Zelkova

6月 25th, 2009 Zelkova はコメントを受け付けていません

聡子は公園まで迷わず走った。手に握られたものを中央の池に放り投げてから、コンクリートの四角い池の中央まで進んで屈み、震える両手を洗った。日中の熱い陽射しの名残りが水にあった。顔も洗い、そのまま水の中へ座り込んでしまいたくなったが、裸足の裏に感じた池のぬめりに気づき、走り込んだ時と同じ勢いで藤棚の下を抜け、一本の欅の下に幹を背にして足を投げ出した。片足だけ踝までの靴下をしているのはなぜだろう。親指の先が破れ濡れたまま汚れている。素足の方の指先を使ってゆっくり脱ぎすてた。

 暫く放心していたが、夜の大気は濃密なのか、遠くの国道を走る大型車の唸るような音がまっすぐ届く度に内蔵を撫でられるようだと思った。辺りには何も無い広い公園だったが、どこかの家の窓が開けられているせいか、子供の泣く声と、叱りつけるような母親のヒステリックで金属質な声が反響を繰り返し言葉の意味を落とし曖昧な輪郭となって聞こえたが、今の聡子にとっては、TVモニターの中の幸せな遣り取りと同じ甘さで響いた。何かが漏れるような音がする。背中に伝わる幹のかたちに沿って、体重を押し付けるように背を伸ばし、後頭部も預けると顎があがり、身体に刻まれた傷痕のような枝の中夜空に流れる雲が見えた。喉元も伸びたからだろうか、漏れている音は、自分の気管支から吐き出される細い吐息であるとわかったが、他人のもののようにまだきこえていた。
 耳を澄ませば、何も考えずに済むような気がして、そのままの姿勢で物音を待ちながら呼吸を整えようとした。奥歯は噛み締められたままだったが、唇は薄く開かれたまま乾いていた。ゆっくりと硬く縮んだ舌を広げ唇を内側から押し開けるように舐めると、鉄と生魚の味がした。
「今夜はお寿司なんて食べていない」
考えるより先に、言葉が腹から漏れ、同時に池の水のようなものを咳き込むように嘔吐した。
 夜空の雲は形を変えて流されて行くので、欅に乗って空を飛んでいるようだわ。口元を手首で拭いながら同じ姿勢に戻り、瞼は閉じないと強く思った。ふいに幼い頃の誕生日におめでとうと頭を撫でてくれた父親の指の感触と声が、使っていたマフラーを巻かれるように胸から首を温かく圧迫し、閉じないと決めた瞼に映る夜空が歪んで溢れた。

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