「わたしはいかにも善良ですって拡声器を使いながらしかも大声で叫ぶ政治家がいるでしょ。さすがに善良とはいわないか。でも、あなたこそが悪だと、耳を塞ぐたびに思っていたわ。同じようにね、絶対自分が正しいってその正当性を、泣きながら説明していた子がいたのよ。中学の時。あの時も、その子の一番黒い醜いものを眺めている気がした。正義の味方が現れる番組を観ながら、ひひひと薄笑いを浮かべる悪の親玉が出てくるでしょう。可愛いいわと思ったものよ。悪意を薄笑いで表現するなんて有り得ないから。悪い奴ってのは、だからまっとうな真剣さや熱中に浮かび上がるんだと思い込んでいて、ボランティアなんかしている敦子のサークルに誘われると、自分が悪に染まるってよりも、知らずに押し隠していた悪を見えるようにされちゃうわって怖くて断ったのよ。ほんとよ」
いつになく饒舌なユリの言葉は、はじめて聴くような唐突な内容だった。多分、自分が言い出したことが発端となっていると貴司は思いながら、このまま黙って聴こうと決めた。随分長い時間、自分の取り組んでいる一意専心を話したばかりだった。
「人間が善良であるなんてよっぽどじゃないと示せないと思わない?」
ユリがこちらの態度を批判するように顔を向けた。
「君は、悪ってなんだと思うの?」
「傲慢。差別。ひとりよがり。暴力。怒り。いじめ。無関心。う〜ん。悪は世界を滅ぼそうとしているなんて思ってないわよ。むしろより良い世界で長生きしたいんじゃない。悪はまずシニックであることは間違いないと思うわ」
「悪徳って言葉がある。誰かを犠牲にして、騙して得をする商売なんかもそう呼ばれている。でも、よく考えれば、必死になって人を騙している姿を浮かべるとなにか健気だよね。やくざな人が肩で風を切って繁華街を歩くような、暴走族が鉢巻きをして集団で自暴自棄に走り抜ける時代ではなくりつつあるけれど、彼らにはどこか幼気で子ども地味た小心がにじみ出ていたよね。不良と呼ばれたことに得心するよ。良くないだけで悪そのものではない。今はむしろ、家族が離散して誰もサポートしてくれない子育てに気が振れる母親の手元に、空白がぽっかり現れるような時代で、これは悪とは違うかもしれないけれど、そういう不安を言いたいわけ?
車を運転していると後ろから救急車が走ってくる。脇に寄せて停車する。そうした運転手は皆社会に対して善良な行為をしている実感があるはずで、そうした感覚を忘れたくない人もいるよ」
ユリは、紅茶のカップの脇へ前のめりに膝を置き頬杖をして、横を向いたまま、
「そうね。破綻の可能性の問題ね。でも、あなたのその喋り方にも悪が滲んでいるわよ。自分以外に対する放棄のような悪意。何か罪を背負わなきゃいけないかもね。一度落ちてしまって、更正への道だけが善良を示す唯一の方法だとしたら、哀しいけれど、わたしは嫌いじゃないわ」
紅茶の残りに口をつけ、口元だけ微笑んだ。貴司はユリとの結婚がひとつの罪であり落下であるかもしれないと思った。胸のポケットから指輪を取り出した。