8月 2nd, 2009 § 墓 はコメントを受け付けていません § permalink

 知り合いが近郊の法人での退職後の役職を推薦してくれて再就職した夫の誠司は、まさかこんな地方で再び毎日出勤する日々を送るとは思わなかった。妻の優子に、清々しく夕食の後にダイニングテーブルにこれ見とけよとお墓のパンフレットを広げた。
 退職を目処にそれまでの稼ぎと貯蓄で10年以上かけて東京の自宅マンションを売り払い、紆余曲折を経て湖畔にログハウスを建て終いの住処と移り住んだ時は、菜園でも呑気にやるとふたりで決めていたが、仕事があればそれはそれで生活の足しになると夫婦は喜び、夫も一度は萎えた勤労意欲を新しい職場の、倹しい収入に見合ったような穏やかな業務に慣れるに従い、車で片道1時間かかる通勤も楽しいよと、小さい動物が飛び出した。役職とは名ばかりで実際はなんでもやるんだ。背広ではなくグレーの作業着も汚れはじめた頃には、職人ってのはいいねと、これまで妻にみせたことのない表情をして、週休二日の休みには、これは失敗だったなとログハウスの片付けと手間のかかる修理や掃除に明け暮れる時間に充足している様子だったが、子のいない夫婦の今後のその先をふと不安に思ったか、墓地を買おうかと夫は言い出した。
 田舎での生活の経験のない優子は、建てる前から花の咲き乱れるカントリーハウスを乙女のように夢想して引越ししてきたばかりは、場所に似つかわしくない調度を公道にはみ出るほど誂えて、近隣から顰蹙をかっていたことを後に知った。幾度か冬を身体で過ごしきり、なるほど場所に応じた生活の知恵に則った誂えというものがあると徐々に判るようになり、ログハウスの浮き立ったような生木の隙間の手入れの面倒に、自分たちの無知が晒されていると時間とともに羞恥を覚えるようになった。
 近隣には越して来てから4年過ぎてようやく認知されたと実感したのは、町内の祭の実行委員に夫ではなく優子の名があがり、町の年寄り数名が尋ねてお願いしますよと柔らかく依頼され、私にできますかしらと優子は夫の再就職の喜びが、ようやく理解できた時だった。

8月 1st, 2009 § 朝 はコメントを受け付けていません § permalink

 四十を過ぎてからやり手だと云われることが恥に思えるようになった。どこをどうすれば効率が良いかわかるようになり、それを身体で示せば評価されたが、怠くなった。新橋の狭いカウンターで自殺した同僚から囁かれて梶田はその時は頷かなかった。肩を叩いて少し休めと云うと、同僚は小さく頷いた翌日から休職し、1ヶ月後に自宅マンションから飛び降りた。家族はいなかった。

 五十を過ぎればヒラであってもつまらない確認処理程度の責任を都度押し付けられ、抱える処理の速度は下に任せ、舵取りの安定ばかり上下から要求されるので、肩書きも昇進もいらないと最初から諦めるより無関心を装う態度と、新しい世代引き蘢りのような自己完結を、身なりや仕草に示す所謂一見無能な者こそが、大らかで自由気侭に見えるようになり、昨今流行の禁煙とダイエットを大袈裟に声高に決行し、諄い言い訳を連ねて唾を飛ばす年寄りはなんて醜いのだろう。自分を棚にあげてようやく梶田も実感するようになり、自分は辺境の傍観者なのだ。帰りの電車で雑誌を捲りながら薄笑いを浮かべることが続いた。

 案の定リストラの候補リストに名前が挙がったと告知を示され、首にはならなかったが開発から人事の事務処理の窓際へ回され、梶田はむしろほっとしていた。業務の関係で幾分出社の時間も調整できるようになり、斜に構えても早朝出勤と残業をつづけていたこれまでと変わり、帰宅時間も定刻に表情の異なった人種の並ぶ電車に揺られ、夕食も子供達と一緒に妻のつくるものを食べるようになり、息子から誘われて早朝のランニングを始めたが、これは身体がついていかなかったが、せいぜい歩こうと、朝飯の前に近隣をひと回り歩くことをはじめた。そんな梶田の変わり様をみて妻は弁当をつくるようになり、社の昼時に、実は梶田のように愛妻弁当を広げ、ほのかに弛緩したような柔らかい人間がいることを知った。

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8月 1st, 2009 § 母 はコメントを受け付けていません § permalink

 いつもよりかなり酒の入った夫は帰るなり玄関に仰向けに寝転がりすぐに鼾をはじめた。礼子は脇に座ってしばらく夫から匂い立つ酒をわざと吸い込むようにした。思えば、母親の姉が後家として嫁いだ家の長男が真面目な警官で。親戚ではあったが血の繋がりはないから是非と縁談を回りから勧められ、礼子も適齢期を逃すかもしれない年齢にさしかかっていたので大阪から出向いた見合いの席では、本当なら男のほうが大阪にくるべきだと内心思った。畏まった年下の長男はまだ青年の小心さを身体と表情に隠さず、礼子も戦地から帰らなかった約束の人をこれで遠くへと置きやることにしようと決めて嫁いだけれど、そもそも互いを知らない内に生活を始め、最初の申し合わせ通り礼子の歳の離れた弟と母との同居ではじめた新婚所帯は、そのはじまりからいかにも都合と都合を無理強いしたちぐはぐに歪んでいた。
 戦後のどさくさを十代の頃から愚連隊に加わり、やさぐれることを覚えてから親に厳しく言い渡され仕方なく警官となった夫の孝は、女房など、言うことをきかせる女中程度にしか考えておらず、連れ子ならぬ連れ家族持ちの姉さん女房を同僚がからかう度に腹立たしさが膨れ、最初は隠れた所で意味もなく手をあげ、時間が経てば妻の家族にわかるようにと意地悪さにまみれた。礼子だけでも五月蝿いのに母や弟の俯いたような塩らしさも目障りでひとりで夜の街へ飛び出し、自分の職業を忘れたように酒をあびたが、警邏課での仕事は、短気だが不良を叱りつける度胸もあって真面目だと近隣では評判があり、上司にも可愛がられていた。
 礼子は小学校の教師の職に就きながら、家に戻れば母と弟の世話があり、ぶたれてばかりの夫には財布から金を抜かれ、こんな生活をする為に生きているわけじゃない。職場での同僚の日に日にリベラルになる様子と比較して、自分ばかり世の中と逆の方向へ沈んでいく。絶望を黒いものに変えていった。
 夫の酒臭い鼾の向こうの玄関の壁にかけてある制服の下の警棒に眼が止まり、ふっと立ち上がり手にしてから夫婦の寝室にあった帯を縛り付け、警棒を両足で踏ん張るように支えて夫の首に帯を巻き一気に力を入れると、何か小さな音がして、夫はあっけなく舌を出し、黒目を瞼の上に巻き込んで動かなくなった。リトマス試験紙のようだわ。紫色から黒々と色の変わる隆の顔を見下ろしてからようやく帯から手を離した。後ろで母親が倒れて泣き崩れた。礼子はようやく片付いたとこの時は、むしろほっとして微笑んで母を見た。あっと言う間の出来事のように思え、こんなにも簡単だったわと母の手を掴んで撫でた。
 十四の弟はぐっすり寝ていたので起こさずに、まず泣きはらした母が吊り上がった目つきで、よしよしお前にやらせて悪かったと呟きながらてきぱきと指示をして、女ふたりでは男の遺体をどうしようもできない。月の隠れた暗い庭に引きずり出してから台所にそっと走り戻ってきた時には両手にあるだけの包丁を持ち、ひとつを礼子に渡してなるべく小さく切りなさいと、母から先に躊躇無く隆の首に刃を入れた。長い時間黙りこむような暗闇が徐々に雲間から月明かりが落ち、母と娘の表情がうっすら浮かび、母は娘に押し殺した声で、骨は切らずに関節をと落ち着いた声で伝え、娘ははっきりとわかりました。と答えた。嗅ぎ付けて忍び込んだ野良猫にむかって母はどこかを小さく切って投げた。

 切り分けた夫の身体を新聞紙や油紙に包んで紐で縛りながら、礼子は春の日に家族で出かけた花見の時の手料理を朝早くこさえて包んでいた手元を憶い出し、時々蝶々結びをした。その日は包みを柳行李の中に並べ入れ、そのまま倒れ、台所で母親が昔のように忙しなく立ち働いている気配を子供の心地で安堵しつつ深く眠った。母親は金盥にためた血を洗い流し、朝迄寝ずに神経質に雑巾で家の中を拭いて回った。翌日から三日かけて深夜に母と川縁まで幾度か往復し包みを流れにちゃぽんと投げ入れてから家に戻ると、家族3人で旺盛な食欲で白米を炊き、消えた義兄の行方を訝る弟には、どうせどこかで酔っぱらっていると誤摩化して庭の七輪で魚を焼き、日中は母親は掃除ばかりを執拗に続け、娘は夫の失踪を届けてから明るい顔で教室に立っていた。血のメーデー事件から13日過ぎており、職場で礼子は盛んに体制を批判する側についていた。

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