あたりはこんなにも緑に溢れているのだからベランダには何も置かないことにしようと夫の説明を聞いて寂しい気持がしたが、そのとおりかもしれないと頷いていた。 今まで育てたプランターを実家に送りつけた時は、そうねもうあなたたちはいらないわねと喜ばれ、それが新しい生活への褒め言葉のように受け取っていた。だが、思いがけない巡り合わせで転居した林の中の一軒家での夫婦の生活が、こんなにも短くあっけなく終わるとは誰も考えない。夫の葬儀の後、初枝は一旦実家に戻り、二ヶ月程老齢の母親のつくる食事をして過ごしてから、またこの林の中の家へ帰り、酷く身体の重い日々を送り、駄目だと思った時には、遠くの両親に行けないので来てほしいと無理を言った。三度目に両親が訪れた時は、一回忌が終わって半年が過ぎ、リビングに座ってこの人はどうだと、写真をみせた。一体何を言い出すの。突き返したが両親は写真を玄関に置いていった。
ひとりになって、なぜこんな寂しいところにひとりぼっちにさせたのと、笑う夫の写真の前で幾度も崩れたが、時間の経過があの都会のマンションでも同じことだわ。と諭した。
初枝には盛んにやりとりをする友達がいなかった。怯えたウサギのようだと、ベットの中で夫はそこが好きだよと囁いた。夫も猛々しい人間ではなく、この建て売りの別荘を終の住処にしようとふたりで決めた時、以前から喧噪を逃れてひっそりとふたりだけで暮らす生活を望んでいた。と一度退職して在宅の契約となり実入りも減ったが、初枝に君もやったらどうだと終日仕事を教え、ふたりで端末に向かう仕事をはじめていた。まだ環境に慣れる間もなく、夫はひとりで買い物に出かけた帰り道、自転車と一緒に国道でトラックの脇見運転でひかれた。即死だった。病院に駆けつけるとベットに横たわる夫はどこにも外傷がなく、医師から頭を打ったと思われます。一瞬の出来事で痛みはなかったでしょうと聞いてから、何度も、ねえ起きて。声をかけ続けていた。結婚して12年過ぎていたが子供に恵まれず、仲の良い兄妹のような夫婦だね。数回足を運んだ森のなかの喫茶店の主人が微笑んだ。
初枝はひとりで生活をしたことがなかった。大学の通学も、就職してから夫との結婚まで、両親の実家から通うことができた。一人っ子として大切に育てられ、親が初枝の望むことを批判した憶えがない。夫が好きだと言ったウサギのように、目立たぬよう振る舞い、自分の意見が正しいと率先する性格ではないから、与えられた人生を丁寧に生きようととだけ思っていた。ふいにひとりになり、何回か連れられて診てもらった精神科の医師から鬱ですねと薬を処方され、食事の用意もできない日々が続いたが、ベランダに立つと夫の声が聴こえ、そうよね、プランターは此処には必要ないわね。揺れるような気分が収まった。そしてピアノの前にすわった。
幼かった頃からピアノの習い事をしていた初枝は、音楽で身を立てようなどと思ったことはないが楽譜を初見で弾けるので、夫は中古のスタンドピアノをマンションに置き、週末には必ず楽譜を買ってきて休日の午後カウチに寝そべって何か弾いてよとねだった。誰もいない林の一軒家でピアノを弾いていると、ドアベルが鳴り、初枝をまっすぐにみつめる12,3歳の女の子が、ピアノを教えてくださいと頭を下げた。一ヶ月後には林の中のこの家のドアに、ピアノ教室という小さく書かれた板がノブに下がった。