小さな岬の先端まで続く路の突き当たりにレストランがあったが、閉められて窓には簀 の子のような板が覆われ、手前に広がる駐車場には薄く雪が積もって足跡も無かった。脇 から岬の下の波打ち際まで岩を削ってつくった細い道を降りると海水で激しく腐食した手 すりのある壊れたコンクリートの階段があり、その下には近場で漁を営む程度の小さな船 がシートに覆われ縛り付け引き上げられてあった。
真上から真っ直ぐに日射しを落とす季 節には大勢が訪れてこの磯で楽しく戯れるに違いない。海面と同じ高さの足場が離れて海 上に突き出た岩まで続き、季節の厳しい乱暴な波が時々覆い被るように白く砕けた。
遠くに穏やかに広がる浜が見え、海水浴場だろうか、人も船なども見あたらなかった。 岬の真下の岩を選ぶようにして歩み、磯を覗き込めるコンクリートに立って振り向くと、 村沢が錆びた手すりを掴んで立ち止まっている。
こんな季節には来たことがないわ
温泉に行こうなんていうから
でもなんだか凄いわね
夏に泳ぎにきたことがあるけど
全く別の場所のようだわ
気をつけて
落ちたら冷たいわよ
海水に手を差し入れて、指先を舐め、一度飛沫を身体に被ると、後ろから叫ぶように村 沢が声をかけた。指を指して、向こうまでいこうと誘ったが、首を横に振った。
海藻などで滑りやすい足場を辿って、下半身を濡らしながら大きな岩まで歩んで、また 海中を覗き込んだ。大陸からの漂流物も浮いて表面は乱暴であったがその中は、透明度が 高く、見てはいけないものまで見えそうな気がした。飛沫と打ち寄せる波の音に隠れるよ うに大勢のどよめきのような、あるいは子供たちの歓声のようなものが聞こえた。
誰も訪れないような場所を探して小さな川を遡ると、橋の下で馬が死んでいた。本当の 記憶か何かのイメージのすり替わりかはっきりとしないが、ひっくり返って膨れた腹を空 に向け四肢を固く上に突っ張って、首がおかしな方向へ曲がっていた。友達は怖がって走 っていったが、こちらはいつまでもみつめていた。死骸を見たことで興奮して更に上流ま で歩き、落雷で裂け中が空洞になった樹を探し当て、その中に入ると足の長い見たことの ないような昆虫が指先を乗り越えて這い出した。此処を秘密の基地にしようぜと振り返る と友達はすでに走り去っていた。短い夕立が落ちて樹の穴にも吹き込むことが判るまで、 帰らずに此処で住んでやると座り込んで思ったものだ。様々な視線を逃れるように誰もい ない場所を探すことを繰り返してきた。
吸い込まれそうな深い青と緑が交錯した海の底に、これまでのこちらの生の根拠が沈ん でいる。頭をゆっくり水の中へ差し入れた。海中で瞼を開いて深く澄んだ海底の沖へと下 る暗がりへ首を捻り、このまま息を止めて眺めることができれば、いつかきっとあの遠い 果てへ歩む白い足が見える気がした。
立ち上がってジャケットの下のシャツで頭を拭き、水平線を眺め、遠くに船舶の影をみ つけたが、此処からの距離というものがまるで掴めない。岩の間に輝いたミドリ色のハン グルの印刷されたガラスの破片を手に取り、ポケットに入れた。
今度はわたしが決めるわよ
この辺には温泉が無いのよ
来た路を戻るか
海岸沿いを西へ走れば
蜃気楼の海へアルプスの土砂を運ぶ川を上りましょう
あら
綺麗な言葉よね
でもあの路は工事中だったかしら
岬の上まで垂直に登って肩で息を吐き、駐車場のエンジンをかけた車の中でロードマッ プを広げて待っていた村沢は、タオルをこちらに渡してからハンドルを回した。濡れた靴 を脱ぎ綿パンツの裾を膝まで捲り上げシートを倒して任せるよと言うと、頭を海に入れた でしょう。凄い格好だったわよ。泳ぐのかしらと思ったわ。見ているほうのことも考えな さい。
カーステレオから流れるホーミーのメドレーを、産み落とされるよりずっと以前に聴い ていた感覚で懐かしく身体に巡らせながら目蓋を閉じた。傍にいると眠くなる女性に惹か れる。何かを想い出そうとしながらハンドルを握る村沢の方に頭を傾けて、惹かれるので はなくて、ただ眠くなるだけかもなと、睫毛のむこうに見える放られたような黒い海を時 々薄く広げた目元で遠く望みながら眠ってしまった。
目を覚ますと、車は停車して隣りには誰もいない。起きあがって周りを眺めると、巨大 な岩の中にいた。ここは何処だと、靴を履き、車の外へ出ると思いがけない寒さに身が竦 んだ。目の前に所々雪に覆われた渓谷があり、巨大な岩の横に座り込んだ村沢をみつけた。近寄って後ろからオレも小便しようかなと声をかけると、そのまま振り返ってひどいわね 宝石を探しているのに。
怒られた。翡翠の貫入した岩が此処から海まで転がって砕け散り、摩耗され加工されたようなかわいい翡翠を砂浜の中拾うことができる。此処はいわばアル プスの裂け目だった。簡単にはみつからないわ。立ち上がった村沢は、驚いたでしょう。 ここは何処だろうって。目の前に垂直に切り立つ岩盤は四、五十メートルはあるだろうか。否ケタが違うか。相対的にそのスケールを理解できない。夏には、クライマーの練習場所 になるのよ。見てるだけで怖い。この岩も大きすぎるから濁流が流れる度に上流へ向かう のよ。下が削られて逆様に進むの。理屈では判るけど印象では狂っているでしょう。何度も来たことがあるのかと聞くと、部屋には鉱物のコレクションがあるわ。水晶の転がる場 所も知ってるのよ。車の時計を見ると3時間は過ぎていた。ここからちょっと行くと秘湯 があるのよ。翡翠を諦めてエンジンをかけた。
運転を代わり、ポケットから磯で拾ったガラスの欠片を、輸入ものの宝石だよと村沢の 手のひらに置くと、アリガトウと素直に受け取るのだった。
「輝キニ導カレヨ」村沢はガラスを光に翳して小さく呟いた。
隣のナビゲーターの指示通り走らせると山襞の中ポツンと湯煙にその輪郭をぼかされた 温泉旅館が見えた。大丈夫だってと走って戻った村沢は車に乗り、そのまま旅館の駐車場 へ移動していった。宿の人間がこちらへどうぞと声をかけたので、荷物も持たずに入った。 車の暖房で岬で濡れて冷えた身体は温められていたが、露天の湯に身を伸ばすと凍った ままだった身体の何かが溶けて流れ出すような心地がした。チェックインには少し早い時 間だったが、取材で訪れたことがあるのだろうか村沢が頼み込んだらしかった。湯の中で そういえば飯を喰っていない凹んだ腹を撫でた。村沢と共に酔って倒れ、部屋で抱き合っ た日から二週が過ぎた週末だった。まだ髪に海水の名残があるような気がして湯舟に頭ま で潜り思い出していた。
あの日の雪は前日のような初々しさの無い硬質な雪で、歩くとキュっと音がした。路面 を擦るような雪掻きの音もしない。このままの気温であれば凍りつく。それを恐れるよう な慌てぶりで、徹底した雪の移動を皆がしていた。工務店の前で跡取りも加わった雪掻き が行われていたので、シャベルを借りて手伝った。工務店の脇にある駐車場に村沢の車が これも雪を被ったまま置かれてあったので、その旨を跡取りに言うと、了承してくれた。 建物から放射状に雪を除いてから、そのまま村沢の車の雪もはらった。
森田の赤い部屋にいくかいと尋ねると、村沢は何処と昨夜のことをよく覚えていなかった。週末だから仕事が休みだが、一緒に警察にはいくわ。でもお昼頃でいいでしょう。と だけいって紫陽花に潜った。部屋に残した彼女の腹の具合を考えて、森田の店で、ついで に湯飲みやら皿やら茶碗やらを買うつもりでいたが、赤い部屋を出て、部屋には戻らずに 駅前まで歩いていた。
赤い部屋は、白熱の小型スポットライトが幾つか壁寄りの天井に取り付けられ、輪郭のはっきりしない楕円が壁に斜めに落ちていた。部屋に本来在るべき柱は現在の壁の裏にあ って見えないのだという。床は畳をとりはずして、フローリングに変えた。家具などは置 かれていない十畳の箱で窓はない。西側にあったものを、これもまた隠した。聞くと安藤 工務店が施工の一切を行って、設計に谷田部が絡んで、それを森田の妻が条件とした。床 と天井はひっくり返しても変わらない深い茶色の同じ色の板が敷きつめられ、壁だけが隙 間のない深紅の壁紙で、厚い光沢のある高価なものらしい。谷田部のプランは最初赤いコ ンクリートとあり、それだけはできないと断った。谷田部が安藤工務店のタカシに要求し た壁紙は、海外から取り寄せた。妻はこのことを無邪気に喜んだ。無論谷田部を最初は信 用していた。若い妻の上等な趣味を誇らしく思ったこともあった。
イベント会場か、スタンドバーにもなるだろう徹底した構成は、個人の家に含まれるも のとしたら些か大袈裟で無理がある。而も、四つの壁全てに、大小様々な森田の妻の作品 がぎっしり飾られてある。小春で聞いた時には、まず趣味の花やら静物などの習作を思った。そうではなくとも、谷田部が教えたのだから構成的な抽象もあるかもしれないと考えた。だがこれほど一貫したどうしようもないような毛糸の端くれの集積とは予想しなかった。大きさの異なる水玉や色違いが画面にびっしり並んでいる。油絵具で描かれていた。 妻は、作品の数だけスポットライトを取り付けるとごねたらしい。谷田部がそれを戒めた。
いっそのこと、入り口を別に作って、画廊にでもしてしまえばと言うと、腰を曲げたよ うな老人がいるばかりのこんな片田舎、誰も来ない。笑われるだけだよ。老人でなくとも、興味は持たないさ。森田は、妻の我儘をきいた後は、随分の出費だが、色っぼい寝室にで もすればいいと高を括っていた。
部屋の改装の青写真を妻がみて、拍車をかけられたように絵を描きだした。何度か谷田 部の柿の木のアトリエで徹夜もしたらしい。彼女は谷田部の信者だった。自分には手伝う 事が無いのでひたすら店を片付けた。若い頃手にした溶接の技術を思い出し、店の棚を堅 牢に繋ぎ続けた。妻がのめり込むのと同じ時間を店に費やした。これまでの切ない食い扶 持さと投げやりだった商売に対する気持ちが変わった。これは妻のおかげともいえる。客 の態度も変わったような気がした。森田は、谷田部と妻が閑孫を持つことはあり得ないの だと、こちらが尋ねる前に説明した。
谷田部は男色家だった。数年前まで二人で住んでいた。周囲には兄弟と言っていたが似 ていない。焼鳥屋で違うだろと聞いたら、あっさり恋人だよと教えてくれた。若い森田の 妻は、それがまた宇宙人のようでたまらなかったらしい。赤い部屋が仕上がってからは、 自ら赤い服を着て作品を並べては外し、また並べていた。それを繰り返してくれるばかり と思っていた。妻が狂っていたとしても、毎日赤い部屋に座っていればそれでよかった。 壁に作品を並べ終えて、姿を消した。
小、中、高校と、此処から車で山を超えた山村で過ごした森田の妻は、卒業して農協あ たりの事務職を地味に働いて、社会も世界もわからぬまま惚れられて森田に嫁ぎ、一緒に 出かけた焼島屋の壁にあった奇妙な絵の虜になった。他の客が罵倒すればするほど、作者 の谷田部が輝いて見え、森田に甘い声で習い事を願い出て、谷田部の排他的な唯物論を叩 き込まれた。わけもわからず絵具やら筆やらを買い込んで、出鱈目を丹念に描く。谷田部 の貸し出す本は読む振りをして放られてあった。とにかく自分の手で毛糸のクズを集め置 くことに没頭した。
店のことなどひとつも手伝わなかったし、近所の寄り合いにも顔を出したことはない。 台所にも立たないので都度怒ったが、怒りながらそういうことに、森田の方が慣れてしま った。何度か遠い場所で行われた展監会やコンクールにも出品したという。そしてすべて 落選していたが、苦にしている風でもなかった。
神経症の女性の作家を浮かべて、こういうかたちもあり得ると言うと、森田はアイツは 駄目だよ才能などない。馬鹿だから。身体は凄かったが。と目元に振れたような濁りのあ る言葉を真下に吐いた。
近付いて作品を眺めると、折り紙を折る無垢で壊れやすい幼児の手つきが見えた気がした。この幼気な指があの壁の痕跡の主なのだと重ねると、手のひらに絵の具を塗って窓よ りの壁にもたれた女の貌が仏像のように含みを持って月明かりに照らされるイメージが流 れた。自らも知りようのない衝動と仕方と性に素直に従ったまでなのかもしれない。唐突 に目覚める凄まじい顕れは誰もが潜在的に持つと考えれば、森田の赤い部屋への改装を許 した事も、愛情というよりそういった事に対する擁護となるが、然し森田当人の認識はそ こまで及ばなかった。そこまで達観する必要はなかった。森田の情愛に答えたのは、女の 怖ろしいような無邪気とも言える。それが何故か羨ましい。
この部屋を巡る全ての人間の固有であることの差異、軋みが、ズレたまま折り重なった。森田の妻は、今頃年相応に同世代の友達と何処かでカラオケなどやっているような気もした。
いつまでも待っているつもりなのか。と森田に尋ねると、戻らないのはわかっている。 この部屋を潰して元に戻そうとも考えた。隣で独りで飯を喰ってから、この部屋に来て座る。ヘンテコな絵を眺めていると、一緒にいる時には気がつかなかったアイツのちょっと した仕草が見えてくる。待つわけではない。残すことにした。妻に逃げられてはじめて連 れ添うことが、所有や保護や理解でないと気づいた。いつまでも自分の理解できないモノ をそのまま真っ直ぐにみつめればよかっただけだ。生半可に眺めていたから、アイツはア タシに悩みを打ち明けることができなかったのだと思う。
駅前から村沢の眠る部屋に戻って、二人で警察に行き、フィルムを渡すと、犯人はまだ だが被害者の身元が分かったと件の刑事が教えてくれた。白い腕の女性は隣りの県の専門 学校の学生で、被害者の父親は私が殺しますから犯人を絶対捕まえろ。此処に連れて来い と署長室に怒鳴り込んだという。あまりの剣幕だったから、厄介な事になるかもしれない ので発見者の村沢のことは告げずにいた。刑事の話に頻りに頷いて黙り込んだ村沢と別れ てから電車で戻り、そのまま柿の木の家まで歩いていた。
ドアをノックすると、あーという返事があり、谷田部が潰れた髪の毛を直しながら顔を 出した。借りていた画集を渡し、コーヒーを奢るからと誘って、駅前の小さな喫茶店に入 った。前日からの事を谷田部に簡単に話し、さっき赤い部屋をみせて貰ってきた。そのま まにしておくって言っていた。と続けてから森田の妻のことを尋ねた。
サッちゃんから
葉書が届いた
いろいろとありがとうございましたってね
煙草ある
置いてきた
欠伸をしながら、ポケットをまさぐる谷田部は、どうでもいいように続けた。
モリタには言わないでくれって
書いてあってさ
多分ヤツの金を少し持って行ったんじゃあないか
可哀想だから黙ってることにしたんだ
絵をを観ただろう
どうだった
谷田部は煙草に噎せて軽く咳をして、半分ほど残ったものを指先で潰して消した。 森田の妻の作品は稚拙だが、あれはあれで反復と持続があれば説得力は持つかも知れな いと答えてから、あの部屋に作品を飾り終えて途方に暮れたんだろうな。夢から醒めたよ うな気分だったかもしれない。結婚もそこに含めて麻疹のようなことだと冷めた。そもそ も自宅にギャラリーを作るなんてあなたの発想だろ。プロならまだわかるけど。夫婦の間 に入り込みすぎたんじゃないかと続けると、黙り込んでテーブルの上の煙草に手を伸ばした。
自分の作品に共感されたことが
はじめてだった
而も教えて欲しいなんて煽てられて
器量も見極めずに
こちらのこれまでの全部を
与えようなんて考えた
途中から引き返せなくなって狼狽えた
午後の仕込みが重怠くなって
鉄のカウンターを作りはじめた
ちょっと今は忙しいから後にしてくれってわけだ
あの赤い壁の部屋が出来上がってからは
もう何も教えることは無いって言ったんだよ そ
れから暫くは独りで描いていたらしい
赤い部屋の壁がもう少しで作品でいっぱいになりますって
一度店に来た
出来たら観にいくよって言ったんだが
居なくなった
ほっとしたよ
そのことを森田には話してあげたほうがいいとだけ言って、喫茶店を出ていた。こちら は数時間前に現在の無為に対して決断をしたばかりだった。赤い部屋を眺めているうちに 見事に反転してこちらのカラッポの部屋に重なった。逆様に似ていると感じたのはいずれ も森田の妻が佇んだ場所であったからとも言えるが、卓袱台を置いたのも研いたのも自ら の意志であった。こちらの意固地な行為は結局「停止」を温存していたに過ぎない。ふた つの部屋に残った森田の妻の思念が、彼女とこちらの仕草の意味合いを結びつけたような 気がした。根拠を顕すために部屋を極端に構築することと、存在を消滅させる為に部屋を 研くことはいずれも同じような哀しみしか運ばない。村沢のような女ができても、あのカラッポの部屋で再び抱くことは何か惨いと思った。出来ない。数日して、そうしたこちら を察知したように村沢から安藤の事務所に電話があり、何処かへ行きましょうと誘ったのだった。
火照ったような身体に浴衣を羽織り、宿の部屋に戻ると、随分と長く入っていたわねと 同じように浴衣を着た村沢が窓際の椅子に座って、ビールを飲んでいた。ずるいなと言って、向かい合って座ると、コップにビールを注いでくれた。何も食べていないねと二人で 同時に声にして静かに笑い合った。窓の外は、雪の積もった白い山肌が迫って、ここは何 処なのと尋ねると、地図を広げるのだった。このあたりには何も無い。旅館も此処だけで、この前の路を進めば、あのブナの原生林の上を通るのよと聞いて少し驚いた。ただし今は 閉鎖されている。路も途中から舗装が途切れ林道のようなものとなるらしい。流石に記者 だけあっていろいろと知っているなと感心すると、独りで勝手に決める旅行が昔から好き で地図やパンフレットを眺めて辿ることは趣味といっていい。今の仕事を選んだのもそう。上司からは睨まれているけど。
フロントに電話して、食事を早めにしてくれと頼んだ。ちょっと仕事が残っていて。す ぐに終わるわ。ノートパソコンを出してキーボードを村沢が打ち始めたので、そのまま独 りで旅館の外に出て、目的もなく辺りを歩いた。道路には雪が無いけれど、辺りは遠くま で白く陽もすでに隠れ、冷え込んだ青い夕暮れが近付いていた。確かに秘境だった。集落 などどこにも無い。この温泉宿の主人の気持ちで、吹雪の中ただ客を待つ夜が浮かんだ。 部屋に戻る前にもう一度風呂に入った。
互いに何も知らないわね
あなたが海を覗き込んでいるのを見たとき
何か嫌な気がした
おかしな言い方だけど
生きてる死人を見てた
瞳の奥がぽっかりとあの世に繋がっていて
とても理解できない貌
そしたら頭が海に消えたから
死ぬかもしれないと思った
車の隣で寝息を立てている時は
錯覚だったと思ったけれど
何処かわからないところをみつめているあなたを
横から眺める度に
同じような気持ちが浮かぶ
私には恋人がいるの
先週の週末は彼と過ごしたわ
真面目で明るい人
どうしてあなたに惹かれるのかわからない
身体も許してしまった
こうしてドライブをしても
デートをしているって気持ちにならない
何処でもいいから
抱いて欲しいと思うだけ
怒らないでね
砂漠とか近くにないのかしら
行ったこともない砂漠の砂に
両足が膝まで埋まっていて動けない
すぐ近くをキャラバンが通るのだけれど
気がついてくれない
ああ 砂漠だからって思う
このまま骨になるんだって
でも怖くないの
そんな夢を見たわ
あなたの部屋で
あの初雪の朝
あなた
きっと 大切な人を失ったんでしょ
長いこと連れ添った者同士が全て曝けだすように抱き合ってから部屋の灯りを消すと、 村沢は天井向かって幾筋も垂直に伸びる植物のような言葉を静かに丁寧に潤ませて立ち上 らせた。聞いたことのないような清明な声だった。
歩む度に過去ばかりが鮮明に甦る。封印して忘却の鍵をした過去は、ただありのままが 美しい。ここ二ヶ月の暮らしでわかったことはそれだけだ。こうした認識に出会いたかっ たんだろうね。封印することをやめるよ。駅前の不動産屋に行って、部屋を出ることを告 げたと続けた。
そんな気がしたわ
あなたは
自分を壊してしまいたいくせに
どこか壊れると簡単に修復してしまうのよ
写真をみてそう思った
ふらっと歩きながら振り向いた時を
素直に撮る写真家がいて好きなの
彼の作品に似ていたわ
誰も居ない
何もこれといった被写体がないから
目つきだけが作品に残っている
でもワタシの好きな写真家の作品は
わがままなんだけど
やんちゃでもっといろいろなことを許している
複雑さや矛盾も豊かな現実として
丁寧に受け入れている
あなたのは水平と垂直が守られて
歪みを棄てたような
哀しい消滅の気配が漂っている
ワタシを撮ったでしょう
あのピントがぼけた写真をみて
ワタシを見たな
抱かれると思ったわ
だから抱かれる前に抱いてやるって
大学では何を専攻したのか尋ねると、教育学部と意外な答えが返った。母親に勧められた。でも教育原理や文部省の指導要領などを知って絶望的な気持ちになってバイトに明け 暮れた。教職を諦めて父親はなんて言ったと聞くと、父親はいない。幼いころに亡くなった。
なんだかあなたの震えに惹きこまれたのね
近頃真剣に孤立する人なんてめずらしいのよ
なあーんちゃって
これで、最後ということになるわね。もう一度抱いてよと言葉を半分溶かして、首に馴 染みかけたような香りの両腕を回してきた。柔らかい腰を抱き寄せながら、あのブナの森で、こうやって同じように身体を合わせた気がする。と首筋に囁いた。暗闇の皮膚と髪の 間に、白い寄生植物が見えた。
雪の日 2
12月 30th, 2009 雪の日 2 はコメントを受け付けていません