後部座席で血が滲み皮膚が深く剥がれた拳を手の平で包み、寝起きのように静まって波紋の絶えた湖面の心で誰も何も教えてくれなかったと呟いて、誰もというのは店の人間でもなければ同席した後輩でもないです。我ながら妙な弁解をしていると思った。
男が隣に座り声をかけた時は手で遮ってお銚子と料理を追加し、これで終いにしようと思っていたが、携帯に着信があり外へ出て契約が取れたと上司から労いの声を聞き、結構長かった交渉の甲斐があったと歓び、誰か呼び出そうかとアドレスをスクロールしながらカウンターに戻った。
お猪口はやめだ。祝いだ。置かれたばかりの銚子からコップに熱い酒を注いで飲み干して、更に酒を追加した。
さきほどの男が、いきなり太股を掴んで、口元を近づけ卑猥なことを口走った。カウンターの向こうに立つ店の男が顔の前に手を合わせてこちらに頭を下げるので、常連の扱いにくい客の一人なのだと理解し、席を移動する旨を伝え、奥のテーブル席に座りなおした。
軽い一人酒で済ます予定を、残業はもういい。呼び出し合流した後輩ふたりと刺身の盛り合わせを頼み、今夜は俺が持つ。焼酎のボトルを頼み、ウイスキーにも手を出した。契約のひとつやふたつと浮き立つほどのことはない。話の流れで後輩のひとりは聞いた事のない社内への愚痴をもらしたが、あざーすと新しい料理を口にしてオフレコでたのみますと笑う程度のことだった。
トイレに立つと先ほどの男が、レジの前の女性客のハンドバッグを手で掴み、酔っぱらった声で陳腐な誘いをしており、店主も柔らかくお客さんやめてよともめていた。行く手を塞がれ、店主が再び頭を下げた。わかったわかったと男は一旦カウンターに引き下がり振り返ってこちらと目が合った。思ったよりも若い男だった。
そのまま洗面所で用を足して手を洗っていると、鏡の中に件の男がぬっと顔を出し、文句があるかと声を投げた。もう帰れと小さく返した。うるせえと手の平で額のあたりを水平に殴られたが、向こうが顔をしかめた。
気づけば、後輩ふたりが両脇で両腕を掴み、頭から醤油でもこぼされたかと濡れたものが左目に流れたので指で拭うと夥しい量の血だった。ぐったりと妙な形に倒れた男の片方の頬骨が陥没し、口から白い泡のようなものと黄色いものを吐き出していた。男の手には小さなナイフが握られていたことを、後輩から後で聞いた。
警察で取り調べを受ける前に、緊急外来にて処置され、胸の下、右腕の内側、後頭部に切傷があり、後頭部は後少し場所が悪ければ危なかったわよと女性医師に言われた。右手の拳は中指の根本に皹が入っているらしい。
先程の店のオーナーかと間違えた刑事に名刺を差し出すと、店長にも話を聞いたが、とにかく相手は重体だとこの時初めて聞いた。正当防衛ってねあなた、TVや映画の話でね。そんなものねえよ。素人が酒呑んでキレるってのが一番始末が悪いんだよ。