足音

6月 30th, 2009 足音 はコメントを受け付けていません

透はゆったりとした黒い革のシングルソファに深く腰掛け一度両脇の肘掛けに腕を伸ばした。静かな空調の音と窓の外から子供達の声が小さく聞こえた。腰を浮かせて尻のポケットから財布を取り出し千円札を5枚数えて再び尻にもどした。

電話口から寝ぼけた声がすると軽い安堵が、家族の時に感じる気怠さを伴って耳元から爪先迄緩く流れた。放っておくと一ヶ月何も言ってこない。あなたと違って仕事もあるのよ。愚痴を転がしそうになって、途中で幹子は堪えた。コールしている音を聞きながらどこか食事に行こうと誘うつもりだった。言い訳のひとつを言ってくれてもいいのに透は、電話口で、オツカレと言って唇を閉じたようだった。元気にしている? 尋ねると、ふいに透が休日のデートを誘うので幹子は驚いた。気分が翻って声も明るく頷いて約束の時間に遅れないでね。電話を切り、今のは我ながら可愛い声だったと自分の一瞬の変化を後ろめたく感じた。

待ち合い場所の駅から地下鉄を乗り換え地上に出て、幹子は透の横を歩き、男の背の高さや時々手を繋ぐ指先の感触を懐かしいような心地で歩いた。透の顎の下に髭剃りの傷が小さく血を滲ませていて、今日の為に出がけに鏡に向かって髭を剃る男を浮かべ幹子は母性の気分がそこに加わった。

女に逢えば押し倒したくなる衝動が、いつの間にか家族に似た感触にすり替わる時が増え、お互いをよく知っているような錯覚の時間がそれを満たすように流れた。透は、本人には伝えていなかったが、どこがどうというのではない、幹子の女としての真面目さが好きだった。伝えたとして、それってどういう意味と逆に問われても答えられない。自分でもだらしないと諦めるこんな男に変わらない気持ちを注いでくれる。ただ、いつか所帯を持って子を孕ませるイメージはこれっぽっちも浮かばなかった。友人の披露パーティーにふたりで出かけ、次はお前等だなと指をさされた幹子は照れて俯いたが、透はそれを眺めてどうしようと困惑していた。このままってわけにはいかないか。

ソファで今度は膝を伸ばし踵をフロアーに投げ出して、慣れないローファーの爪先を眺めると、足音が聞こえた。金欠の透が誘ったのは人気の無い季節外れの博物館だったので、幹子のものだと思った。こつこつとゆっくりと壁の向こう側を歩き、暫く立ち止まりまた歩む。壁の向こうには化石や標本が並んでいる。両足を揃えて前のめりに標本に顔を近づけて瞳を大きくしているだろうか。再び足音が逆に遠のいていく。歩みのリズムが女の普段は隠している優しさと感じられた。幹子が気づいて隣に座るまでこうして彼女の足音を静かに聴いていようと透は思った。

大きなガラスの器にホルマリン漬けの生き物や、動物の骨の並ぶこの小さな博物館には、幹子は来たことがなかった。透の部屋の本棚にこうした図鑑の類いが並んでいたので、専攻している学部と違うが彼の夢のようなものかもしれない。ここは透の身体のずっと深くに関係している。どうせ財布の中にはお金などないからという理由で選んだ場所だとしても、透の未来の家の中を歩くような嬉しさが広がった。幹子は黙ってどこかで座って待っている透を焦らすようにゆっくりと歩いた。

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