目眩ノ光デ憶エテ

5月 8th, 2014 目眩ノ光デ憶エテ はコメントを受け付けていません

 引き戸を後ろ手に閉めると、金属質な籠りの中植物が鼻孔から瞳の奥へ薫り差し瞼が潤んだ。あの頃は流れよりも低かった記憶がある校庭の北側の河原の土手をダンボールで滑り落ち、笹の繁みの中で緑色が滲んだ擦り切れた膝小僧を嗅ぐ身体の形が皮膚の下に弱く広がった。深く吸い込んでから呼吸を整えて目を凝らしたが、日用品の並ぶ店の中にはそれらしいものは見あたらなかった。  
 雨の残りが俄に降って、駆け込むほどではない軽いものだったが肩は皮膚までとどいて濡れた。知らぬうちに身体に染みたのかなと袖口に鼻を近づけると、手の甲に黒いものがぽたんと垂れた。  
 ほんの数分前、互いに驟雨に小さく慌てたのだろう、赤い長髪に隠れた華奢だが固い肩が額に当たり顔を顰め、妙に女性的なコロンの香りが鼻につく使い古されたツナギ姿に身を構えたのだったが、意外に繊細な柔らかい声でスミマセンと頚だけを曲げて頭を下げられ痛みは和らいだ。背丈のある細い身体の背中に石材店が印刷された文字を読んで、走り去る姿に、石というのはつまり墓なんだろうなと印象と認識が揺らぐ一瞬を遊ばせるように空を見上げ、細かい雨の落下に暫らく顎を預け、眉間に焼き栗を乗せたような甘い痺れを丸く放置していた。
 手提げから出したタオルで手の甲、口元を拭ってみると思いのほか赤く汚れ、喉内まで血液の名残りがあって、雨露に薄められ余計に広がったかなりの量が胸にまで落ちている。鼻を啜ってから、でもやはり、この濃厚なミドリイロは近くから流れている。

 
 西側の壁の天井との境の、子供ならば潜ることが出来そうな小作りの、だが足は届きそうにない高みに、校舎とか病棟の風の震えを思い起す木製の枠の、曇りなく研かれているガラス窓が、端から端まで一文字に並び、そのうちの二箇所が下から外に向って斜めに押し開けられ、窓の縁の金属の把手が、雲間から差し込んだ雨上りの陽射しを、鉱物に貫入して潜む結晶の瞬きのような煌めきでこちらへ反射している。そういえば建物の隣には放られたような空き地があった。間近を通り過ぎても気がつかなかった儚い気配を、この建物の小さな二つの窓が吸い込むようにして此処へ届けたということか。血液で濡れた鼻が敏感になったというのも可笑しいが、それをとらえたわけだ。あの若者のコロンもどこかで作用したかもしれない。出来事の連鎖が巧妙な仕掛けのような気もした。

 これまで香りに囚われた記憶はない。匂いに過敏であるような質でもなかったが、錆びた記憶の蓋となったような残り香を、連鎖に促されたのか不器用に手繰っていた。やがてその遠い暗がりから、乳臭い産まれたての存在の、不完全に香ばしい、目を瞑って鼻孔に全身を預け倒錯を誘う体液の絡む兆しを探しあて、まだ幼い頃、牧場で働いていた伯父の去なす為に投げた石ころが放牧牛の眉間に命中し、乾いた音に怯んだ気持ちを棄てるかに、臭い山羊の子を抱き寄せてから徐に突き飛ばした一瞬の放棄、放下、ゲラセンヘイトに取り込まれ、糞尿にまみれた尻の筋肉と泡を吹く家畜の唾液に再び離れて立ち尽くし確かに静かに誘われるようだった感覚の凝固を憶い出す。あの時のぽっかりとした中身が無いけれど果てしない広がりはある気分に今肯いている。  
 ひとつ間違えば招き寄せた過去に蹲ってしまいそうな身体の撓みを堪えて、爪先に力を込め唇を砥めると、舌のざらつきが現在の肉体を論すように動いた。唾液を拭き取った指先を嗅ぐと、胃液が血液と共に含まれている。

 ・・・仕草ハ形ヲ超エル・・・・  
 
 目蓋を指で押さえ、肩を下げるようにして胸の残りを吐き出すと、聞き覚えのない断定が勝手に唇から漏れ、「ひとりごとというのは呪いでしてえ・・」 噺家の嗄れた声がその呟きに重なってきこえた。部屋の中央まで斜めに差し込む昼下がりの曲折した弱い陽が、それでも淡く宙に漂う金属質な埃を点描するように際立たせ、透き通った幾何立体をつくりこちらの踵を切断している。

 ・・校庭ノ柳ノ木ノ脇ノ・・・
 
 自身の半ズボンから曲がってのびた、細い枝のように痩せた太股から脛を憎んで恨めしく眺めた目付きが蘇り、幼い日々の乱暴で些細な約束に芽生えた怯えや、躊躇いや嫌悪が、 砕けたまま足元に繊細に砂鉄のように集まって、光の粒子の前に立ち尽くした放心が、現在を溶かすように新たに喉元に滲み、誘われて顔つきも焦れた歪みに覆われ、封印するように棄てた筈の、沼の底の堆積物に隠した皮蛋みたいな自虐を掘り出して頬張れば、この臭みも美味いじゃないかと過去の怯みに開き直る気持ちが頭を撞げる。

 真昼の薄暗がりに独りで立つといういかにもありふれた機会が、数十年の間無かった筈はないが、高みにある窓を見上げる姿勢と、隙間から溢れる光の呟しさなどの、空間の仕立てが丁度重なることはなかったのかもしれない。ここまで辿った軽い疲労と精神の揺らぎなども助長して眉間の奥が裂け更に状況を整えた。背後速く走り去る車の音が、開けられた窓からステレオの効果で間近に引き戻されるように聞こえると、今は見ることのなくなった、使い込まれていたるところにある凹みや傷に錆の浮いた塗装は簡単に剥がれる、フロントが膨れたデザインの、当時どこにでも使われていたあっけらかんとした青い色のトラックを、蹴飛ばすように運転していた大工見習いの、北の街の方言の残る皹割れた唇の奥の頑強な歯に衝えられビクピク上下するマッチ棒が現れ、二十歳そこそこだった筈の、肉体的には成熟した男の瞬間を切り捨てるような仕草と、隆起しよく動く筋肉を目で追っては、存在の差異に打ちのめされていた幼い性の狼狽えが、マッチ棒に火を点し再び新しい放心を誘う。
 恥と虚勢で「今」を練り上げるしかないのは、お前等も此の身体も全部が間違っているからだと嘯いた日々は、鬱屈しながらも、身近な大人たちがあからさまに指を差して下品だと嫌う者たちのスピードと瞬発力を、密やかに模範として眺め観察することで、時には未来を直線的に楽観し、例えば、朝早く起きて走るなどした思いつきで辛うじて肉体に宿った切ないような疲労をこそ好むことを、脆弱な自身を棄てる端的な手段と決め、そんなことでも続けることで膨れた胸の肉の変化を、弱く倒錯して滑稽な自覚を促す稚拙な勃起と小便臭い自慰へ結んでから、自分の匂いを指に乗せコレガヒトノタネカと噎せては繰り返したが、いつまでも変わらぬ細い骨と拙い歯が邪魔だと肉体への関心を簡単に捨てた決心まで蘇る。躯を横に放置し煙草を肺に充たし生の早送りを諦めた夕暮れを、昨日のことのような映像になりかけたところで、細胞の入れ替わり果てた目蓋の重いような現在があの時とどれほど変わったのか。かすれた呟きがもぞもぞと動き、その裏側で、蒙昧な精神は今でもしっかりと此処に根を張って、肉体の重さが一体何かわからないまま、扱いにも慣れていませんよと、別の声がテロップのように重なって流れる。

 垂らしたままの手首に血液が溜り血管が膨れて重い。骨に引っ掛かった腕時計を回し、顎を上げ、再び窓の細長い光の束に瞳を向け、目蓋の奥の香りの残る鈍い眩みのような痺れに今をそのまま預けた。屋外から流れこむ植物のエッセンスと、徐々に立ち籠める金属の匂いが、空間を微分するような光の介入で麻薬めいた効果を持つとは思えないが、深みに沈んでいた記憶の破片に浮力を与え、得体の知れない恣意を操り、脈絡無い映像を運び、脳裏に併置する。全て受けとめてみせるとスクリーンになったつもりの細い思念で、それぞれの絵の成立を見極めようとするのだが、認識は遅延しズレて定まらない。音声と固有名の欠落したイメージは、出自が掴めずに何処かで借りたままの遠い無縁の印象なのではと訝ると、イメージに鈍いが親しげな後ろめたさが寄り添い、ヒステリックな怒鳴り声が活字となって絵をこの身体の経験だと正当化する。開放されても現在に同化ができそうにない光景が、いかにも「記憶」という所々に色彩が残ったような装いで朽ちて壊れながら、何も完結していない面持ちで顕れる。

 鼻を畷ると虹矧のようなとらえ所の無い凝固した太い糸が喉に流れ細かい咳がでた。眉間の痺れは鼻血と結びつかない。記憶層から何かが流れ出たか。腹のあたりで茶化して流れ出るものなどないと異様に白けると、ふいに不確かな断片の幾つかが一人の少女の輪郭を示した。つまらない意地の張り合いが、少女の頬を平手で打つまでエスカレートして、用具室に独り立ち竦んだのはあの日の午後だったのではないか。頬を叩かれたのは初めてだろう、まずその唐突な出来事に篤いた少女の、三十年は口にしていないチフミと云う名前が唇から零れた。
 張られた頬を両手で被い、泣きもせず然ってこちらを突き抜くような眼差しが浮きあがった。詫びた記憶はない。お前には出来ないだろうとこちらを試されて反射的に手が動いていた。理不尽に歪んだ自らのココロが正確に反復される。居合わせた友らの顔も名前も失っている。周囲とのズレを気質と戒めながら、つまらない事に迎合し、油断すると身体が裂けるように痛んだことが他にもあったが、ひとつが突出すると他は一体どこへ押し返されるのか。記憶の文脈は不鮮明に干涸びている。

 ・・・・・サウザンド、ステップス・・・
 
 自転車で、走る笑顔を追いかけた絵がぼんやり透き通って、少女の動かない瞳に重なる。いつかどこかで許されたと勝手に捏造した我儘かもしれない。少女の赤く腫れた頬は右だったと記憶にあるのも、右利きの自分が左で張ったと後で付け加えた言い逃れのような気がする。またあの笑顔に逢えると都合良く短絡して、幾度か放課後の校庭に通ったが一度きりで叶わなかった。然しこの記憶も、赤い夕暮のベットの上の拙い臆病が形づくったセルロイドのような幻とも考えられる。

 店主がいらっしゃいと声をかけた。

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