雪の日 1

12月 15th, 2009 雪の日 1 はコメントを受け付けていません

 結露の凍った窓からは街が消えたようにみえた。
一切が白く変わっていた。初雪にして は多いと雪掻きをする安藤工務店の若い男に、足元を注意されて歩きはじめた。突然の変化に街全体が慌てて、小刻みに震える様子を想像したが、この街の通勤通学の人間の歩みは落ち着いて、乱れることなくむしろ楽しむように踵を滑らせたりしている。だから尚更、 表面を薄く隠されて静まり返った朝の街は、本来の姿を顕わしたような錯覚を生んだ。
 走る車もスピードを抑制し、穏やかにゆっくり走る。規制され、音もなく走る車のスタット レスは、粉塵は生まないが、路を圧縮して氷のように固める。それを溶かす為の薬品で車 が随分傷むのだと、郷里が東北の同僚に北の街の生活を聞いことがある。スパイクをはじ めて履いた時は、鬼に金棒と思っていたとしたら、製品開発も拙いものだなと笑うと、同僚は、否、柔らかいタイヤを基準に考えたアスファルトってヤツが問題だよ。自明なもの となってるのがおかしい。逆様を繰り返した酒の席だった。現在に変わる素材を考えたら 大金持ちだとくだらない会話の中に新しく認識が翻ることが何度もあって、彼と呑む酒は 旨かった。
 界隈の雑音も雪に吸い込まれ、至る所で行われている雪掻きの音が歩道の両脇から重なった。一晩の吐息が窓を凍らせる自らの代謝の旺盛さに舌を巻き、でも流石に暖房は必要だ。簡単なストーブが置かれているような気がした森田商店へと歩いた。
 雪はまだちらついて、空と地との境が白くぼけて判然としない。路傍の塀に積もった雪 を手のひらに乗せると簡単に水に変わるシャーベット状の初雪だったが、目の前に吐き出 される吐息は白い玉となった。幼い頃は雪が積もるとチェーンを履いた車がアスファルト をジャラジャラと削り、根雪となって残された道端の雪はアスファルトの粉末を被って薄 汚く、野良犬もいて、知らずに踏んだ犬の糞を白い地面に擦りつけて歩いた足跡が続いて いた。雪に隠れた犬の糞を避けるように登校し、間違って踏みつけると周りがわっと逃げた。  
 積雪の量も違った。まだ舗装されていない坂道で曲げただけの竹に乗って滑り、白い 田畑にも子供の遊んだスキーの跡が幾筋も残っていた。谷間の山村で年上に乱暴に抱えられ、 鼻水を横に吹き出し坂をソリで滑り落ちたこともある。雪玉を手のひらで固い氷にま るめてぶつけ合う帰り道に、家々の煙突から立ち上る白い煙を眺めて口を開け、降り続け る雪を含んでから、暗くなるまで雪の家をつくっていた。  
 この雪の、空が地面に降りてきたような香りが、歩むごとに幾つかの冬を思い出させた。 
 森田商店の主人も雪掻きをしていた。用件を言うと、店の中にストーブがあるから待っ ていてくださいと、手を休めずに答えた。売り物のことではなかった。
 コンクリートの床には、こんな雪の日も水が撒いてある。以前と同じように窓が開けられ、一日のはじまり の為の換気を兼ねて、清められたように埃もない。雪掻きのシャベルがまとめて入り口の隅に立て掛けられ、棚の商品も所々入れ替えられ冬支度に備えている。ストーブなどあったかしらと探してみたが、棚には無かった。
 取り付けたばかりのような煙突の繋がったス トーブに近寄り手をかざし、冷えた指先を温めて待つことにした。  
 ガラスの敷かれた鉄骨のテーブルには、主人のものとしたら似合うとは思えない赤い毛 糸のマフラーが置かれ、障子は少し開いて、向こうの畳敷きの居間がそこから見え、人の 寄りついた跡の無い炬燵があった。  
 ノブのあるドアが開き、長い息を吐き長靴の雪を床に踏み落として主人が入ってきた。 お待たせしました。降りましたね。と手袋を外してストーブに近より、でもまあ、昼過 ぎには融けますよ。と続けた。石油ストーブでいいですか。それとも電気ストーブ。うち には、電気ストーブは置いていない。あれは向こうの電気屋にある。こちらへどうぞ。返 事も聞かずに居間へ上がった。言われるままに靴を脱ぎ、畳に立つと、更に奥へと歩かされ、 廊下を通って突き当たりの部屋へ連れていかされた。ダンボール箱に仕舞われた幾つ かの石油ストーブが重ねられてあり、どれにしますかと尋ねられた。新製品じゃないんです。 古いのは五、六年前のものもある。そろそろ店に並べようと思っていたら、雪が降った。 迷わずアラジンにした。店に石綿が置かれてあったし、昔から形に馴染んでいる。学生の頃先輩の引っ越しの手伝いで貰ったものと同じかたちだった。
 
 簡単に決めて、店に戻 る際、居間と廊下を隔てて向き合う部屋の少し開いドアから、真っ赤な壁の部屋が見えた。 変でしょう。とアラジンの入った箱を持った主人が肩越しに耳元へ小さく呟いた。指に魘され痕跡を探すデジャ・ビュが起きた。 
 主人は車で運びますと申し出てくれたが、なんとか持って運ぶことのできる重さであったので、丁寧に断り、まだ早い朝の白い路を部屋へとス トーブを担いで歩いた。
 
 石油だったら配達 しますので電話下さいと付け加えられ、ポリタンクも必要だ。もう一度往復することを決めていたが、部屋の入り口に戻ると見知らぬ男が二人立って待っていた。 
 警察手帳を懐から出した一人が、エー出版の村沢かおりさんはご存じですかと唐突に尋 ねた。ブナの原生林で会った女性であるとすぐに理解したが、ハイと答えると、事件があ って彼女も来ているのでちょっと署まで同行して頂きたい。少しお話を聞きたいと言う。 ドラマで観るような老練な控えめにルーキーといった組み合わせでなく、二人ともまだ背 広が身体に馴染んでいない若い刑事で、言葉や態度の節々に腕っ節の弱さを隠すような無 邪気がある。  
 説明は署で聞いてほしいと、まるで内容など聞かされていないような口振りがアルバイ トのように感じる。赤い髪であってもいいような気がした。
 肯いてアラジンを部屋に置き、 何も考えずそのまま彼らの車に乗った。  
 地図を購入した書店から歩ける距離の、本署だろう警察署の刑事課と示された部屋に入ると、職員に混ざって、ブナ原生林で会った女性 をみつけ、頭を下げた。
 隣りに座ると、先日はどうもと小さく挨拶をされたがその声にあの時の明るさはない。彼女自体が事件に巻き込まれているわけではなかった。ジャケットを羽織っただけのパチプロ師のような刑事が、お忙しい所、わざわざ来て頂いて申し訳ありません。ブナ原生林で彼女と会ったことを確認し、当日の行動と目的などを聞いてから 一枚の写真を出した。これは村沢さんが撮影したもので、あなたと会う直前のものだと聞 きました。
 写真には赤いペンで丸く印がされてあり、あの水芭蕉の湿地であることがわか った。丸印をよくみると湿地から突き出た白い枝のようなものがある。人間の腕だとわか った。やはり頭ではなかった。とすれ違った記憶が巡った。  
 続けて見た鑑識が撮影したらしい間近からの数枚の写真には、水に沈んだ身体も克明に 写っていて、死後随分経過しているらしい腐乱があった。  
 あんた見なかったのね。これを。あそこで。と馴れ馴れしい言葉に頷くと、あっそう。 とそれで済んだ。  
 どうやら彼女は、まず真っ先に現場で出会い同行した人間を疑った。自分の撮影した写 真を調べてい?節る際、怖ろしいものをみつけて、その指の開かれたような白い腕と、こちら の素足を重ねたと言う。ハンカチーフは凶行の時の物証だと決めて報告した。
 ビニール袋 に入って写真の横に並べてある。その写真をワタシが撮影していたら、同じことを考えた でしょう。そう言うと、違いますって早く聞きたかった。と女は緊張をやや解したように ようやくこちらを向いた。  
 検屍報告によると、我々の訪れた日よりも数日前に息を引き取っており、運ばれ放置さ れたと警察はみている。調べればこちらにも、勿論彼女にも関係が無いことは明白だった が、発見した者が、怯えて全てを疑うのも無理はない。被害者はまだ若い二十そこそこの 女性だという。首に絞められたらしい跡があり、外傷は他になかった。結局、指紋なども 採取された。こちらには動機はないし、白い腕の身元はまだわからない。行方不明者のリ ストを片っ端から当たっているという。レンタカーは既に調べられていた。林の入り口で 出会った背広とヒールの二人連れのことを話して、三十分ほどで取り調べから解放された が、こちらのカメラのフィルムがみたいので、後日持って来ていただきたいと注文を受け、 村沢と一緒に放免された。
 そういことは部屋の入り口で言ってほしい。あの二人ではそう いったことは気がつかない。お送りしますといわれたが、女に合図を送られて断り、二人で近くの喫茶店に入った。  
 疑いました  
 住所なんて教えたかしらと尋ねると、警察が バーベキューの家族を捜して聞き出したんじゃない。家族は犯人と食事をしたと思ってい る。違うって電話をしなくちゃと笑った。 あなたも怖かっただろうね。村沢はかなりねと拗ねるように口を尖らせた。あの時の事を あれこれ話ながら、いつの間にか村沢の探偵のような眼差しを懐かしいような心地で眺めていた。  
 明日にでもフィルムを警察に持ってくるというと、その前に、そちらの写真に何か映っ ているかもしれない。あなたはカメラを構えなかったような気がするけど、わからないわ。 見てみたい。そう言うので、何度かはクシャミのようにシャッターを無意識に押していた かと朧気な記憶を辿った。彼女の車で部屋に戻り、ブナ原生林の時のフィルムを探すこと にした。仕事はいいのかと尋ねると、これでも記者よ。デスクに犯人らしき人物と一緒と メールしておいたから。と平気な顔をしてハンドルを握った。
 部屋への階段を昇り始めた 時、一体どうしました。刑事が来たでしょう。下から跡取りに声をかけられた。簡単に説明すると、よかったアンタが何か怖ろしいことやったと思っ ていた。と臆面もない感想を投げられた。
 村沢は、一度は皆さん疑うみたいね。と笑った。 石油の無いことに気づき、跡取りに頼むと、任せろと、探偵の同僚になったような弾んだ 声で、階段を駆け下りた。アラジンを箱から出して、跡取りが持ってきた灯油をストーブ に注ぐまで、村沢は卓袱台に正座をしてこちらの仕草をみていた。
 何もないんですね  
 ずっとここでお暮らしなんですか
 
 ライターで火を点けると、村沢は小さく尋ねた。越 してきて一ヶ月くらいかな。ストーブを今朝買ったところです。と答え、押入からフィルム の入った箱を出し卓袱台に置いた。 幾つかは現像とプリントをカメラ屋に出してあったが、ブナ原生林の時は、一眼レフにポ ジフィルムを入れたと覚えていた。スリーブ状のポジフィルムを幾つか探すと、バーベキ ューを?節食べる人間や料理が映ったものをみつけた。まだマウントしていない。プロジェク ターで眺めていなかった。村沢はみせてとそのフィルムを光に翳した。 
 ああ 美味しそう  
 ワタシも残ればよかった  
 これはワタシね
 
 ルーペありますか 
 プロジェクターはあるけれど  夜じゃないと
 何枚か林が映っているわ
 と囁くように呟いて、こちらにフィルムを渡した。振り返った村沢のバストアップの前の三カットのひとつが、件の湿地だった。腕は見あたらない。 シャッターを押した記憶が全くないと首を傾げると、ワタシが映っているのをプリントして下さらない。首を回して女の顔を見ると、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳が、すぐ傍にあった。この瞳見覚えがある。  
 警察から返してもらったらあなたのをプリントするよと、 真っ直ぐに伸びた女の瞳に返 事を返した。  
 この辺りを歩いて写真を撮っているのね。お仕事なの。箱に入っている他のフィルムや コンタクトプリントを取り出しながら、こちらの日々の記録を眺めはじめた。何でも答え てやろうと決め、例の地図を広げた。  
 湯が湧かせないんだ。コーヒーでも買ってくる。地図を眺めたまま肯く女の背をみてか ら、外に出た。雪はとうに止んで、昼近い時間となり、森田商店の主人が言った通り、路 上の雪の大方は消えている。ストーブがあるじゃないか。コインランドリーの横の自動販 売機で気がついたが、女が帰ってからにしようと決めた。  
 部屋に戻ると、村沢は窓際に立ってマウントしたフィルムを左手に重ね、右手で静かに 覗き込んでいた。今日からストーブがあるから、湯が沸かせる。後で薬缶を買ってこよう と思っている。  
 すらすらと決心を告白するみたいな言葉が、気怠い反復感を伴って口から零れた。缶コ ーヒーを卓袱台に置き、どうぞと言うと、ありがとうございます。と窓から卓袱台へと戻 って膝を崩して座った。甘い化粧の匂いの奥で女の髪が弱く香った。
   
 この汚れはあなたが歩いた跡ね  
 電話も無いのね  
 冷蔵庫も無い  
 テレビも無い  
 コンロも無い  
 カーテンも無い 
 弱く茶化すように呟いてコーヒーを飲む女を、じっとみつめていた。 やがてなんとなく壁に残っていた指の跡の話をはじめていた。あそこなの。と指差す女は、 聞き終えてから、フーンと鼻で答え卓袱台に頬杖をした。指の主がワタシだったらどうす る。何をしていたって尋ねるのかしら。とぼんやり囁いた。眠気が降りてくる。窓の結露 は融けて、幾筋も真っ直ぐに垂れていた。焼鳥屋の作品みたいだと思った。  
 理由なんてどうでもいいかもしれないなと答えて、このまま女の横で眠りたいと思った。
 ごちそうさま 明日 警察に何時にいきますか?  
 そうだ 連絡ください 
 
 携帯の番号を書いた手帳を破って卓袱台に置き、村沢は立ち上 がった。なにか夢だったような気がするわ。と買い物にでも出かけるような気楽さのある声を残してドアを締めて出て行った。  
 昼飯を喰う気持ちが萎えたまま、再び森田商店まで歩いた。すっかり青空が広がり、屋 根に少し残るものを除いて、雪は全て消えている。女が帰ってから、妙に気怠い眠気が降 りて、そのまま布団も敷かず眠ってしまった。ストーブで床も暖かかった。工務店に顔を 出し、灯油の礼を言うと、事件のあれこれをまた尋ねられたが、今日の夕刊にでも載るか も知れないとだけ言って逃げた。  
 障子の閉まった店で、薬缶と灯油のポリタンクを買い、ポリタンクは石油を入れて運ん で頂きたいとこちらの部屋の住所を言って頼むと、配達は夕方になりますがよろしいです か。と主人は一瞬躊躇してから答えた。薬缶をぶら下げて歩きながら、森田商店の主人は、 赤い部屋のことを気にしているのかな。と呑気に考えた。
 陽も短くなり、朝からいろいろとあって、探索の時間はない。夕方森田が灯油を運んで 来る前に、早々と済まそうと銭湯の暖簾を割った。大抵蕎麦屋での夕食の前に済ましてい たが、午後四時の開業と同時に服を脱ぐのははじめてだった。湯に浸かる人影は疎らで、 湯船には夕方の西日が少し残っていた。日の出の湯というこの銭湯は、火の車と最初は思 ったが、固定の客は必ずいるようで、高齢者も多い土地柄もあり、勿論自宅には風呂があ るけれども、こちらのほうが気が楽だと、息子夫婦を愚痴る、わざわざ足を運ぶ人間で、 採算はとれているらしい。終始憮然と番台でテレビを見ている女将は、焼鳥屋は嫌ってい るが、湯船から脱衣場の散らかりを一人でこまめに動いて片付けている様子が度々眺めら れ、大して広くない湯もタイルも清潔に研かれ、客を待つ支度がいつもきちんと済み、脱 衣籠の幾つかは丁寧に修理されていた。旦那と交替でクリーニングの店と番台をやり繰り している。愛想のよくない性格は、むしろこういった仕事に適切であると思われた。
  頭から湯をかけ熱い湯に沈むと、湯煙の中に覚えのある顔があった。早いな仕事は仕舞ったか。としゃがれた声は、焼鳥屋で腕の傷をみせた老人のものだった。初雪はこうも早く消えますか。と返すと、今年は遅かったから多かった。と顔を両腕で拭った。すぐまた降るよ。湯から出た老人の背には黒々とした牡丹の刺青があった。藍色が熱で赤く火照る とああいう色になるのかもしれない。両肩から尻までとは見事だ、あの時は気がつかなっ たなと、鉄のカウンターを思い出した。他に客がいなかったこともあり、なんとなく老人 の横に座り、洗いましょうと背中に回って、タオルで刺青の形に添うように石鹸を擦り込 んだ。老人は、ほら、と今度はこちらの背に回り、結構強くタオルを上下して、ペンと肩 を叩いた。軽い我慢比べのように湯に浸かってから、互いに笑みを零した。  
 老人は素っ裸で湯上がりの脱衣場で腰に手をあて牛乳を飲み干し、身体に馴染んだ厚手 の大島を臍の下で帯をしめて形を整え半纏を羽織ってから、季節と無縁な雪駄を素足にひ っかけ、片手を挙げて、お先にと暖簾をくぐっていった。膝の膨らんだスエットにダウン のこちらを、脱衣場の大きな鏡で眺めると無性に恥ずかしかった。  
 乾いた喉をビールで潤そうと、焼鳥屋へ風呂桶を持ったまま歩くと、先程の老人が、向 かい側の別の店の前で手招きしている。焼鳥屋がこっちをみて、あっちへ行けと手で払っ た。老人に用事あるかい。と声をかけられて、誘われるまま小春という小料理の店の暖簾 をわけた。
 入り口にはふたつ大きく塩が盛られ、床は玉砂利が敷かれた、これまたカウン ターしかない店だったが、隅に置かれた菊が出所のよさそうな器に丁寧にに飾られてあった。奥には禿げ上がった板前が俯いたまま手先を動かしていた。  
 お久しぶり  
 めずらしいわね  
 お連れがいるなんて      
 五十そこそこだろうか丸顔の、渋い枯葉色の中シクラメンが鮮やかな和服の女が、柔ら かく椅子へと二人を促した。老人は熱燗を頼み、こちらをみるのでビールを注文した。今 日は美味しい鮟肝があるの。表面に霜の降りた指が張り付く冷えたグラスで撓んだ喉に冷 たい金属を流す感覚でビールを飲み干した。二杯目を自分で注ぎ再び一気にグラスを空け ると、お風呂上がりは格別よね。と今度はママが酌をしてくれた。   
 人に背中を洗って貰うなんて  
 随分と久しぶりで 
 誘っちまった  
 モンモンも今じゃ珍しくないか  
 近くかい
 部屋のある建物を言うと、ああタカシんとこか。東京から来たのか。袖を押さえ熱燗を老人の前に差し出したママに向かって、老人は呟くような声を転がし、最初はママからの酌を受け、杯を空けてから手酌でゆっくり酒を注いだ。お通しの塩辛には手をつけず、鮟 肝を紅葉おろしで口にして、静かに一合徳利を空け、湯上がりと違った赤味を首筋に顕わ した。  
 ビールの中瓶を空けて、ママに泡盛を頼むと、古酒よと冷やしたものを別のグラスに入 れてくれた。時間が早いので、まだ仕込みを終えていないのだろう板前は、額に汗をほん のり浮かばせていた。老人が無理矢理店を開けさせたかもしれなかった。老人を十分に承 知して余計を挟まぬように、ママは時々酌をして、旦那とは思えない禿げてはいるがまだ 若い板前に二言ほど小さく添えて狭いカウンターを流れるように動いた。こちらは、骨ま で染みるとこぼしたかもしれない。  
 
 泡盛の古酒は濃厚で、気がつけば枝豆と塩辛と鮟肝の皿には何も残っていない。古酒を 煽る度に空腹感がつのった。そういえば朝から何も口にしていない。お茶漬け貰おうかな と、腹を空かした青年のような乱れに老人は黙って自身の皿をこちらへ押し寄せた。独り 者か。嫁さんが待ってる喰い方じゃねえな。こちらになど一切関心が無さそうな寡黙な晩 酌の隣はひどく心地よかった。帰省の度に父親と酌み交わした懐かしいような甘えが膨れ るのだった。ヤクザなんですか。焼鳥屋ではわからなかった。
 迂闊な言葉がぼろっと零れた。 このおじいちゃん石屋さんよ。 堅気の人なのよ。   もしかしたら、有坂石材店。ともう古くなったような記憶を探って言葉を当て嵌める と、失礼なヤロウだな。そうだ。なんで知っている。と即座に返すので、この街に来た際に、 そこの若者とぶつかって、鼻血を垂らしたことを話した。ああゲンタだ。女みたいなやつ だったろう。いいえ、髪の毛は赤かったが即座に頭を下げられて痛みは引きましたと言う と、そうかいと目尻に皺を寄せ微笑んだ。  
 
 あいつは、見かけは今時の格好してるが、真面目でな。まだ十九だ。十六の時、働かせ てくれって独りで店に来た。安いぞっていったら構いません、住み込みでもいいでしょう かと言うんで、家は何処だって聞くと答えない。親に黙って高校を中退して電車に乗った そうだ。実家は南の方でな。よく働く。去年足の上に墓石落として指を潰したんだが、夕 方まで大丈夫ですって我慢してた。馬鹿たれだよ。骨が折れてた。風呂には一緒に入らな いが、黙ってよく動くやつだ。  
 孫ほどの人間に自分のこれまでの技術を渡そうというわけですね。と言葉を挟むと、に やっと笑って、オレも若い頃無茶やってな。親方に拾われた。その恩返しだ。この人には もっとやってもらってな。と老人はママに言ってこつんと杯をカウンターに置き、こちら の顔も見ずに、肩をまたポンと叩いて、ふらりと店を出ていった。ママはお気をつけて、 と入り口まで見送ってから振り返り、このあたりじゃあああいう人あんまりいないわよね。 と同意を求めるような笑みをこちらへ寄越した。  
 泡盛を続けて頼み、上品に盛られた梅干しと鮭におろし山葵が乗った茶漬けを一気に腹 におさめると、暖簾が割れて、森田商店の主人が、居た居た居ましたと入ってきた。主人 の後ろには村沢の顔があった。箸をおろした。
 来ちゃった    
 
 灯油を運んで部屋の前にいくと、彼女が立っている。聞くとあなたを待っているという。 そのうち戻るでしょうと言ったが寒いから、銭湯に行って聞いたらちょっと前に来て、ア リサカの親父と一緒に出たと聞いた。谷田部のとこかなと思って、焼鳥屋に行ってわかっ た。女を待たせちゃいけないなあ。そこまで一気に森田商店の主人は説明して、村沢を隣 の椅子へと座らせた。 
 谷田部っていうのか  
 まず焼鳥屋の名前に関心していた。森田に頭を下げて、どうぞと別の椅子をすすめた。 ママは、カズちゃんの友達なのとこちらを向いた。さっきまでアリサカのおじいちゃんと 一緒だったのよ。ママは森田に親しそうに話しかけた。そこで会ったよ。この人は店のお 客さんだ。ビール頂戴。駄目よ。車置いてらっしゃい。配達の途中でしょ。わかったわか った。森田は、戻って来ていいかなとこちらを向くので、勿論と答えてから見送った。そ して村沢の顔を見た。  
 ワタシにもビール下さい。とママに注文してから、もう一度、来ちゃったと呟いた。卓 上コンロを持ってきたのだという。お料理くらいワタシが作ってあげようと、卓袱台で決 めていた。あの部屋は何も無いから。思わずこちらも、あなたの横で眠りたくなって、あ の後本当に眠ってしまったと、呟き返していた。  
 聞こえない振りをしているようなママに、今日のあれこれを話してみたくなったが、森 田が来るまで我慢しようと思った。  
 ああ、美味しいと見覚えのある白い喉を伸ばして、ビールを飲む村沢の唇に泡が残った。 左手の中指で唇の泡を拭いとり、その指をまた舐めて、あなたの話してくれた指のこと車の中で考えていた。とグラスをみつめたまま話した。多分しるしだわ。忘れないっていう。 あなたは、全部受けとめちゃった。そうしてワタシにもあの指娘が少し宿ったみたい。  
 刺身の盛り合わせを頼み、ヒラメを箸で口に運んだ。なぜか妻の料理を思い起こしてい た。お総菜など買わず、必ず料理をする女だった。皮膚炎で丁度今頃の季節指先が裂ける ので、洗い物を気がつけばこちらが預かって行っていた。ベランダのプランターには様々 な花があり、水をあげて育てていた。だがこちらは隠れて時々インスタントのラーメ ンや、レトルトのものを温めて腹に入れることがあって、育ちが悪いのだからと悪ぶった こともある。季節の魚を買ってきて三枚におろし、刺身で二日に分けて喰った。焼いた魚 も二人で丁寧に食べた。本当に自分の記憶なんだろうかと悩ましい心地に傾いた時、ワタ シも此頂戴。という村沢のはっきりとした声が届いた。  
 古酒をグラスに注ぐママが、カズちゃんはねえ、アタシの同級生でね。と、こちらの寡 黙を察知して話し始めた。小学校、中学校と同じクラスだったのよ。アタシは若い時分は 東京で過ごしたんだけど、あの人はずっとこっちでね。真面目なのよう。不意に堰を切っ たように饒舌になったママは板前に、シッタカ出して頂戴。と言って、おごるわと加えた。  
 頬を少し赤くした村沢は、この古酒っていうのはじめて呑んだわ。とママにお代わりを 頼んだ。ママは東京にいた若い頃を話すと、村沢は頻りに肯いて相槌をうって話を急かし た。しばらくは女たちの会話を肴に酒がすすんだ。  
 おまちどうさまと森田が現れた。最初に会った時と、印象が随分変わった。酔いも手伝ってあの赤い部屋は、一体何なのとこ ちらから親しげに話しかけ、左隣の椅子をすすめた。  
 もうアタシたちの関係話しちゃったわよ。ママの明るい声に森田は戯けて、まいったな あ、人には言うなって約束したじゃないか。村沢もこちらも泡盛が回って、けらけら笑っ た。森田がビールで身体を緩めるまで待とうかと、今日 の顛末を話した。途中から村沢が話を引き受けて、こちらの部屋の指のことまで及んだ。 ママが、カズちゃんの奥さんの部屋じゃない。と挟んだ。灯油を運ぶ住所を聞いた時、 気がつきました。森田はグラスにビールを注ぎながら話しはじめた。 
 妻とは母親の葬式 で知り合いました  
 親戚が彼女に用事を言いつけたのが切っ掛けで  
 家にふたりだけになった    
 歳が離れてましてね  
 わたしは家業を引き受けて何年にもなる  
 これからどこか別の土地で暮らすなんてできない  
 店はあそこでいいから  
 住む場所はマンションか何かにしようって無理を言う  
 店はあなたの会社だから毎朝通えばいい  
 最初は可愛いことを言うと思いました    
 仏壇が嫌なのかと聞いたがそんなことじゃないと言う  
 わたしも逃げられたくなかった  
 二十近く違うとね 溺れるふうだった  
 あの部屋を借りてね  
 独りで住まわした  
 ママゴトみたいで楽しかった  
 けれど店には足を入れようとしない    
 多分指の跡というのは  
 絵の具じゃないかな  
 暫く谷田部に絵を習っていたから  
 赤い部屋は  妻のギャラリーなんです  
 
 でも結局逃げられたのよね。とママが、何かをさえぎるように横槍を入れて、森田は黙 り込んだ。アタシにも頂戴。とママはビールの栓を抜いた。ママはその結婚に反対したん じゃない。と村沢が唐突に言うと、そうなの、結婚式も披露宴もしないで籍だけ入れたっ て言うから、じゃあパーティーでもしましょうよってアタシが同級生とかを呼んだの。そ したらあの娘来なかったのよ。
 人見知りが激しいんだ。森田は言い訳をママに続けると、 ママは違うわ。と区切った。もういいじゃないか。居ないのだからと森田は酒の燗を言いつけて、皿に箸をのばした。  
 卓袱台はあなたが作ったものではないのかと尋ねると、違う刑務所の服役者です。と答 えた。椅子もスタンドもガスコンロも棄てたよと言うと、森田は肯いて、指の跡には気が 付かなかった。谷田部は妻に余計な事を教えたんだ。と深い溜息をついた。
  
 赤いギャラ リーに伺ってもいいかな   
 構わないと森田は肯いた。村沢はすでに酔いが回っているようだった。我々はこれで帰 ります。またお店のほうに行きます。と森田に伝え、女の腰を支えて立ち上がり、オアイ ソと言うと、ママはアリサカのおじいちゃんからいわれているからいいわよと言ったが、 そういうことではないと支払って、森田に色々とありがとうと頭をさげ、店をでた。出会 ったばかりのふたりは酔っぱらってふらりふらりと歩いた。村沢は、何度も大丈夫。ダイ ジョウブ。と呟いている。脇を抱えた腕に女の柔らかい重みのほとんどが乗り、だが、そ れが何故か心地よかった。このままずっと歩いてもいいと思った。焼鳥屋にはまだ客もい て、谷田部の動き回る姿が路を挟んでみえた。女がいなければ森田の妻のことを尋ねたい 気もした。  
 部屋へ昇る階段をひとつひとつ女の身体を持ち上げるように踏んばってあがるとドアの ノブにビニール袋がぶら下げてある。部屋のストーブを点けると、後ろに村沢がコテンと 横になって寝息を立てた。 
 村沢を布団に寝かせて、こちらもストーブを抱えるように身を曲げて眠ってしまっていた。窓の外が白く明らんで来る頃目が覚め、壁に寄りかかった まま村沢の顔を眺めた。酔いは引いて、湯気を出して沸騰していた薬缶に水を注ぎ、その まま銜えて喉に流した。  
 まだ酒の残る頭が現在を把握しようと鈍く動いた。散漫に放られた断片が符合し関係し た結果のまた新たに膨れた断片が、何処かに符号を求めるのは道理でもある。だが自分は、 そういう関係の外にいて単なる傍観者にすぎない。而もこの断片の欲望は、隠された構造がいずれ明らかになるパズルを解くような明晰な認識の広がりに肯きたいという種類では 無く、出来事に絡む人間たちの存在の網でできている。「一体誰の為の赤いギャラリーだったのか」という問いを、禅問答のように立てて、人としての倫理を考えよとこの街から 促されるのはなぜか。  
 間近で女が布団で寝息を立てていること自体、いずれ符合する関係の総体に辿り着くた めの不可欠な断片に思えてくる。村沢の緩く上下する膨れた胸と、薄く開かれ呼吸が漏れ る唇をみつめたまま時間は過ぎた。ドアの脇には、卓上コンロと、可愛いような食材の入 ったビニール袋が置かれてある。紫陽花の模様の布団に眠る女を眺めることが、自身の目 的だったような錯覚も膨れた。列車を降りた時から、ひとつの導きに招かれているのでは ないのか。空虚に白く霞んだようにこの街に住むのではなかったか。身体を微かに動かす 度に、世界が大きく揺れてしまう。顎に伸びた髭を指で触れながら、物音のしない朝早く、 思念ばかり太く邪に覚醒していく。さすがに透明人間のように振る舞うつもりはなかった が、誰もこちらの詮索をしない。頑なな拒絶が相として貌に刻まれているのかもしれない。 否逆に、全てがあからさまに耳元や肩などに顕れているのだろうか。与えられた白い紙に 並んだ問題を解く為の、公式もメソッドも喪失して、途方に暮れた十代の頃の試験の感覚 に似ている。身動きができない。 ふいに村沢の瞳が開かれた。   
 起きていたの  
 酔ってしまったわ  
 でも美味しかった  
 古酒  
 もう朝なの  
 警察にいかなくちゃあね  
 ごめんなさい  
 
 すっかり眠ってしまったわゆっくりと物憂げに女は呟きを洩らした。黙って肯くと、女 は、寒いでしょと布団を腕で持ち上げた。上下のスウェットと下着を脱いで隣りに横にな り、女の服を脱がした。  
 部屋に白い朝が忍んでストーブの火の灯りもそれに溶けはじめた。素肌を重ね静かに抱 きしめると、身体が冷たいわと首に腕を回してこちらを強く抱き寄せ、柔らかい熱を帯び た太股を股に差し込んだ。  
 互いの唇を吸い、濡れて膨れた性器を互いに確かめて深く交わった。女の唇から酒と情 欲の香りが溢れていた。君はチフミではないなと囁くと、女は喘ぎながら焦点の乱れた瞳 をどこか遠くへ放るように違うわと耳を噛んだ。腕や胸、腹から腿に走る青い血管が時折、 桜のように赤らんだ皮膚の中、深いコバルトに染まった。二人とも動物のように呻き、求 めると身体は応じ、白く仰け反った美しい喉を曝して、果てる度に関節を失っていくよう な形で、絡み合って悶え続けた。  
 やがて沈み込んでから、身体を弱く痙攣させる弛緩に任せた。
 
 今一体何時なのかしら   
 今日も大雪みたい
 女は窓際に裸で立ち、曇った窓ガラスを右手で拭った。白い尻に誘わ れて立ち上がり後ろから腰を抱き、首筋を噛み柔らかく尖った胸を揉んだ。

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