北上する河川に西から注ぎ込む水量の豊かな渓流添いを車で一時間ほど辿り、鬼女の伝 えが残る村の管理する有料の路を源流へと更に進んだ。鎌倉の頃から男たちが修験の場に 選び、おそらくそれ以前にあった山岳信仰と渾然となって、脱サラしたような山伏たちが 霊験を求め、女人禁制を布いて時には荒々しい男色に染まった憶測を容易に抱かせる、特 異な形態に隆起変成した連山の裏側の深い渓谷で、複雑に織り込まれた地形に阻まれ、人 間の居住には厳しく、北の尚深い山谷が、それ以上の移動を許さなかったのだろう行き止 まりに、この国では数少ないブナの原生林が残された。そこ迄の路は途中のダム建設の為 に開発された筈のもので、ダム開発に伴った緩和策だろうかわからないが、それでも上流 の保護された公園まで舗装が延長され、人気のある名所として管理する村では、その収入 に大いに頼っているという。
信仰の連山の東側の、今では陽射しや人の足が気楽に届くペンションなどの建つ、明るい、地方都市が広がる盆地まで麓が大らかに伸びる空間と違っ て、西側はV字に陰が差し、切立つ岩山の真下には源流が堅い岩盤を砥めて孤立していた。 西から滑り落ちる斜面に背丈の高い群生林が、谷に吸い込まれる風の形に姿を習い、放置 されるように渦巻く大気を従えて凛然と在った。
数か月前までは、大雨の濁流に路を破壊 され、復旧に二年はかかった。その前にも同じようなことが何度かあった。と聞いたのは、 新しいカメラを売り込む主人に辟易し、壁にあった雪景色を尋ねた時だった。シーズンに は大勢の人間がおしかける。五月の休みには残雪の中、芽吹きと水芭蕉を楽しめる。夏にはキャンプをする客で賑わう、どこにでもある行楽地だが、いざ時期を外すと人気の途絶えた、原生の森が圧倒的だと大袈裟に説明されて、レンタカーを借りるまでココロが動い た。
山を行くことにそれほど時間を割いた記憶はないが、振り返れば足を運んだ場所が延 々と数えられた。そもそも親の都合で、山村で幼少を過ごし、土を掘り、練って遊んだ記 憶も小さいが鮮明にあり、然し、暮らし自体が間借りの、土着とは裏腹のことであったか ら、そういった環境への執着は薄い。宿場の構造を観察する日々に熟れて、他を望んでいた。
閉鎖される雪深い冬期に数週間を残すばかりとなった晩秋であったが、足元に踏みしめ られた照葉落葉は湿り気を帯び、陽射しには温かみがあった。谷をけずるように吹き抜け る風と足元を流れる渓流の音が交ざりあって、腹を撫でるような静かだが重い音響が辺り に弱く渡り、間合いを測るように鳥獣が叫びを挟んでいた。渓流を独行する釣人と営林か 土木関係の人間のものと思われる車が数台あるだけで、夏にはキャンプ場として混雑する らしい駐車場には、人影が見当らなかった。車の進入を規制するゲートが踏み切りの遮断 機に似た作りで路を遮り、遠くにこんもりと見えるブナの原生林までは車を置いて数キロの上りを歩かねばならなかった。原生というのだからと欝蒼とした暗い森を考えて、青い 鳥でも見るかもしれないと大袈裟に構えることを遊んで、建設会社の跡取りから防水の長 靴を借り、望遠レンズまで携えたのだったが、二キロほど歩いて舗装が途切れたあたりで、 ワンピースにヒールをひっかけた女性を連れた中年の背広姿に出会い、すれ違いざま頭を下げられて、その時は、気楽な場所なのだと落胆しながら、こちらも挨拶を返していた。 脇にちょろちょろと染み出た水で喉を潤してから、振り返ることもなく、湾曲する片側が 崖となった轍の凹みが水溜まりをつくる路を歩き続け、ようやく見上げるような林の入り 口に立った。
原生林は全体のボリュームはあるのだが、葉の抜けた枝のせいで明るい。原 生の林を迷走する散策路が記された地図をみつけ、大雑把に頭へ入れた。確かに植林され た針葉樹とは違って、葉を大方落として尚数十メートル上空に枝を広げ る様は、非日常の空間と怖気づくには充分な偉容を誇った。季節柄、鳥獣たちの貴重な蛋 白源となるブナの実を啄ばむ、活性のいい叫びや、羽音、中には正体のよくわからない雄 叫びも遠く聞こえて、枝がその虚空で切る風と、下方から立ち上る渓流の渦の振動が足元 で交響し、枝を踏む足音も木霊するように思い切り響いた。原生とはつまり放置であって、 人の介在した散策路はあるけれど、暴風雨か落雷で樹木が倒れ、絡み合ってこちらと全く 無関係な空間を形成している。顎を上げ口を開けたまま痺れたような心地のまま歩んだ。
湿地に光が落ち、視界が広がるおそらく水芭蕉の群生地だろう広がりにでると、不意に 先程のふたりの歩行の残像が湿地の向こう岸に浮かんだ。丸めた背が繰り返されて、そこ に男の思い詰めたかたちを与えていた。背広とヒールで簡単に立ち寄ることは確かにでき る。だが、ロマンチックな空間とは思えない。迷妄とした樹海じゃないか。ちょっと死の うかと誘って、ドライブの折りの悪戯な揺れに酔うように行き止まりまで来てしまった。 歩くうちに髪がこわばり、女の肌も白く透き通って、こんな季節は花もない。誰もいやし ない。女の脹ら脛が落葉とのバルールで男の瞳に発光し、それに迷わず誘われた殺気だっ たような欲情が膨れ、暗がりの幹に押し倒して、これが最後だという幻惑に包まれ強く抱 きあった。鳥獣と変わらぬような果てる叫びを、振り絞るようにあげ、見上げると枝で引 き裂かれた青い空に落ちていくようだった。女はそんなことを囁きながらひとりでワンピ ースを直し、髪に絡んだ葉を指でとり、何かを待ったけれど、男は帰ろうと促して、精の 抜けた、辺りに溶けてしまったような袋のような抜け殻を引きずって歩くと、次第に互い に憑物が落ちて軽やかになった。何か旨いものでも喰おうかメニューをあれこれ尻取りで 転がす会話の途中で会ったのかもしれない。とそこまで何の疑いも挟まずにこちら勝手の 妄想を流した。女はハンドバックを機嫌よく撮り回すようにしていた。戯れにしては、色 気の濃い羨ましい話だ。一端放るように、光合成をしない真っ白な寄生植物をみつけて座 り込み、近寄ってみつめると、肉体の弱く火照る疼きが退き、尖った観念がほぐれ、白い 懸命さの中へ誘われた。「アシュラ」と唇から言葉が勝手に迷い出た。
立ち上がって湿地の縁をゆっくり歩み、倒れた潅木に腰をかけると、足元の褐色の落葉 にぽつんと白いハンカチーフが折りたたんだまま落ちてあった。死のうとしたか。と声に 出すとハンカチーフが匂い立つ気がした。
燈草を取出し、根元まで深く吸って唇を舐め、湿地のどこかに水芭蕉の白い花を探すよ うな無理をした。春の芽吹きの子供の頭位の蕾が密集する、壮絶な光景を勝手に当て擦って、 否、頭じゃなくてせいぜい手首だろう。考えた後で背に小さな怯えがすっと触れた。 瞼を瞑り、谷から吹きあがる冷気に身体をどうぞと差し出すようにすると、投げ遣りな気 持ちに柔らかく包まれた。ハンカチーフを潅木の上に置き、湿地から更に奥へ歩みはじめた。
それなりに登り下りある、時には泥に埋まる足元の不確かな散策路であったので、息も あがり汗を垂らしたが、やがて現代劇の舞台のように静謐に用意された、スポットライト に似た光の束が落ちる柔らかい地面を歩く自らの身体の呼吸と足音が、原生の大気や樹木、 微生物らに引き受けられている安心が広がり、現在を上空から幻視して、世界に一人だけ となったヒトの海月のように柔らかくて弱々しい塊に、人間的な存在の儚さを愛おしく与 えるつもりも生まれた。
見上げると、厳しい季節に備えるような威勢で枝が空を抉るように切っている。数ヶ月 の吹雪や積雪で骨まで曲がる樹木の、服を脱ぎ捨てたような身の投げ出しと見て、年期が 違うな。こちらなど貧弱な都合で生きていると考えたりした。
一時間は歩いた。崖に迫り出した見晴らしのよい岩をみつけて腰掛け、それなりに泥で 汚れた長靴から両足を抜いて、靴下と、上着を脱ぎ、一度もファインダーを覗いていない 重い望遠レンズで真下に向いたカメラを肩から下ろした。数十キロの範囲にボツンとひと つ在る眼差しは、重なった残り葉にこぼれる光と影に、飽きることなく人型を探す風だっ たが、リュックからサンドイッチと缶コーヒーを取り出し腹に入れ、横になると、獰猛な 印象の原生林をブラウン管から眺めている現実感の喪失した呑気さに全身が撓んで、ウト ウトと身体が痺れた。久しぶりに心地よく疲労した。ようやく帰ってこれたのだからこの まま眠ってしまおう。と部屋の床に身を投げる。同じことを幾度か繰り返す浅い夢をみた ようだった。
白紙に鉛筆で線を引くようなイメージを夢の終わりに加える短い叫び声が聞こえた。夢 と記憶が交錯し妻が台所で火傷をしたと思った。振り返った妻が紙を破いただけよ。瞼の 裏に返事を受けながら半身を起こすと、目の前に、原生の林を背にして一人の女性が、口 に手をあて眉を曲げ見開いたような瞳で立ち尽くしていた。上手く動かない口元で吃るよ うに、どうしましたとこちらから尋ねた。
素足だから
女は擦れたような小さな声で答えた。
驚かせてしまった。と口元に残る誕を拭うと、女は帽子をとり、髪をかきわけて強ばっ たようだった頬を解くように少し微笑んだように見えた。
あなたも撮影ですか
私は取材なんです
此処の記事と写真が必要で
一枚も撮影していないのです
と答えにならない言葉を返しながら、女の声を、馳分久 しぶりに耳にした人間の艶かしい悶えのように受けとめて、上着を羽織り、靴下を履き、 長靴に足を差し込んだ。どなたにも逢いませんでしたか。と瞳をのぞくと、この森では一 人にも。私独りとばかり思ってたから。駐車場では、家族が、バーベキューの準備をして いました。と徐々に赤みを表情に取り戻して、照れたように下を向いた。どうぞと、隣へ 座るよう脇へずれると、女は戸惑いなくすっと腰をおろした。煙草に火をつけリュックに 残っていた缶ジュースを冷えていませんがとすすめると、素直な喜びを零して、喉元を白 く伸ばして心地よい音で流し込んだ。缶を持つ女の右手首にあった腕時計をみると、二時 間以上は眠っていた。それ以上会話が弾むということもなく、だがさてと顔を見合わせて、 互いに自然と連れ立って歩き始めた。樹木や鳥の種類、枝振りなどの様子を、たあいなく 話したかもしれない。女は時々立ち止まってシャッターを押し、いつのまにかそれを待つ ようなこちらに走り寄り、再び歩みを重ねた。こういう林では、離れていても女の呼吸が 手元に感じられる。然し独りでこんな乱暴な所へよく来れるものだと片膝でカメラを構え る背中を感心して眺めた。
黙って女の仕事を見守るように立ち止まりながら林を抜け、駐車場へ下る路を呼吸も乱 れない様子で歩む女は、よく眺?節めると今時の若い女性であり、控えめではあったが相応の 飾りも耳や腕にあり、健康そうな足元はこちらと違って汚れがない。跳ねるように歩いた わけだ。使っていたカメラは使い込まれたオートフォーカスのズームレンズが備わった本 格的な一眼レフで、フラッシュも繋いで、自在に扱っている。あれがほらバーベキュー。 と指をさし、こちらの車も肉眼で確認できる距離に辿りつくと、本当に一枚も撮りませんね。 と笑った。
ありがとうございました。と足元を揃えて頭をさげ、雑誌と自身の名字だろうの名前を 並べて、手を振りながら車の方へ走った。車を降りてからはじめて自覚的にカメラを構え、 シャッターを押した。望遠レンズであったから、女の撮り向いたバストアップを捉えたが、 ピントがぶれたかもしれない。
女は思いだしたようにこちらへと走り戻って、ポケットから、これあなたのではありま せんか。と白いハンカチーフを取り出した。私の前に歩いた人のものでしょう。地面に落 ちていたものをあの上に置きました。と説明した。
あんな所に置いたままなんて
何か酷な気がして
ポケットに入れてしまいました
可笑しいわね
あなたのではないとは思ったのだけれど
どうしましょう
困った顔をするので、辺りを見回して、今は閉まっている食堂と管理事務所を兼ねた建 物の入り口に歩み寄り、小さな紙に落とし物と女に書かせて石を添え、雨のあたらない窓 の脇に置かせた。こうすれば、私たちの気が済むわね。と秘めやかな吐息のような言葉を こちらの胸のあたり間近に零した。そっくりそのまま生き物の艶めかしい匂いを吸い込ん でいた。否、あなたの気が済んだ。とその香りに答えると、女は名刺を差し出した。駆け 出しなんです。自分の記事が掲載される雑誌の発行予定日を告げて、車へ走っていった。 広い駐車場をこちらまで迂回するようにセダンを寄せ、女はサングラスをかけて手を振り、 頭を下げて走り去った。こちらもさて帰ろうかと車に近寄ると、脇からご一緒にいかがで すか。と胸板の厚い男が、太ももに隠れるようにした小さな女の子と一緒に声をかけてきた。 調子に乗って作りすぎちまって。夢から醒めたような気持ちが起きて、誘われるまま に香ばしい玉零黍や骨付き肉をビールと一緒に頂いた。女の子が、おなかすいていたんだね。 と言われるまでものもいわずに夢中で骨をしゃぶっていた。こちらよりも随分と若そ うな夫婦が二組み、まだ舌足らずの子供を連れ、宴を広げていた。ひとりひとりにレンズ を向け、住所を聞いて送りますからと、礼を言い、暗くなるまで取り留めもない話をして、 遠く黒い塊になった原生の森をあとにした。
空間を大きく歪ませるような両脇に斜めに連なる地層の間を走り抜ける車の中で、電波 が弱いのかノイズの多いFMラジオの、やたらに笑う女性アナウンサーが大袈裟に喋る今 週の美味しい店を聴き、美味しいものはてめえでつくれなどと口ずさんで満腹な腹を左手 で撫でた。有料の路を出て、五月蠅い喋りが実にシックなジャズに変わり、夕暮れの山陰 に小さく灯りがみえると、ハンドルの間に、腰を曲げあのハンカチーフを拾って懐に収め た女の手つきの奥の瞳が、チフミの眼差しとなって浮かんだ。こちらの妄想が原生の中で 崩れ漂い、移り香となってあの女性に引き取られたような気がしていた。
蕎麦ばかりの毎日では、何か枯れた感じが身体につきまとうなと、跳ねて撮影していた 躍動の形を思い出しながら、明日からの食事を考えた。
河までの途中に大きな郊外型の店があり、そこで、ダウンジャケット、下着、靴下、上 下のスウェット、スニーカーを購入した。汚れ物の洗濯はコインランドリーで、週に二、 三度の入浴の際に行なって衣服のローテーションはそれで十分清潔を保つことができた。 着古したものは切り裂いて雑巾にしてから捨てた。押入の下半分に卓袱台と風呂桶やらを 入れ、上には布団と他一切を入れてもガランとしていた。部屋にはガスコンロも冷蔵庫も なかったから食料などを買い込むこともせずに、ただ雑巾と手とスニーカーと顔を洗う為 だけに流しを使った。幾度と無く最初に戻って、生活を消すように卓袱台を部屋の中央に 置き、隅からこの空虚な部屋を眺めると、自らの肉体がこの空間には不適切、余計な形と して際立ち、膝を抱き抱えた手首から指までの線などが、生き物という淫らなモノなのだ なと悩ましく思わせたが、この形を受け取る何かが、この部屋にあるわけではなかったか ら拘りは生まれなかった。
簡素な生活の形態は結局、安穏とした居心地というものを排除 する働きをする。怠惰に部屋に籠もることができない。眠って研く以外に、こちらにとっ てこの空間の意味がない。部屋を出る時の背後のガランドウに未練などなかった。このま ま帰らなくてもよいと幾度か簡単に考えた。指が消え失せてからは、魘されることもなく、 痕跡を懐かしむ視線を部屋の片隅に投げかけ、時には汚れた指で再現しようと近付いた。
一階の事務所で文字などに飢えていたことに気づき、古本屋で大正から昭和にかけての 小説を数冊を選んで寝床で文字を辿るようになった。小さな文庫本で嵩張りもしなかったが、 読み終えると同じ古本屋へ持っていき、金はいらないから引き取ってくれと渡すと、 商売ですからと購入した十分の一以下の数十円をくれた。誰が読んだか知れない汚れた本 の裏表紙の書き込みなどまで目をやって、出版年を確かめ、古い漢字や仮名遣いを、異な った言語のつもりで辿った。小説と一緒に買った辞書で、記憶に無いような言葉を引き、 成る程とすぐに忘れる程度の理解を印のつもりで、頁を折り返した。自虐的な告白めいた 私小説ばかりだったが、ありのままの吐露の描写に真っ直ぐに前を向き背筋を伸ばした姿 勢を感じ取って、何度か寝転んだ読書を卓袱台へ移したりもした。
ちわ
歩いているのを見たよ
ちっとも来ないじゃない
お寒うなりましたね
面倒臭い
アタシャ月に二回かな
否一度だな
コインランドリーで脱水から乾燥機に洗濯物を入れ替えている時、知古の友人であるよ うな、裏腹のない声をかけられた。焼鳥屋の手に下げられた二つの袋には、それぞれ清水 寺と宮島の写真が印刷され、ずっしりと膨れていた。仕方のない実務を行なう者の顔であ ったので、頭を軽く下げただ眺めた。コインランドリーという代物は、洗濯という観念に 隠れて、つまりあらゆるものを放りこむことができる。いつだったか、犬の糞を踏んだか もしれないスニーカーを投げ込んだ。赤ん坊が乾燥機の中回っていた事件もあった気がする。 焼鳥屋の洗濯物から肉の欠片がこぼれるのではといらぬ心配をしながら、空いている 大型三つ全てを使って洗濯をはじめようとしている男の洗濯をしたほうがいいのはこち らだと教えたくなるようにくたびれたジーンズをみると絵の具のようなものがこびり付い ている。洗濯されたからといって清潔とは言い切れない。それでも焼鳥屋は丁寧に、袋の 中で絡んだ下着とシャツを解きながら、種別に分けて放りこんでいた。そんな男の背中の 肩胛骨の動きを暫く眺めていると、母親の膨れてあかぎれた懐かしい手のひらがそこにい きなり浮かんで、焼鳥屋の背を撫でるのだった。
オレはここにいるよかあさん
声が出そ うになった。
修学旅行の時のものですか
中学の時かな
修学旅行の時に買った袋だ
おふくろが中に米を入れて送ってくれた
今時米なんてどこでも売ってるのに
実家は東京なんだ
おふくろは勿体ないからって何でもとっておく
振り向いて何を聞いていやがるという顔を露骨にして、それがどうしたと口を尖らせて 焼鳥屋は答え、椅子に座り棚に乱暴に突っ込まれていた、水分で膨れあがった古雑誌を手 にして、洗濯を待つ格好に落ち着いた。三十はとうに越えている。同居の家族はいそうに ない。互いに正体のしれない、若くもない男がふたりコインランドリーで二言三言会話を 交わして黙り込んでも、洗濯を呑気に待つ気持ちは壊れない。だが、なぜだか焼鳥屋の存 在に添うように無性に母親が浮かんだ。煙草を取り出して深く吸うと、火を貸してくれと 手を伸ばした。学生の頃の懐かしいような互いの怠惰を許しあった者同志の感覚が甦った。
自動洗濯機が弱く鳴って、こちらの洗濯の終了を告げた。少ない一塊りを解して乾燥機 に入れてから、東京は何処ですかと再びこちらから尋ねていた。千束。吉原弁天のすぐ近く。 と短く雑誌を見たまま焼鳥屋は答えた。乾燥機が止まり、洗濯物をたたんでバッグに 入れると、今夜どうだい。と誘われた。
路面に向って炭を焼き、通行人の胃袋に食欲を煽る香りの煙を団扇で運び、額には汗が 浮かんだ男の表情には、これまでに漠然と感じていた焼鳥屋の飄々とした、どこか学生臭 いイメージは無く、仕事をする人間の端的な形があった。炭火の熱さに唇を歪める時も、 汗を手の甲で拭う時も、一通り支度を終え、客の対応を冗談めかして転がす時も、焼鳥を 焼くという者でしかなかった。ハンバーガーの店などで元気に溌刺と声を出すアルバイトの若者の時間の限られた稼ぎにある無責任な関わりと違って、男はアルバイトだと言った が身の熟しをみると数年は続けている。一切が彼の手で行われる当たり前の態度が、ある 種潔く感じるのは、こちらの妙な先入観の為かもしれない。支えあうのはいいが、交換す る名刺で相手を捉え、こちらも正体を明かさないで済んだ務めを思い出し、集団を前提と して物事を考えた数年で物腰がすっかり依存の形をとり、家族にまで同じように、家族と いう集団を押し与えていたと愚痴が浮かんだ。この男に自分の母親を浮かべたことは、ど こかで自分を遠くから眺めるようなものを感じていたからかもしれない。
歩きながら見かける、公園に座ってサンドイッチと缶コーヒーを飲む背広の後ろ姿や、 路上停車されたタクシーの運転手がシートを倒して仮眠をとっている光景に潜む彼らのス トレスが、最初はそのまま懐かしくこちらに及んだ。だがファインダーを覗くと、そこに 疲弊した人間の、肩を落とした脱力感?節に奥歯を食いしばるように堪えているような凄味が 隠されていた。焼鳥屋の仕事ぶりが、そういった人々の暗闇を照らすように感じるのはな ぜだ。首を傾げて彼の油で輝くような指先を眺めた。
狭い縦長の、カウンターしかない店だったが、暖簾を分けると三人の客が既に赤い顔を して串を並べていた。焼鳥屋は顎で奥の空いた席へ誘い、ビールとグラスと栓抜きを前に 置いた。グラスはよく磨かれ冷蔵庫でビールと一緒に冷やされていた。隣の男が、おあい そと言ってさっさと立ち上がった。塩でいいよな。とこちらの返事も開かずに差し出した 皿には、カワとナンコツとレバーが三本づつ乗せられていた。丁度夕食時に重なって、注 文しておいた焼鳥を取りにくる主婦たちもいて、入り口辺りに座っている男にあんまり呑 むんじやないよ。と声をかけた。晩酌のつまみにと香りに誘われる人間も多いだろう。熱 爛を頼んで他に何ができるのと尋ねた。焼鳥の他は枝豆、冷奴といった簡単なメニューで、 腰を落ち着けて呑むような種類の店ではないが、日々の疲れを簡単に流すには適当で、パ チンコか此処かを選択する常連もいる。背広の二人が座ると店は満員になった。端の男が 焼鳥屋にビールを注ぐと、焼鳥屋は黙って一気に飲み干した。
燥いだ酒にはならない。背広の二人も会話らしいやりとりをしないで、ビールと焼き鳥 を交互に口に運んでいた。二合徳利一本か二本の蕎麦屋の晩酌の他は、部屋にも酒を持ち 込むことのない日々であったので、こうして煙の中呑む酒は無性に美味かった。
随分厚い鉄だね 背広の二人が帰り、カウンターを指で触れて尋ねた。どこにでもありそうな店ではあっ たが、目の前のL字に広がる大きめのカウンターは、端から端まで全て厚さが一センチは ある鉄板でできており、もんじゃやお好み焼き、あるいはステーキでもここで焼くことが できるのかと品書きを確かめる一見の客もいるだろう。所々グラインダーで研かれた跡が あり、醤油ダレの酸が腐食させるのか、客が帰ると焼鳥屋はカウンターテーブルの上の一 切を奥へ片付け、幾度も鉄板を拭く。触れると水平に炭火の赤い熱が伝わると思われた。
前はさ
ここが削ってなくて
ほら
キズものにされちまった
昼間に火花散らして研いてやがる
それでなんか塗りたくってよ
臭いのはわかるが
毎日店の中に放水して
洗うんだよ
鉄は錆びるだろうに
ちょっと足りねえよな
カウンターの角にグラスをコツっとあて、焼鳥屋の返事を遮るように右隣の老人が左腕 のシャツを捲って、身体を支えた際に鋭利な角で抉った腕に長く残る傷跡をみせた。焼酎 を舐める老人の声はだが、認めているような響きがある。焼鳥屋はフンと鼻を鳴らして、 お父ちゃん大袈裟なんだよ。ベビーオイルだよ。と答えた。
植物油とか使ったけど だめ
これがいいんだよ だけど
何度も塗り込まなきゃあいけない
ベビーオイルって赤ん坊に塗るヤツか
マスターはこの鉄板を愛してるってことだな ふん
弱く笑う老人に、お父ちゃん飲み過ぎだよもう帰ったほうがいいぜ。焼鳥屋はこち らを見て、まだ喰いますかと尋ねた。酒だけお代わりを頼み、どこかの工事現場みたいで すねと、老人の左手のシャツをおろして、ボタンを止めてあげた。徳利からグラスへ酒を 注ぎ、ゴツンと鉄の上に置き、指についた酒を舐めてから鉄板を撫でると、確かに薄く油 膜のようなものが覆われ、鉄の質感と思われない柔らかさがある。ホースで水を撒き、火 花を散らしてカウンターを研いた後、ベビーオイルを丁寧に何度か塗って、串に白い肉を 刺す焼鳥屋の一日が脳裏に巡り、その行為の流れに成程と肯きながら、新しい酒を腹に流 した。炭火で膨れ肉汁の吹き出る焼き鳥は、香ばしく酒を誘う。雑巾を何度か勝手に使って、 帰った老人の前のカウンターを拭くと、卓袱台を買った森田商店のガラスが敷かれた テーブルの空虚が同じ健やかさで重なった。酒が目蓋を巡り、指先が痺れ、酒に任せ、客 がこちらだけとなった店で、片づけをする焼鳥屋の立ち振る舞いをぼんやりと眺めてまた 酒を煽った。 焼き鳥じゃあ酒が飲めないんだよ。駅前のコンビニでウヰスキーを焼鳥屋が、こっちは ハムとチーズなどを買って、誘われるまま焼鳥屋の住処へと歩いた。
今日はこれで仕舞う からつき合えと言われた時は、鉄板の意匠になぜか共感したこともあり、だらしなく唇も 垂れ下がるほど酒に預ける気持ちが勝って、他に断る理由を探せなかった。店の中で度々 母親が浮かんだせいもあった。片付けを手伝って皿を洗う焼鳥屋の前で鉄板を拭き、これ でいいかなと伺い、もうちょっとしっかり磨けよと云われて、肯いて繰り返していた。
ほら、壁に柿の木がくっついてしまっているんだ。屋根に実が音を立てて落ちるんだよ。 朝は壁際の細い道が女子校の通学路でさ、ピーピー五月蠅い。借家だという一軒平屋は六 畳がふたつ縦に繋がり、手前に小さな台所と便所があり、家の外には物置があった。噎せ た匂いのする部屋のひとつは、異常な量の書物と、敷かれたままの布団と、小さな炬燵で 埋まっており、奥の部屋にはわけのわからない模様のような画布が床に描きかけのまま広 げられ、ストーブの上には金属の器があって、褐色の塊に刷毛が固まって差し込まれている。 壁には数十枚が立て掛けられていた。絵描きなの。と尋ねると、自称とだけ言って、 台所から氷りを入れたコップをふたつ持って炬燵に座った。鉄のカウンターの店から画布 への展開に、こいつは一体何者だと焼鳥屋の細面の顔が霞んだようになり、それまでの酒 も手伝って吃音が内側に降り、ただ眺めるだけにしようとウヰスキーを口に含んだが、む しろ酒はこちらから抜けていった。このあいだ缶詰を火にかけたら破裂しちまってさ。天 井まで飛び散った。と指差した天井を支える柱に、コカコーラの瓶の破片が差し込まれて いた。窓際の柱に繋げられた自転車のチューブを指差してこれはと尋ねると、黙って近寄 り両腕で引き延ばしながら、こうやって鍛える。身体が肝心だからなと答えた。
しばらくは絵だけ描いていた
アルバイトをしながらな
今は蜜蝋をつかっている
夜中制作をする
火事を起こしちまった
なんであんたを連れてきちまったんだろな
多分あんたのいつまでも他人面をする
惚けた目つきだな
なんでいつもオレをじっとみるんだ
絵をみてくれ
ココロはこうやって画布の上に
みえるようにつくらなきゃあ
いつになく俯きがちに小さく喋る焼鳥屋は、もはや焼鳥屋ではなく、独りの絵描きとな って、創作の一端を垣間見せ、こちらの知りようのない淵に立った目つきで指先をみつめ てひどく静かに喋る。もう一度作品をみせてほしいと言うと、意外そうな顔をして奥の部 屋へ立った。
店に飾ったことがあった
それ何だって客が五月蠅いんだ
飾るのをやめて
雇い主に黙って鉄のカウンターをつくった
皆さん絵ってのは山とか川とか花とか裸とか
良し悪しの前に理解できないと駄目だってよ
わけのわからないものの前で
無防備に立ち尽くすのが 怖いんだ やつらは
作品には意気地や態度が残ってしまう
誰かの為にやってるものじゃないし
絵ってのはさ
手紙でも無し
祈りの果ての奇蹟では無し
意味なんか無い
だけどこれがプライドをつくってしまう
それに引きずられる
オレの場合
あれ以来誰にも見せていないから
自慰ってことにもなっちまうな
でもさあ
この頃
全く知らない人間の手つきで
真っ直ぐに線を引くことがある
そんな時は 鳥肌が立つ
髪が逆立ってさ
自分がとんでもないものに思える
呟くように話す焼鳥屋の部屋は、だが十分に創作のメソッドを組み立てた姿勢が顕れ、 乱雑に積み重ねられた書物も画集ばかりでなく、カテゴリーの異なる専門書があり、同じ 時代を生きたこちらも馴染みのある著者の名前もみえた。作品の全面に雨のように縦に無 数に引かれた線は、画布に盛られた蜜蝋を削るように彫られ、その凹みに幾度も異なった 薄い色が流し込まれて、奥行きのある空間や、具体的な形象が描かれているわけではなか った。先程店で巡らせた焼鳥屋の一日にこの制作を加えようとしたが、それではこいつは 眠れないという困惑で停止した。壁に立て掛けてある作品をみると、まったく同じ手法の ものばかりで、画布の裏にはここ数年を示す制作の年月日が記されていた。制作の新しい ものほど、縦に引かれた線の間隔は狭く、歪まずに真っ直ぐに引かれていた。こちらの眼 差しを導く種類のものではないが、どこか動物の亡骸に似ていると思った。
個展をやらないのか
自分の吐いた言葉に遅延して、森田商店が浮かんだ。焼鳥屋は何も答えなかった。ウヰ スキーを呑む気が失せて、乱雑な書棚から聞いたことのない作家の作品集を取った。独り でひとつの顕れに向かって、自身の全てを与え、その顕れから生のすべてを得ようとする。 絵描きに限ったことではない。米を作る者も、メーカーに努める人間も営みとしては同じ ように固執しなければやっていけない。だが、その生産性が社会的に消費され受け止めら ?節 れることが前提である場合は反復も安定するが、焼鳥屋の柿の実の落ちる部屋の中だけで 繰り返される生を営みと言っていいのだろうか。発狂を押しとどめるだけの作業ではない のか。手元の画集に俯いて、焼鳥屋が炬燵でぽつんと茶を飲み、自分の汚れた両手を眺めて、 疲れたと呟くことを堪えている光景が浮かぶのだった。
焼鳥屋は小さなカセットプレイヤーにテープを入れてスイッチを押して、音響を部屋に 流した。これは友達の作品なんだよ。色々な場所の音をサンプリングしてそれをただ並べ るように編集しただけのものだが、気に入っていて絶えず聴いている。街の雑踏から小川 の流れ。公園か何処かで遊ぶ子供達の声がグラスの中の氷の音に隠れる。雷の後の雨の屋 根を打つ音に薬缶の沸騰する音が覆う。グレコリオのような合唱曲も聞こえた気がした。
此処に来て住んでどれくらいになると尋ねると、ああもう十年になってしまった。と答えた。 暖かくもてなす店ってのが我慢できない。嫌なんだ。ボトルキープってのもしていない。 常連はいるけど何も聞かない。さっさと喰って呑んで帰ってくれたほうがいい。昼間鉄板 をグラインダーで研くと、日雇いの突貫工事をしている気楽さが肉の鬱陶しさを払ってく れる。もう一回りでかい換気扇が欲しい。煙が目に染みて制作ができない時もある。ウヰ スキーをジュースのように喉で呑む焼鳥屋のカウンターの説明は、ひどく明快で合理的に 聞こえたが、鉄を選択した理由が抜け落ちていると言うと、鉄は、存在自体が他を拒絶している。堅牢なくせに尽きて塵になるまで燃えている。オイルを塗ると色が綺麗になるんだ。 錆を拭き取って、新しく燃える肌を用意してやるわけだ。鉄のカウンターの事を話し たのはあんたがはじめてだよ。みんなオレの事阿呆だと思っているから。
気にいったわけじゃないけど、あんたは阿呆ではないと思う。と答えると焼鳥屋は、オ レはホントに阿呆だと思い始めてた。と返した。
最初は物珍しそうな顔をした
ちょっとした物知りや絵描きが店に来て
煽てたり中途半端な蘊蓄を垂らして五月蠅かった
でも 結局 お前は焼鳥屋だってさ
畜生って焼き鳥を焼いて
帰って線を引く
畜生って寝て
畜生って起きる
それに慣れちまってた
妙なヤツが街に来た
久しぶりに会った息子を眺めるみたいな目つきで
じっと眺めやがる
身元調査でも頼まれた探偵かと思ったよ
店で鉄板を眺めて酒を呑んだ客なんかいなかった
此処にいる理由がわからなくなり、立ち上がりご馳走様と靴を履いた。焼鳥屋はこれ持 っていっていいよと、先程手にした画集を渡してよこし、あげるんじゃないよ。返せよ。 これも。鉄の作家だ。リチャード・セラという彫刻家の作品集を渡され、こいつの実物を 観る為にバイト代ためて、飛行機に乗った。焼鳥屋は少し照れるように歯茎を出してはじ めて微笑んだ。 部屋まで歩く路で、グラインダーを手に火花を散らすのは、夜中の呼吸を止める制作を 導く手法に組み込まれているんだと勝手に考えた。幾度も森田商店を思い出したのは、冷 たいガラスのテーブルが、焼鳥屋の鉄のカウンターと似通っているからだろう。ガラスを 覗き込んだ空間に、焼?節鳥屋の作品が映っていれば完璧だが、それは叶わないと思った。
何も無い部屋に戻ると、乳白色のぽっかりと空いた部屋が、未熟で稚拙、臆病な神経を 病んだ者の病室のように感じられて、乱暴に服を脱いで放った。アイツらの住処だって無 性に空虚じゃないかと、自分の計画のどこが壊れているのか探そうと、押入から卓袱台と 布団を引っ張り出し、窓にセロテープで汚れた地図を貼り、プロジェクターのスイッチを 入れて部屋の灯りを消してから、座り込んだが、酔いがぶり返して部屋が傾き、出鱈目な 気持ちに負けた。焼鳥屋から借りたリチャード・セラを捲ると、ベルリンで手に触れた作 品の写真があった。あの時は、おそらく民族の国境を線で引く者たちの、壁という観念が、 島国の柔らかいものと全く違っているから、こんな凶悪なものを作るのだ。邪魔な壁だと しか思わなかったが、今こうしてみると切り詰めた仕草の抽象と受けとめられる。だが焼 鳥屋のカウンターのほうが鉄の意味以上を辺りに放っている。場所のせいだろうか。でか い刃を客に向けて持て成しているわけだ。水道で顔を洗い、水を飲んでから、卓袱台にス ーラージュという画家の作品集を置いて捲っているうちに横になり、「魂」か。と呟いて、 そういえばヤツの名前も聞いていないと、黒く塗りつぶされただけの作品の上に突っ伏して眠り込んだ。
鉄
12月 13th, 2009 鉄 はコメントを受け付けていません