老人

6月 30th, 2009 老人 はコメントを受け付けていません

眼を閉じて目の前に座った男が語り始めた。あたりには誰もいなかったが、こちらに向かって話しているようではなかった。だが、時々瞼が開き、茶色の瞳はこちらへ真直ぐに注がれた。

「眩しくて眼を開いていられなかった。騒々しかった。日陰は大きな樹の下だけだ。何人も寄り添って汗を拭いていた。知っていたんだよ。皆口には出さなかったが。こう小さな水筒を回して飲むんだが、嫌な匂いがしていた」

襟元から皺で弛んだ喉元が見えた。男は時々指で自分の耳たぶを揉み解すようにすると、左手の半袖の奥に肩まで連なるような絵柄の蒼い入れ墨がみえた。太い小指の先が内側に曲がっていた。七十は越えている。

「悪さをしたようなヤツはひとりもいなかった。そういう顔をしていた。かわいいもんだ。だが、人を殺して埋めた。出刃で斬りつけると簡単に頬が裂けた。蹴ると目玉が転がり落ちた。そんな言葉がかわいい尖った口元からころころ出てくる。悲惨なもんだ」

ひどくゆっくりとした喋りだった。言葉が割れたまま放置され、結合まで静寂が広がった。かなり年齢を重ねた弱い声だったが、震えはなく、迷いも無い。瞼が閉じられた表情を眺めると、背後からおじいちゃんと小さな孫が肩に抱きつくような温和さも醸している。

「いつも黙り込んで座っているまだ子供の顔をしているカトウに、いつまでだんまりを決めているのかと尋ねたことがある。そんなことをしているとすべて失ってしまうぞと脅した。カトウは俺を見上げて睨みつけ、やはり黙ったまま川の向こうを眺めた。頭の回りの飛ぶハエを手で払っていた」

男は上着を捲り、腹の横の深く食い込んだ弛みの中に走る古傷を広げるようにして、
「牛乳を零すような勢いで血が流れた。そういうところが切れたと後で医者が言っていた。危なかったらしい。カトウが懐に飛び込んで来た時は、腰に構えた光ったものがみえたが、さあやれと思った。これでお前も何か話してくれるなと、ヤツの肩に倒れ込んで囁いたつもりだった。誰のものかわからない輸血をして気づくと、カトウは便所で首をつった後だった。本当かどうかわからないが、後でカトウの血も使ったと聞いた。やつは俺の中でだんまりを続けている」

「みんな若いかわいい顔をしていた」と膝元に零すように呟いて男は、脇に立てかけていた杖を垂直に力を預け立ち上がり、腰を伸ばすような仕草をしてから、
「ヤツの女房も子も孫も俺の腹の中だ」
とつづけながら出口へ向かって歩いた。
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