川本はつづけた。太郎も今年になって会社の人間が3人死んでいると噂で知っていた。
「逆に影にその人間の体液が染み出して色がついているような人間がいる。お前さんがそうだ。そういう奴は長生きするんだと思うよ」
くくと笑いを堪えるようにしたが、川本の目は手元のグラスを突き抜け静かに遠くに向かって動かない。太郎は、川本から酒に誘われた理由がわかった気がした。
「あなたはいつ鏡をみたの」と尋ねた。
川本は、ポケットから携帯を取り出し、データを繰り出し黙って膝元に差し出した。そこには、腕を伸ばして撮影した川本自身が無表情に撮影されており、川本が画像を送ると、数枚目が白く透き通って腰のあたりに、向こう側のキチンの隠れる筈の蛇口から水が垂れていた。
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7月 5th, 2009 § ピアノ はコメントを受け付けていません § permalink
あたりはこんなにも緑に溢れているのだからベランダには何も置かないことにしようと夫の説明を聞いて寂しい気持がしたが、そのとおりかもしれないと頷いていた。 今まで育てたプランターを実家に送りつけた時は、そうねもうあなたたちはいらないわねと喜ばれ、それが新しい生活への褒め言葉のように受け取っていた。だが、思いがけない巡り合わせで転居した林の中の一軒家での夫婦の生活が、こんなにも短くあっけなく終わるとは誰も考えない。夫の葬儀の後、初枝は一旦実家に戻り、二ヶ月程老齢の母親のつくる食事をして過ごしてから、またこの林の中の家へ帰り、酷く身体の重い日々を送り、駄目だと思った時には、遠くの両親に行けないので来てほしいと無理を言った。三度目に両親が訪れた時は、一回忌が終わって半年が過ぎ、リビングに座ってこの人はどうだと、写真をみせた。一体何を言い出すの。突き返したが両親は写真を玄関に置いていった。
ひとりになって、なぜこんな寂しいところにひとりぼっちにさせたのと、笑う夫の写真の前で幾度も崩れたが、時間の経過があの都会のマンションでも同じことだわ。と諭した。
初枝には盛んにやりとりをする友達がいなかった。怯えたウサギのようだと、ベットの中で夫はそこが好きだよと囁いた。夫も猛々しい人間ではなく、この建て売りの別荘を終の住処にしようとふたりで決めた時、以前から喧噪を逃れてひっそりとふたりだけで暮らす生活を望んでいた。と一度退職して在宅の契約となり実入りも減ったが、初枝に君もやったらどうだと終日仕事を教え、ふたりで端末に向かう仕事をはじめていた。まだ環境に慣れる間もなく、夫はひとりで買い物に出かけた帰り道、自転車と一緒に国道でトラックの脇見運転でひかれた。即死だった。病院に駆けつけるとベットに横たわる夫はどこにも外傷がなく、医師から頭を打ったと思われます。一瞬の出来事で痛みはなかったでしょうと聞いてから、何度も、ねえ起きて。声をかけ続けていた。結婚して12年過ぎていたが子供に恵まれず、仲の良い兄妹のような夫婦だね。数回足を運んだ森のなかの喫茶店の主人が微笑んだ。
初枝はひとりで生活をしたことがなかった。大学の通学も、就職してから夫との結婚まで、両親の実家から通うことができた。一人っ子として大切に育てられ、親が初枝の望むことを批判した憶えがない。夫が好きだと言ったウサギのように、目立たぬよう振る舞い、自分の意見が正しいと率先する性格ではないから、与えられた人生を丁寧に生きようととだけ思っていた。ふいにひとりになり、何回か連れられて診てもらった精神科の医師から鬱ですねと薬を処方され、食事の用意もできない日々が続いたが、ベランダに立つと夫の声が聴こえ、そうよね、プランターは此処には必要ないわね。揺れるような気分が収まった。そしてピアノの前にすわった。
幼かった頃からピアノの習い事をしていた初枝は、音楽で身を立てようなどと思ったことはないが楽譜を初見で弾けるので、夫は中古のスタンドピアノをマンションに置き、週末には必ず楽譜を買ってきて休日の午後カウチに寝そべって何か弾いてよとねだった。誰もいない林の一軒家でピアノを弾いていると、ドアベルが鳴り、初枝をまっすぐにみつめる12,3歳の女の子が、ピアノを教えてくださいと頭を下げた。一ヶ月後には林の中のこの家のドアに、ピアノ教室という小さく書かれた板がノブに下がった。
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7月 4th, 2009 § ヒロタ はコメントを受け付けていません § permalink
昨夜寝入る前になってようやく雨がすっと止み、物音が絶えたような闇夜となった。窓板を持ち上げたが月もなかった。日の出る前の霧の中、泥濘を裸足で川縁まで歩き、石を積み上げた土手の崩れを眺めた。年寄りがこの雨が収まるまで近寄るなと睨んだ眼差しを憶い出し、水の量もまだ多い流れの速い良く知った川に足を入れなかった。そのまま隣村へ繋ぐ山沿いの道の、ヒロタが一年前に滑る足を止めるためにと根気よく枝を敷いた枝道(皆がそう呼ぶようになった)まで駆け上がると、ここも所々壊れ、濁った泥水が道を削りながら枝を幾本も流しさっていた。苦労をしてつくったものが長い雨で簡単に壊されてしまい、残念でココロが苦しいような気持になると、床の中では不安に締め付けられたが、いざそのとおりの様子を目にすると、ヒロタは、今度はどうやって壊れないようにつくろうかと、なんだか嬉しくなるので、不思議だと思った。
村の中央にある井戸端の水たまりで年寄りが転んで腕を折ったと聞いて駆けつけ、随分時間をかけて熱中し、日ごと独りで井戸端に土を盛り岩石を敷き詰めて、溢れた水が外側へ流れ出るように工夫をし、溝を掘って川へ繋げた時も、自分のこの手でひっそりとよろしくなり、年寄りも転ばなくなることが、ヒロタは嬉しかった。隣村の牛飼いの乳を入れる為の器を探して、何日も山を歩き回り、ようやくみつけた空洞の倒れた巨木を引きずり下ろし、たっぷりと白い乳が注がれる大きな器を仕上げた時も、牛飼い以上に喜んだ。
雨漏りから薪、洗濯の足場から煮釜の磨き、植え込みの移動まで、声をかけられれば、座り込んでそれらをみつめ続けゆっくりと手を触れ始める。ヒロタはそれに没頭し、「よりよいかたち」へと仕上げた。時には頼んだ方が、もうやめろとその熱中を心配した。だが、ヒロタは、ただそうすることが嬉しく楽しかった。
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7月 1st, 2009 § 葉 はコメントを受け付けていません § permalink
ふたつの沢を渡り深い谷を越え延々と登った峠近くではじめて歩み走りを止め、大雨の中を来たように汗が流れ出る濡れた身体を地に放り出し痛む腹を抱えて背を丸め何度も大きく激しい呼吸を繰り返した。肩に手をやると切り裂かれた傷の血は固まりかけていた。痛みはなかった。目の前に投げ出した指の間から蜘蛛が皮膚を這い上がり、木漏れ日を避けるように肘から枝へ移るのをただ眺めた。輪郭を失って景色が白む眉間の脈動が、吸い込む大気の効果で弱まるにつれ、血流と鼓動が響き残って膨れた鼓膜は、炎から遠ざけた茶釜のように静まり、徐々に気圧に馴染んでいく。目元を甘い睡魔が襲ったが大きく胸を広げてから頬についた落ち葉を剥がし取り、ゆっくり座り直しそのままの姿勢で耳を澄ました。時間の経過の感覚が失せていた。
脇差しの短刀で額の前と首に張り付いた髪を摘んで切り落とした。
背をもたれた杉の皮を剥ぎ歯の間に押し込んで噛み締め、苦みばしった樹液を吐き捨て、辺りの葉を選び大きなものを傷口に押しあて、他は口に含んだ。腰に下げたウサギの足は途中落としてしまった。竹筒の残りの水を飲み干した。つむじ風が足元から顎へ抜けると立ち上がりはじめて振り返った。語尾の引き延ばされた号令が谷の下より細く響いた。全身の骨に力を漲らせ手の平で肉を叩き、峠の向こうに続く谷をあとふたつは越える。唇を尖らせて大きく大気を吸い込み、音を殺し前のめりに半身を樹々の中へ沈めるようにして再び走りはじめた。走れば走るほど、逃走が誇り高い行為となっていくように、男には思えた。
谷の清流沿いを流れにしたがって走り下ることも考えたが、そのような痕跡を幾つか残し、駆け上る際には、岩をよじ上り足跡を隠した。逃走の距離に応じて知恵が生まれた。枝の間から薄くみえる峯の麓に夜には辿り着きたい。休息をとってから垂直に近い勾配をなんとか登りあがり、中途から東へ抜け、街道の手前で追手の様子を確かめ、路無き路を北上しようと、下りになって走り落ちながら地のかたちの記憶を探った。枝に身体を預け、加速した肉の落下を食い止める度に、手のひらが樹表で切り裂かれ、血で濡れて滑り幾度か転がり落ちた。強か顎を岩に打ちつけたが裾を切り裂き両手に巻き焦りを戒め、危険な垂直な進行を堪え、ひたすら斜めにと速度を落とした。
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