ふたつの沢を渡り深い谷を越え延々と登った峠近くではじめて歩み走りを止め、大雨の中を来たように汗が流れ出る濡れた身体を地に放り出し痛む腹を抱えて背を丸め何度も大きく激しい呼吸を繰り返した。肩に手をやると切り裂かれた傷の血は固まりかけていた。痛みはなかった。目の前に投げ出した指の間から蜘蛛が皮膚を這い上がり、木漏れ日を避けるように肘から枝へ移るのをただ眺めた。輪郭を失って景色が白む眉間の脈動が、吸い込む大気の効果で弱まるにつれ、血流と鼓動が響き残って膨れた鼓膜は、炎から遠ざけた茶釜のように静まり、徐々に気圧に馴染んでいく。目元を甘い睡魔が襲ったが大きく胸を広げてから頬についた落ち葉を剥がし取り、ゆっくり座り直しそのままの姿勢で耳を澄ました。時間の経過の感覚が失せていた。
脇差しの短刀で額の前と首に張り付いた髪を摘んで切り落とした。
背をもたれた杉の皮を剥ぎ歯の間に押し込んで噛み締め、苦みばしった樹液を吐き捨て、辺りの葉を選び大きなものを傷口に押しあて、他は口に含んだ。腰に下げたウサギの足は途中落としてしまった。竹筒の残りの水を飲み干した。つむじ風が足元から顎へ抜けると立ち上がりはじめて振り返った。語尾の引き延ばされた号令が谷の下より細く響いた。全身の骨に力を漲らせ手の平で肉を叩き、峠の向こうに続く谷をあとふたつは越える。唇を尖らせて大きく大気を吸い込み、音を殺し前のめりに半身を樹々の中へ沈めるようにして再び走りはじめた。走れば走るほど、逃走が誇り高い行為となっていくように、男には思えた。
谷の清流沿いを流れにしたがって走り下ることも考えたが、そのような痕跡を幾つか残し、駆け上る際には、岩をよじ上り足跡を隠した。逃走の距離に応じて知恵が生まれた。枝の間から薄くみえる峯の麓に夜には辿り着きたい。休息をとってから垂直に近い勾配をなんとか登りあがり、中途から東へ抜け、街道の手前で追手の様子を確かめ、路無き路を北上しようと、下りになって走り落ちながら地のかたちの記憶を探った。枝に身体を預け、加速した肉の落下を食い止める度に、手のひらが樹表で切り裂かれ、血で濡れて滑り幾度か転がり落ちた。強か顎を岩に打ちつけたが裾を切り裂き両手に巻き焦りを戒め、危険な垂直な進行を堪え、ひたすら斜めにと速度を落とした。