「アカシアの花を見上げる時期には、人が死ぬんだよ。寿命じゃないんだよ。いや、あれも寿命かしらね」
祖母はわたしの手を引いて満開のアカシアの咲く坂道の途中で腰に手をやり溜息をつくように零した。
一度きりのことだった。記憶の底に眠っているような出来事と思っていたが、最近夢に祖母が現れると、やはり坂道を歩いて一緒に白い花を見上げる光景が繰り返された。 マンションは樹木等見えない海沿いにあり、窓からは東京湾が広がるだけだったが、そういえば今頃はアカシアの咲く頃だと、太郎は目をこすって冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを喉を真直ぐに伸ばして腹へ注ぎ込んだ。朝日をあびた自身の影に飲み干した水が染み出すかなと足下を振り返って眺めた。
地下鉄を乗り換えて出勤する社へ、自転車のほうが近いじゃないかと、引っ越し早々グーグルマップをブラウザで眺め、安いロードバイクを注文し、時間的には短縮したが汗を流して濡れたジャージを勤め先で着替える要領を得るまで時間がかかった。慣れて気づけば、同じような出社の形の年上や入社したばかりの新卒もいて、使ったことのなかったロッカールームで別部署の人間とはじめて、仕事抜きの言葉を交わすようになった。
川本は、太郎のロードバイクが10台は買う事ができる高価な輸入ブランドチャリで、多摩川を越え1時間以上ペダルをこいで出社していると地下駐輪所に走り込んできた時にぼそっと話しかけた。はじめはどこか足りない奴だとなめていたが、人事部では優秀な業績をあげていると他から聞き出した。太郎の粗末なロードバイクよりも、同世代のフィジカルなライフスタイルに同調したか、川本は互いの地下鉄通勤を約束させ、狭いカウンターだけが並ぶ場末の店の暖簾をくぐって野菜の肴とサワーばかりの席で、自分のロードバイクの蘊蓄の後唐突に、最近人が死ぬんだよ。と囁いた。
「新聞を賑わすような悪行の尻拭いで自殺するとかいったのっぴきならない理由に支えられているわけじゃない。根拠も無くただふっと死んでしまうようなんだ」
入社する人間の面接の時、そんな雰囲気を持っている人間がいる。書類をみると、何の不備もない。だがどこか存在が透き通っているような白さがあって、それは一見溌剌としている隙間にちらっと見える。映像編集ミスのノイズのようにちらっとね。と川本はつづけた。太郎も今年になって会社の人間が3人死んでいると噂で知っていた。
「逆に影にその人間の体液が染み出して色がついているような人間がいる。お前さんがそうだ。そういう奴は長生きするんだと思うよ」
くくと笑いを堪えるようにしたが、川本の目は手元のグラスを突き抜け静かに遠くに向かって動かない。太郎は、川本から酒に誘われた理由がわかった気がした。
「あなたはいつ鏡をみたの」と尋ねた。
川本は、ポケットから携帯を取り出し、データを繰り出し黙って膝元に差し出した。そこには、腕を伸ばして撮影した川本自身が無表情に撮影されており、川本が画像を送ると、数枚目が白く透き通って腰のあたりに、向こう側のキチンの隠れる筈の蛇口から水が垂れていた。