触光軀邪

2月 8th, 2014 触光軀邪 はコメントを受け付けていません

 ゆっくりと徐々に小さく消えてしまってから一旦時を止めてゼロからはじめる緩慢さで繰り返される細い寝息が、夕陽を透かした髪の奥を白く発光させる脰から、喩えるもののない形状で隆起して連なる肩へ、そして肘までの柔らかい稜線と背の膨らみの幽かな微動とがややズレて、吐息という言葉そのものになる。自身の軀では命の肉袋とは気づかなかった。全く異なった意味と価値で存在しているかの淡い皮膚を持つモノの柔らかさが色彩となって見えていると男はこの時思う。指先で軀の輪郭を辿るように薄く触れてこそ生まれる儚さへの官能が指と皮膚の隙間に迷うように浮遊してから灯り、首筋の青く透き通る静脈をやや圧迫すると長い吐息が切断されたかに停止し、頚に走った捩れが律動し小さな呻きが漏れたようだった。肩の後ろに耳をあてると呼気の名残が血流と混じるように弱いけれども透明で硬質な器に変える速度となって鼓膜にぶるんと震えて届く。薄いフランネルが細い腰の谷まで落ちてから尻に膨らみ静謐な肉体の代謝は指先にこれといった確かな動きはないけれど、皮膚の化生となって初めて触れる野生動物の繊細さで脈動する体温が伝わるのだった。背後から緩く腕を回し男の腕は女の腹に置かれる。姿勢は崩さず女の手首が布ずれの自然さで男の手の上に重ねられ指先を包むようにそっと握られたが弱い力であったから眠りの中からの動きかもしれないと男は思った。静かに上下する脇腹に二つの腕をただ重ねただけなのに溶け合って微熱が膨らむ。背後から顎の先を白頚に巻き上がる髪の中へ預け、瞳だけを窓の外の色彩の変化へ動かした男は、軀を女の背骨へ添うようにやや近づけ女の太腿に巻かれた包帯に手を移動させると女の手もついてくる。何も思わずに軀を寄せ合っていることで意識が肉から剥がれるような溶解がはじまり、このオスを産み落としたのはワタシよと女の立場で出任せを自らが女の肉の中の細胞となって呟きそうになる。

 シンクのあるLDには、セミダブルのベッドがひとつ置かれてあり、窓辺にシングルソファがあり、ふたりは病室みたいだねと頷きあったことがある。食事を摂る小さなテーブルと冷蔵庫がシンクの側に置かれてあるがその他は全て別部屋に都度片付けていたから倉庫と化した別のふたつの部屋はそれ以外には機能しない。テラスを伝い歩けば小さな離れの部屋があり女の持ち込んだピアノが置かれている。女は時折懐かしいポップスを弾く。ひとつの部屋で一日の大半を過ごすことにふたりは不自由を感じていない。窓の外には季節外れの木枯れた森を輪郭に持つ湖が人影無く広がり水鳥が浮いている。男は眠っている女に寄り添う哲学的なはじまりの粒子の羅列のようなバラバラ音がする観念の思索が、生命に寄り添い触れる感覚の探索の時間でいつのまにかトロッと融けてペースト状の思念というよりも体液に変わってしまう終わりをもたらす短くどこかに落下するような睡眠の他は、窓際に置いたシングルソファに座り足もとに重ねた古い本を時折捲っては窓の外を眺める。顎を動かせば恢復の繭となった女の横臥の姿を確かめられる距離で、企業コンプライアンスの浅ましい翻訳の仕事を不満など浮かばせないで淡々とすすめることができた。女が足に傷を負う前には男が頭に包帯を巻いていた。同じ場所で幾度か小さく叫んでは踞り繰り返した額の瘤を到頭屋根の低いガレージの梁の角で思い切り削り本人が考えたよりも大量の血が流れ女が救急車を呼び幾針か縫ったが思った以上に傷が深く予後の抗生剤の内服が内蔵を蝕んで青白く横たわる日が続き傷が癒えるまで、女は男の胸に頤を乗せ軀に腕を回し子となった幼気を隠さない無邪気な短いがくっきりと深い睡眠で、家事と離れの部屋で時折教えるピアノレッスンと近所に手伝いに出るささやかな仕事をこの時とばかりに溌溂と熟した。女のこしらえる食事はスープばかりだが、ふたりはパンを浸して食べながらとても美味しいと微笑む。

 元来は丈夫で医者に掛かった事の無かった男をふいに襲ったウイルスが彼の唇から水分を奪って割ったことがあった。濡れたタオルで拭っては高熱に魘される額に手をあて、男にしてみれば仰向けに放り出した他人のような感覚の軀の面倒を、女はつくづく丁寧に水を得たように幾日も続け、労るほうも癒される側も、知っている筈だが知り得なかった互いの存在の感触や重さといった数々を新しく感じ、男の密やかに隠す素振りのあった背中の火傷の痕と堪えきれない吃音や、女の自ら羞恥しているソバカスと小さな胸なども、存在のかけがえのない特異な徴と気づいて、互いの弱さをこそ抱きしめたのがおそらく最初だった。不備無く健全であることのみを伝える自明息災と生きたそれまでの時間の中では、十全を気取るゆえの存在の摩擦や固有なストレスが勝手我侭に成熟し醗酵し人間の隙間に少なからず暗闇をもたらした。此処を照らすひとつの光として交互に自らのどうしようもない壊れを相手に差し出せばいい。これを隙間無く折り返すのは土台無理だったが、病の後には怪我をするなどの偶然をむしろ密やかにどちらともなく待っていたかに受け入れ、一方が絶えず壊れて喘いでいるこの時とばかり入れ替わる互いの役割が守られた。けれども男の頭の怪我も自ら率先して勢いをつけ確信犯となった行為と振り返れば思えたし、女の足に刺さった果物ナイフも椅子に座って林檎を剥く際の力の加減が不自然だと医者に指摘されるほど深かった。子供染みた振る舞いと知りながら痛みを差し出して呻きつつ投げ出す軀こそ相手が求め癒しと救済を含んだ愛の仕草に結実するのだとふたりは腑に落とし、不自然で恣意的な壊れと明らかでもあってもその行為に対しては言葉にせず軀は軀へ近寄った。

 どうしようもなく眠いと横になるとすぐに寝息をたてる女はまだ鎮痛薬を服用しているからだったが、目が覚めれば男の淹れた珈琲の香りが強すぎるわと目の前に差し出された珈琲カップを遮って男に押し戻す。ミルクをマグに温めて砂糖を二杯も三杯も入れて焦点の合わない瞳をホットミルクの湯気の上あたりに固定させたまま啜り、男のこしらえたものを徐々に瞳孔を広げながら捕食におびえる小動物のように平らげ、グラスに残り物のワインを注いで口を漱ぐようにしてからふらっと立ち上がり、脱衣室のドアを閉めずに衣服を真下に脱ぎ落として湯槽に入り、唄声のようなものを囁いて軀を流し、眠いのと濡れた髪のまま横になる。傷口が閉じるまで入浴を控えるように医者に戒められていたが、女は恢復を遅らせたい気持ちを男に隠さなかった。男は女の太腿を膝に乗せて新しい血が滲んで濡れた包帯を取り替え濡れた髪をタオルで拭ってから、時間をかけて食事の片付けをする。既に横向きで寝入っている女の後ろに横たわり長い時間また女の軀に触れて得ることのできる存在の情報に自らを潜入させるつもりもないのに意識は勝手に女へと融けていく。通草など食べたことのない男はーアケビのようだーとぼんやり欠伸のように呟いてから腰に手を回しやや膨れた胃のあたりに手のひらを広げ弱く抱き耳の裏に唇を寄せて夕陽が遺したような濡れた香りを鼻腔に吸い込む。窓の外の樹々に潜んだ獣たちも同じ姿勢と感覚で今を過ごしていると脈絡無く思うのだった。女も眠りの淵で男から軀の中の魂に繊維のようなものが染み込んでくるあたたかさをひとつの安堵のように受けとめ深い湖底に沈むような眠りに落ちる。

 傷が癒えると女は眠りも浅くなった目覚めの時に男の存在が鬱陶しく哀れに感じるのがかなしい。弱く私から離れてと囁いた。ふたりは互いの健全を呪うような目つきをそれぞれの身体へ投げて呆れて放心する。次は俺が寝込む番だと男は言葉にはしなかったが、その弁えが寄り添いを不自然なものにするに十分なひとつの不幸な季節が過ぎ、女には苛立ちと辛辣が頭を擡げ男には臆病と無骨な寡黙が骨や肉に漲ってやはり人間の余白が口を開ける。意識がひとつの軀から遊離できない閉塞の時間を、時には新鮮な他者性の蘇りと諦めた孤独な野生の心で捉えることで誤摩化した冬の手前で、ふいに左手が動かないと女が小さく呟いた。医者には橈骨神経麻痺と診断され二ヶ月もかからずに治りますよといわれたが一向に動く気配を見せない左手を箸で叩き壁に打ちつけ痛いのに動かないと男を睨みつけたが、瞳には甘いものが灯った。女が弾いていた音を聴いて湖畔の小さな集落の若い夫婦が、自分の子供とそれに誘われた友だちのピアノレッスンをお願いできませんかと頭をさげられ週に何度か狭い離れのアップライトで、こんにちわと走り込んでくる小学生に指使いを教えていたので、まずその頓挫を恐れたが、左腕をだらんと垂らしたままでも教えることはできたし、子供たちからいつもとちがってやさしいねと笑われたことが女は嬉しかった。

 横たわる女の背後から動かない左手をゆっくり揉み解す男に女は瞼を閉じながらわたしたちって厄介ねと呟く。男は暫く黙ってから北のほうの話だよと三つの世代に渡る男たちの物語を弱く吃りつつ語りはじめる。早朝の淡く闇を融かす白濁した光の中で女は目覚めると、うつ伏せに頚を捻って顔を横に潰した男が垂らした涎の痕がやや乾いて唇にシーツが付いている。右手を伸ばし男の顎に伸びた髭を女は撫でる。肩の骨張った形を見つめながら、ーコレがモノを想うモノかしら。おいケモノーと囁いて男の髪の中へ柔らかく指を伸ばし夢の中に広がったようだった声の物語を淡く、朝陽が眩しそうに仰ぎ頬のソバカスを金色に反射させて憶いだす。

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