6月 26th, 2009 幹 はコメントを受け付けていません

チフミは、針葉樹のほうが好きだと思った。樹齢がその表面に現れる広葉の樹々は、大地の血管のように露骨で荒々しく猥褻だと思った。賢司がこんな場所で車を止め、歩こうと誘い出し振り返らずに先を行き太い樹木を見上げる仕草を眺めて、ストレートに唇を奪えばいいのにと、自分のあからさまな気分に慌てた。

転勤を続ける父親の仕事に、母親は顔を顰めたことがなかった。弟も我侭を叫ぶような頑固さは無く、自分も両親に似てどちらかといえばおとなしく黙って目立たないように壁際に立つような所がある。友人達が愚痴の中で漏らす、親が子に対して無理や多くを望むような憶えがまるでなかった。自分は普通か普通以下であり、それに対して家族も何も言わなかったし、家族皆がそうだからと思った。父親は月に一度程度職場仲間と酒を呑み赤い顔をして帰宅する度に、家族に照れて顔を隠すような仕草をした。晩酌などしなかった。休日には子供たちを誘って転勤の度に約束事のようにはじめる狭い庭の家庭菜園を手伝わせた。したくないと断ってもふた親は笑って頷いた。母親も穏やかな人間で、物覚えの悪いあなたに料理を教えることが唯一の楽しみだわと耳元で何度か囁いた。歳の離れた弟の面倒を、小学校の頃から私がやると率先して、それも楽しみのような種類となっていた。弟は両親に似て姉以上に臆病で、気が小さく、姉はそれが愛しいと思った。土地に定着し隣近所と一生を共にする頓着の無い3年程で住処を移動する流浪の家族には、こうした控えめな生活が自然と身についたのだと、チフミは思った。

父親の職場の人間がチフミの家庭に訪れることもなく、母親も新しい環境での近所付き合いはあったものの、道端で数人の主婦が集まってひそひそと話す環の外側に微笑んで立っていた。チフミはそれをみて、用もないのに駆け寄り呼びつけてから家の中で、肩を丸めて笑うと、母親も同じ仕草で答えてくれた。

チフミが産まれてから8回目の転勤で、父親は本社勤めとなり役職にも就き、事務回りのこれも目立たない雑務処理の部長を任され、外回りがめっきりと減り、郊外の建て売りを退職金で支払えるローンを組んで購入し、歩けば30分はかかる坂道を散策気分で楽しむように歩いてみつけたことを食卓で家族にこと細かく報告した。7回目の転勤先からチフミが進学した大学は、ようやく腰を落ち着けた家から電車で通える距離にあり、これは皆が喜んでくれた。

賢司は近寄るチフミを振り返って、この樹はまだこんなに太くなかった頃、何度もよじ登ったよ。と幹を手のひらでパンパンと叩いた。
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